第8話 太陽のない部屋で
晩冬の陽光が剣となって背中に降りそそぐ。しかしその剣は厚い寒気に遮られ、突き刺さるまでには至らなかった。妹は淡々と自宅まで行進する。
玄関を開けると、見慣れない女物のブーツがあることに気づく。妹は僅かに眉をひそめた。自身もローファーを脱いでから冷たいフローリングに足を浸す。
兄、彼女、母親。リビングには三人の人間がいた。
玄関側の見える位置に座っていた母親が真っ先に妹に声をかける。
「あ、帰ってきた。よかった。」
母親は緩慢な仕草で煙草に火を点け、口にくわえる。そしてテーブルの灰皿を引き寄せた。
「何?」
リビングと廊下の境界線で妹は努めて冷たい声を出す。その不機嫌な態度に兄は目に見えて狼狽した。
「あ、あのさ、言いたいことがあるんだ。」
「ふうん。で、何?」
「あのね、私達結婚するの。」
妹の問いに彼女が答える。長く艶やかな黒髪が死神の鎌のように揺れる。
「それは……、おめでとう、ございます。」
「ごめんね。」
妹はくしゃりと顔を歪めてからとても綺麗な笑みを作った。
「なんで謝るんですか。おめでたいことじゃないですか。こんな愚兄を押しつけることになってむしろこっちが謝りたいくらいですよ。どうか幸せになってください。」
「もう妊娠しててね、婚姻届出して来月には一緒に住もうと思ってる。」
兄は早口で言う。
「早いんだね。あーあ、家が広くなっちゃう。」
「私は家事が減るからいいけどね。」
「そっか、私も朝食作らなくていいのか。えへへ、ラッキー。」
「朝はちゃんと食べないと駄目だよ。」
「はいはい。わかってるって。」
兄の小言に妹は明るく返事をする。
「話ってそれだけ?」
「まあ、一応、うん。」
「じゃ、もう部屋行くから。面倒な宿題出たからさっさと済ませときたいし。」
軽快な足音を響かせ、妹は階段を登った。
その姿が見えなくなってから、母親はふうと煙を吐いた。煙草をぐりぐりと灰皿に押しつけ火を消す。灰皿に置かれた煙草は長々と残っていた。
部屋に戻った妹は宿題を開くことなどせず、制服のままマットの固いベッドに墜落した。遮光カーテンのおかげで太陽が我が物顔で侵略することもない。薄暗い室内で少女はひとりになる。
「これはいいことなんだ。」
枕に顔をうずめたまま少女は繰り返し呟く。
「私は喜ばないといけないんだ。」
鼻をすすりながらしばらく横になっていると、妹はそのまま寝入ってしまった。そして目を覚ました時には既に太陽が沈み始めていた。
軽く頭を振って時刻を確認する。いつもならまだ夕食まで時間があった。目元をぬぐい、電灯を点ける。室内は偽りの明るさで満たされた。
壁面のコルクボードには少女が集めた家族の笑顔があって、その一つと同じように少女は笑顔を作ろうとした。しかしできなかった。永遠の一瞬は今になってくれない。
それでも妹は過去にすがりつく。証明を試みる。スマートフォンで電話をかける。相手は前の父親だ。兄の結婚を報告したかった。すると前の父親は驚きの声をあげた後、家族らしく祝福してくれるだろう。妹は家族としてそれを真似ればよいのだ。
しかし電話はつながらず、「おかけになった電話番号は現在使われておりません。」と無機質な合成音声が妹の耳朶をひっかく。
かけた相手が間違っていないか確認して、もう一度電話をする。それでも結果は同じだった。
深呼吸をする。
今度はインターネットに接続し、家族だった者が閲覧できる人口対策課のデータベースを開く。その検索フォームで前の父親の名前を検索する。それは簡単に見つかった。前の父親は既に自殺していた。
「……どうして。」
妹の問いに答える者はいない。かつての家族は千切れ飛び、その一片は暗い水底に沈んでしまった。そして残る一片も妹の手から離れようとしている。
夕闇が穏やかな闇に変わっていく。世界がゆっくりと瞼を閉じようとしている。妹の部屋は偽りの明るさに満たされていた。
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