第2話 これはよくある話だけれど、

 新しい母親は来なかった。

 直前に自殺してしまったらしい。結局朝食を作るのは今日も妹の役目だ。


「もうこうなったら朝食廃止論を唱えても許されると思うんだよね。朝食廃止テロリズムだよ。」


 妹はデザートスプーンを指揮棒のように振り回す。食卓にはいつもどおりの朝食が並べられていた。


「まあまあ。なるべく早く手配してもらうように頼むから。」


 父親は新聞をたたみながら苦笑する。遺族配偶者対策課も母親が自殺してしまったらどうしようもない。


「えー。でもー。」

「そうだよ。もうちょっとだけ続けてほしいな。美味しいし。」

「……わかったよ。しかたないなあ」


 妹は尖らせた唇を少しだけ緩めた。




 今日も兄妹は手をつなぐ。妹の手は兄のそれよりやわらかかった。妹はときおり勢いよくつないだ手を振り回したり、ぎゅっと握ったりした。


「どうしたの?」

「別に。」

「もしかして朝食が嫌なの? だったら無理しなくてもいいよ。僕が作るから。」

「そういうわけじゃないよ。別にいいよ。だって私が一番いいんだもの。」

「それが嬉しいなあ。やっぱ美味しいし。」

「でしょ。」


 妹はぷいと顔を背ける。視線の先には綺麗なままの女子高生の死体があった。朝の太陽が無数の針となって生きていない女子高生に降りそそいでいた。


「あのさ、兄さんの彼女って料理できたっけ?」

「どうだったかな……。できそうな口ぶりだったけど。」

「きっと私のほうが上手いよ。」

「そうかもね。せっかくだから自分の彼氏にも作ってあげればいいのに。」

「嫌だ。あいつなんか全然好きじゃないから。嫌いだから。」


 妹は兄の手を握り直してから溜息をつく。


「私も早く大人になりたいな。そうすれば……」

「そうすれば?」

「別に。なんでもないよ。」


 妹は小さくかぶりを振る。

 そして駅について別れるまでの間、結局兄の質問に答えることはなかった。駅では今日もたくさんの大人が自殺している。電車は十分遅れていた。




 大学に到着したものの講義は臨時休講だった。担当教授が自殺してしまったからだ。来週には新しい教授の名前と補講の連絡が掲示されるだろう。


 彼女も大学に来ていないようだ。兄は研究室に行って自分の作業を進めることにする。


 兄は研究室の扉を開ける。研究生が机に突っ伏しているのが見えた。彼はよくそうやって仮眠をとっていた。


 机に小瓶が置いてあった。海のように青い液体が入っている。手に取って小瓶のラベルを確認するとそれは劇薬だった。天国までの片道切符だ。それを元あった場所に戻そうとしてから、結局自分のポケットに入れる。


 兄が研究生の肩を揺すってみると、死体は呆気なく床に崩れ落ちた。

 研究生だった死体を数秒見つめてから溜息をつく。兄は事務局に連絡をするため研究室を出た。




「言わなくちゃいけないことがあるんだ。」


 夕食。


 三人で観ていた番組が終わると、眉にしわを寄せた父親がおもむろに切り出した。兄が箸を置く。妹は無表情で食事を続ける。


「お父さん、転勤になった。」

「じゃあ……」

「うん。人口配分課に色々訊いてみたけど駄目だった。あっちで新しい家族に配給されるって。お父さんとはお別れだ。」


 妹は黙って食事を続ける。テレビだけが笑っていた。


「いつなの?」

「今月中には出ないといけない。」

「早いね……」


 兄が僅かに視線を落とすと、父親は先より少しだけ声を張り上げた。


「でもほら、お父さん頑張ってな、ちゃんと二人はここにいられるように頼んどいたから。バラバラにならないから。大丈夫だぞ、な。」


 父親は二人の子どもに微笑む。兄は微かに笑った。妹は黙って席を立ち、自分の部屋に行ってしまった。


「……ごめんな。」


 兄は首を横に振る。


「ちょっと様子を見てくるね。」

「ああ。頼むよ。」


 兄もリビングから消え去る。残った父親は箸を取る。しかしそのまま夕食に箸をつけることはなかった。しばらくして騒がしいテレビを消す。断末魔もなく食卓の団欒は死んだ。




 部屋は暗かった。明かりをつければ壁面のコルクボードに飾られた鮮やかな写真が目につくだろう。


 妹は毛布にくるまってベッドに突っ伏していた。楽しかった思い出が水滴となって零れ落ちる。在りし日のきらめきにさよならをしまいと懸命に声を殺そうとしていた。

 だがその努力は徒労でしかなかった。ベッドカバーが無情にも濡れていく。


 兄が暗室に踏み入れると妹の肩が震えた。


「ご飯、食べようよ。」


 無言の拒絶が返る。


「転勤。父さんとお別れだね。悲しいね。寂しいね。自殺なんかしなくても人はこんなにも簡単に会えなくなるんだ。」

「どんなに生きてもさよならばかりなら辛いだけじゃん。そんなのもう嫌だよ。」

「そうかもしれない。だけど僕らは生きている。笑おうよ。そうしないと父さんがひとりぼっちになっちゃうだろ。」


 しばらくして妹の影が動く。


「わかった。ちゃんと笑ってみるから。だから今だけ、今だけ、今だけ……」


 鼻をすする音が二つ響く。兄は。妹は。光の届かなくなった暗闇で泣いた。闇は無言で二人の弱さを受け入れた。

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