そして僕らも自殺する。

ささやか

第1話 死体のように温かい

 暗い朝だった。窓からは朝日が差しこむことはなく、空はただぼんやりとした灰色に覆われている。

 天気に反した軽快な動きで階段を下りると、妹が朝食を作っていた。卵の焼ける匂いが兄の鼻腔をくすぐる。


 朝食を作るのは妹の役目だ。

 それは単純に今この家には母親がいないからだ。そして一家で最も早起きと料理が得意だからだ。


「おはよう、兄さん。」

「うん、おはよう。今日の朝食なに?」

「いつもどおり。あ、スクランブルエッグと目玉焼きどっちがいい?」

「んー、スクランブルエッグで。」

「わかった。」


 朝食ができあがる頃に父親が姿を見せたので、今日は全員揃って食事をとる。


「……ああ、そうだ。」


 新聞に目を通していた父親が言う。紙面でも大勢の人間が死んでいた。


「明後日、新しい人来るから。」

「やっとか。遅かったね。」


 前の母親が自殺してから一週間は経つ。遺族配偶者対策課の仕事は不自然なほど早い。これだけ遅れるのは珍しいことだ。


「ま、これで料理当番からも解放かな。」


 妹は自分で作ったスクランブルエッグを咀嚼した。

 



 父親が一足先に出た後、兄妹も家を出る。兄は大学生、妹は高校生だったが駅までは一緒に通学していた。


 妹はそっと手を握るので、兄はその横顔を見る。


「どうしたの兄さん?」

「別に。今日も生きてるなって思って。」

「生きてるよ。当たり前じゃん。」

「そうかな、生き物の終着点はみんな死なんだよ。何億年も生き物が死んでしまっている中で、今僕達が生きているほうが不思議じゃないかな。」


 兄が微笑むと、妹はぷいと顔を背けた。


「わけわかんない。」

「うん、そうだね。」

「でも生きててよかったね。」

「うん、ありがとう。」


 後方からトラックが走ってきたので、二人は道路の端に身を寄せる。ここは人通りの少ない住宅街だがこの通りを抜けると幹線道路に繋がる。そのため自動車の通行が激しい。


 自動車目当ての自殺志願者が多いこと以外は平穏な住宅街だ。カラスが執拗に喚きたてる住宅街では、今日も誰かが自殺しているのだろう。




「――一八歳未満、あるいは高等学校卒業前の青少年には男女交際が義務付けられており、それ以降も恋人のいない者は交際制度を利用することが強く推奨されています。これらの目的は自殺願望の抑制です。」


 講堂に教授の抑揚の無い声が響き、誰の耳にも突き刺さることなく消えていく。


 学生の数は初回の講義の時と比べてすっかりまばらになってしまった。その理由は講義を欠席する学生が増えたというより、人生を退出した学生が増えたからという方が正確だろう。


 兄は真ん中あたりの席に座っていた。


 教授の話に先んじてレジュメに目を通すと青少年の自殺者数のグラフが載っている。グラフはほぼ平行線だった。


「この交際義務に関しては様々な問題が存在しています。まず、一部の憲法学者からはこのような義務を課すことは憲法違反であるとの批判が根強くあります。もっともこのような制約もパターナリスティックな制約として許容されるというが政府ないし多数の学説の見解です。


 この問題は前回の講義でやったのでこれ以上深く立ち入らないことにします。もっと気になる人はレジュメに参照してある資料を読んでみてください。あと、この本も新書でわかりやく書いてあるのでおすすめです。」


 白墨が黒板にこすれる音が鳴る。軽快で、でもどこか切羽詰まったような音だ。


 兄は教授の禿頭から、最前列に座る長髪の女性に視線を移す。その黒は電灯の光を反射して美しく艶めく。

 彼女こそが兄の恋人だ。


 講義が終わると潮が引くように生徒がいなくなる。その中で彼女は兄の一つ前の席に座った。クルリと椅子を回して兄へ肉体を向ける。


「ねえ。今日はこれから暇?」

「特に予定はないよ。」

「じゃあ。デートをしましょう。」


 彼女は身を乗り出してミルクチョコレートなキスをした。

 兄に断る理由はなかった。




 まるで赤子が泣いているような雨だった。それでも彼女は微笑む。


「雨、降ってきたね。」

「まいったな。傘なんて持ってきてないよ。」

「私も。じゃあ今日はこのままでいこう。」


 二人して子どものように濡れる。駅前の商店街は首吊り死体でいっぱいで、色とりどりの服を着た死体が風鈴みたいに冬の小雨に揺れている。誰かが泣いているようだった。だけど誰も泣いてやいなかった。


 先行する彼女がスキップで少女の死体と青年の死体と老人の死体を通りすぎる。


「どこに行こうか。」

「ここじゃないどこか。」

「どこなの?」

「どこかだよ。」


 彼女はすぐそばにあったホテルを指さす。


「そうだ、ホテルに行こう。」


 兄の返事も聞かずに彼女はホテルに入る。受付に生者はいない。制服を着た死体が鎮座していた。


「死んでるね。」

「そうだね。」


 代わりに受付機で部屋の空き状況を確認してみるとどこの部屋も埋まっていた。彼女は青ざめた顔でさっと振り向く。


「どうしよう、世界は絶望で溢れている。」

「大袈裟な。みんな雨だから外に出たくないんだよ。」

「私だってシャワー浴びたいよ。というか寒いよ。」

「我儘な。傘なんてさす人間は二流だとかなんとか言い出したのはそっちじゃないか。」

「もうなんだっていいよ。セックスしようよ。そうすれば少しは体も温まるよ。よかったね、これで私たちは死体じゃないって確認できる。おめでとー。ぱち、ぱち。」

「はいはい。じゃ他のホテル行こうか」

「はーい。」


 彼女が差し出した手を握る。その手は死体のように温かった。

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