詩作・随筆集 新雪

純丘騎津平

詩作 『新雪』

 男はひざまずき、かじかむ手で猟銃を構えた。


 呼吸を止めると、木々を跳ね返る鳥の声さえ、聞こえなくなった。耳が痛むほどの静寂の中、自らの心音だけが、ただ轟々ごうごうわめき立てる。


 彼の、青く澄んだ瞳が映すのは、勇壮ゆうそうな頭角を備えた、一匹の牡鹿おじかであった。

 深々と大地にこうべを垂れ、雪面に顔を覗かせる芝をむ。

 樹木の隙間から指す陽光を、その一身に受け、漆黒の体毛はなまめかしく輝く。

 過酷で、容赦なく、不平等な自然の中に有って、その牡鹿は美しかった。


 男は息を止めている事さえ忘れ、見入っていた。

 手の震えが止まらなかった。

 身を刺すような厳寒のせいでは無い。彼は恐怖していたのだ。


 何故、自分はあれの生殺せいさつを握ろうと言うのか。

 生きる為か、それともほまれの為か。それがおのれの目的だと言うのなら、その為に、あれを殺す事は許されるのか。

 たかがちっぽけな人間ではないか。

 死して灰に返るより仕方が無い、粗末な男。

 照準機しょうじゅんきの先の、あの牡鹿の姿を見よ。

 己より遥かに尊いではないか。


 男の凍える喉を、濁流の様な空気が通り抜ける。

 彼の肺は、これ以上、もたなかったのだ。


 ほんの僅か、照準機が揺らめく。

 銃口がれると同時に、漆黒の躯体くたいは駆けた。

 心中には一欠ひとかけらの逡巡しゅんじゅんも無く、ただ直情ちょくじょうに、鋭い武器を振るった。


 生は、本能。

 恐怖は、さが

 本能よりずる恐怖が引き金を鈍らせるのなら、死もまた生き物の本懐ほんかい

 

 今は死せよ、狩人。

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