飛び込んで来た言葉
@Waterearth2
第1話
私は一人暮らしのアパートに戻ってきた。夜の帳が下りていたが、街は煌びやかな灯りで賑やかだった。その様はまるで黒いベルベッドの布の上に宝石をばら撒いたごとくだった。仕事が終わったばかりの私はぼろ雑巾のようにくたびれ果てており、倒れこむように部屋へ入った。
高校を卒業して三年目の春になるが仕事はまだ慣れなかった。理由の一つは、頻繁に職場のメンバーが変わることだった。仕事の過酷さの割に見合う給料ではないので、辞めていく人間が多く人の入れ替わりが激しいのだ。私も辞めてしまいたかったが意地で続けていた。
ベッドに倒れこんだ私の耳に、スマートフォンのメール着信音が入った。正直に言って取るのも面倒だったが、取り出してメールを見た。
信じられなかった。
その送り主の名は私に、苦々しさをもたらした。いやそれはどうでもいい。もう何年も連絡を取っていないのに、何故メールを寄越して来たのか?
メールのタイトルにはこうあった。
『誕生日おめでとう』
私はスマートフォンを持ったままベッドから身を起こした。そしてぼんやりと画面を見つめていた。
まただ、と思った。机の上に太いマジックで大きく書かれている。
『死ね』
『来るな』
『バカ』
『万年ガキの日』
もう少しオリジナリティのある言葉は書けないのだろうか。そんなピントの外れた言葉が頭をよぎった。この落書きを消そうにも、もうすぐ朝礼だ。担任がすぐに来る。椅子に腰掛けた。太いマジックの文字が、眼の中に大写しになった。ノートと教科書でこれを隠そう、と思ったその時だった。
「何だこれ!」
鋭い響きだった。水晶を集めてかき鳴らしたような声音が、教室を揺らした。
その生徒の顔に見覚えはなかった。ただ同級生くらいなのは分かった。
「こんな事誰がしたんだ!」
その声は教室にこだました。それ程よく響く声だった。落書きのしてあった机をぱしっと叩いて続けた。
「出てこいよ、こんなのイジメって言うんじゃないのか!」
答えるものはいなかった。
私自身も黙って座っていた。
教室の空気は何者も動かせないくらい重く、動くのが憚られるほどだった。息をすれば窒息してしまうような中、彼はまた言った。
「今度、こんな事を見たら俺が相手をする。二度とやんなよ! 文句のある奴はかかってこい、俺はB組の多田だ!」
多田が教室の出入り口を見やった。扉の開く音がする。担任の山折が入って来たのだ。多田は身を翻し、教室の外へと出て行った。
「誰なの、あの子」
後ろに座っていた少女が口を開いた。そこにいた同級生は、あるものは呆気に取られ、あるものは気まずそうな様子を見せていた。
「はい朝礼」
山折は教壇に立つと面倒くさそうに言った。だが、私の机に目をやると態度を一変させた。
「誰だ! こんな事したのは!」
教室は驚きに包まれた。まさか山折が厳しい態度を見せるとは思っていなかったらしい。
山折は普段小馬鹿にされているとはいえ、教師としてのモラルは失っていなかった。ホームルームで生徒を叱り飛ばした後、机の証拠写真を撮り、次にこんな事件があったら警察に相談すると言ったのだ。
さすがに高校三年生になるとそれが重要な意味を帯びるらしく、私へのいじめは目に見える部分ではなくなったが、目に見えない部分では生き延びていた。しかし、陰口などは目に見える場所の悪口の書き込みに比べればはるかにましであった。
目に見える部分でのいじめが減ったのは多田の存在もあったろう。私は多田を探した。しかし多田はまるで完全犯罪を行なった者のように気配を見せなかった。
多田は私の隣のクラスの筈だったが、隣のクラスの生徒は多田をよく知らないと言った。欠席がちで顔もろくに覚えていないと言うのだ。多田の名を聞いただけで眉根を寄せるものもいた。
私は多田を探した。多田はなかなか姿を見せなかった。欠席が続いていたのだ。諦められない気持ちを抱えたまま日々を過ごしていた私だったが、それは突如として変わった。
ある日の放課後、廊下で多田とすれ違ったのだ。
見間違いかと思った。思わず私はすれ違い様、顔をまじまじと見つめた。切れ長の鋭い目は間違いなく多田のものだった。
「多田!」
私は叫んだ。
「何だよ、お前か」
多田は関心なさげに言った。その声は澄み渡った秋の空のようだった。
「またやられたのか?」
「違う!」
私は叫ぶように言った。今多田を引き止めないと、二度と会えないような気がしたのだ。
「あれからもうやられてないよ。君のお陰だ、ありがとう」
「なんだ、じゃあいいじゃないか。またな」
「待ってくれ!」
私は多田の詰襟の裾を掴んだ。多田は驚いたのか、過剰に払いのけようとした。
「何をするんだ!」
「多田、俺には友人がいないんだ」
「ふうん」
「いじめられている奴に敢えて近づこうとする奴なんていない。巻き添えになるだけだからな。だから、お前が友人になってくれ!」
「はあ?」
「頼むよ!」
多田は肩をすくめた。
「友人なんて、なってくれって言ってなるものなのかい?」
「えっ?」
「俺と君の気が合えばそれで友人。そんなもんだろ?」
「気が合わなかったら友人にはなれないって事?」
「それはお互い不幸になるだけじゃないのか」
私は黙った。
「まあしかし、君が俺に話しかけてくれているって事は、それだけの可能性が俺たちにあるって事だ。よろしく」
多田は右手を差し出した。握手だ、と思った私はその手に縋り付いた。
こうして私と多田の付き合いが始まった。
その付き合いはかなり一方的だった。多田はまるで学校に来なかった。このまま退学するつもりではないかと疑ってしまうほどだった。だから私はメールを送った。頻繁に送った。しかし多田が返事を寄越してくるのは三回に一回、いや五回に一回ほどだった。
多田の気まぐれな態度は、私の気持ちを振り回した。私は何度もメールを止めようと思った。それでも止められなかった。
ある日、簡単な交通事故を目撃した私は多田にメールを送った。
『国道沿いで交通事故! 見たぜ!』
多田は返事を寄越さなかったが、私が実況代わりにメールを送っていると、一通だけ寄越してきた。
『大した事がなくて良かった。君も、事故にあった人達も』
私はメールを送り続けた。夏の日に、私は多田を花火大会に誘った。多田は断ったが、何度も誘ううちに多田は気を変えたらしく、誘いに乗ってきた。町外れの川べりで多田と待ち合わせの約束をしたが、私は三十分前にはもう着いていた。
待ち合わせ場所から少し下流に行った川べりで花火大会はある予定だった。その日は夕方になっても大変蒸し暑く、暑気が肌に貼りつくようだった。その川は広く、海に向かって静かに流れていた。川面には街の灯がきらきらと映っていた。川の両岸は、多くの人で賑わっていた。その賑わいの声がまるで川の流れのようにざわめいていた。
「よお」
多田は現れた。少しぶかぶかの紺のTシャツを着ており、制服とはまた違うイメージだった。
「久しぶりだな」
「ああ」
多田はそれだけ答えると、こっちだろ、と川の下流を指差して、私の前を歩いて行った。
私は多田に話しかけた。だが、多田はうん、とかああ、とかの曖昧な返事をするだけで、会話にならなかった。その返事も人の声にかき消される。私達は川沿いを歩いて下って行った。多田を誘った事を後悔し始めたその時、声が聞こえた。
「町中の人が集まっているんだな」
多田のその透きとおるような声に私の内心はとどろいていたが、ああ、と口の中の返事しか出来なかった。
「この中で、果たして自分の仲間はいるのかって考えた事ないか?」
私は大きな声で答えた。
「ないよ」
「そうか」
多田は納得したようだった。それで私は先を続ける気になった。
「多田は仲間を探しているのか?」
「違うよ」
即答だった。多田は続けた。
「探しているのは仲間じゃない。そんな生ぬるい奴じゃないよ」
残照を浴びる多田の顔は鋭く、何者も寄せ付けないといった意志を感じさせた。切れ長の目には柔らかさなど微塵もなく、やや丸い頬には影が落ちていた。多田の聖域に触れてしまったのかもしれない、と私は思った。
「それじゃあ、僕は全く届かないな。君に……」
語尾が掠れているのが私にはわかった。すると多田はちょっと呆れたような素振りを見せた。
「君、誰にでもそんな面を見せるもんじゃないぜ。自分を見せた途端、オセロで白と黒が変わるように態度を変える奴だっているんだ」
「迷惑なのかい?」
「人間がすべて善意だけで成り立ってると思うところから、ディスコミュニケーションが始まるんだよ」
「善意?」
「そう。それは素晴らしい考えだけどね。でも実際はそこから生まれた争いだって多い。フロイトとユングだって、肝胆相照らす中だったけど結局はひどい喧嘩別れをしたんだ」
聞き覚えのない固有名詞が出てきた所で、私は多田の話についていくのをやめた。よくわからなかったからだ。しかし多田は続けた。
「ほら、そうやって君は聞き流してる。でもそれが出来るのは、俺が話に関心がなくとも許してくれると思っているからだ。違うかい?」
多田の言い方は柔らかかった。まるで私に教え諭すような口調だった。その声を聞いていると、道に迷っていた時に正解を見つけた時のような気持ちになるのだった。多田の瞳は穏やかで、声は優しく、おとがいは柔らかい丸みを帯びていた。
多田はまた前を向いた。辺りはすっかり暮れてしまい、水銀灯だけがただ私達を照らしていた。私と多田は人波の一番後ろに付いた。人波は大きく、川べりの様子は全くわからなかった。私の場所からは人の波しか見えなかったからだ。
やがて花火が上がった。周りからも大きな歓声が上がった。花火は大きな狂いのない円を描いて消えていく。それが次々と上がっては消えた。
多田は何も言わなかった。身じろぎもせず打ち上げ花火を見つめていた。
果たして、スマートフォンのメールの送り主は多田だった。私は自分の未練がましさにうんざりした。スマートフォンからアドレスを消せば良かったのに、何故消さなかったのか?
私と多田の付き合いはそれからも続いた。めったに返事がなかったが、私はメールを送っていた。私と多田の付き合いとはそういったものだった。
たまに多田が登校したと聞きつけた時は、多田のクラスまで勇んで行った。多田は私が来る前には既にいなくなっていることが大半だった。
多田のクラスメイトは多田の名を聞くと、たいてい無関心そうな顔をするのだが、その時は違っていた。廊下で出会ったその女生徒は、声を潜めて私に囁いたのだ。
「多田はね、とても出てこれないと思うわよ」
意味がわからず黙っている私に、その女生徒は追い討ちをかけた。
「よく学校に来れるなと思うもの。私だったら転校するわ」
「どういうことだ?」
私は女生徒を睨んだ。襟元を掴まなかったのが不思議なほどだった。女生徒は私の様子など気にもとめず、鼻でせせら笑った。
「せいぜい仲良くしてるといいわ」
「多田を悪く言う奴は許さないぞ」
「馬鹿にされてるのよ、あなたは。後悔するわよ」
「なんだと!」
廊下にいた人間が一斉に振り向いた。それ程私の声は大きかった。女生徒は怯むと、身をすくめて駆け出して行った。
一度だけ、多田が思わぬ場所にいるのを見かけたことがある。それはパソコン室だった。授業が終わるのを待ちわびたように入室したのを見かけた私は多田に声を掛けたのだ。その時多田はまるで悪事でも見咎められたような顔をした。そしてすぐに表情を変えて教室を出たのだ。ネットでも使おうと思ってね、と多田は軽く肩をすくめた。
ちっとも学校にこない多田にノートを貸す事もあった。今思い返せば、何故ノートを貸したのだろう。止めれば良かった、と何度も考えた。ノートを貸さなければ、私が多田とあんな風に別れることはなかったかもしれない。
爽やかな風が窓から入ってくる秋の放課後だった。多田が、貸した数学のノートを返してくれるというので、私は誰もいなくなった教室で待っていた。その日の多田が登校して来たかどうか私は知らなかった。
私はしばらく待っていた。多田に会うのは久しぶりだ。
果たして多田は、私がもう帰ろうかと考えた頃にやって来た。
「やあ」
多田に悪びれるところはなかった。
「待ったかい?」
「待ったよ」
「ふうん」
真新しい学生鞄からノートを取り出す。
「助かったよ」
「そう、それは良かった」
多田から受け取り、ノートをぱらぱらとめくる。
私はぎょっとした。心臓が掴まれたような心地だった。
ノートには赤いペンで、いくつもいくつも書き込みがあった。数学のノートの筈なのに漢字のとめはねがおかしいといった記述から、この数式は誰が証明したかとかいう専門的な話まで、事細かに記してあった。
「多田……」
私の声は震えていた。多田は何食わぬ顔で私の声を聞いていた。
私はしばらく何も言えなかった。あまりの衝撃に頭の中が真っ白になったのだ。馬鹿にされてるのよ、と言う女生徒の声が蘇った。多田も何も言わなかった。沈黙がその場を支配した。ボクシングでノックダウンされたような気持ちが続いたが、やっとの事で自分を奮い立たせると多田へ向き直った。
「これは何だ」
「何って?」
多田はクリスタルの輝きを思わせる声で答えた。それがまた私に衝撃を与えた。
ゆっくりとかぶりを振ると私は言った。
「このノートだよ! 何だこの書き込みは。嫌がらせか?」
「間違えている所を直して、知らなさそうな所を書き加えただけだよ」
「そんな事頼んでないだろ」
「そう?」
多田は真正面から私を見た。
「じゃあノートだって頼んでない」
あまりの発言に私は呆気に取られた。
「君は断らなかったじゃないか!」
「君はノートを貸す時に、要るだろ、じゃあ貸すよって言ったんだ。そこに俺の意思は関係ない。君は俺に気持ちを押し付けただけだ」
「押し付け?」
「そうだよ。メールだってそうだ。君が頻繁に送ってくるから俺はたまに返事した。でも欲しいとは言ってないよ」
私はまた、アッパーカットでも受けたような気持ちになった。多田は相変わらず私を正面から真顔で見据えていた。一点の曇りもなかった。いっそせせら笑ってくれればいいのに。
「分かったろ。これ以上近づくと俺たちは不幸になるよ。ここまでだ」
多田は死刑執行人の様に私に宣告した。私はその場に崩折れたかった。何故立てているのだろうと私は考えた。足に力は既に無く、がくがくと震えるだけだった。
「何かの間違いだろ!」
私はやけっぱちになって続けた。多田は微動だにしなかった。
「衆人環視の中で僕をかばってくれた多田がこんな事するわけがない! わざとだろ。何か理由があるんだろ!」
「あるさ」
多田は間髪入れずに応じた。
「何なんだよ」
「俺は一千万ドルで売られたんだ」
「はあ?」
私の目の前で花火が炸裂した。怒りは限界だった。多田の胸ぐらを掴もうとしたがかわされ、私は空を切ってその場に倒れこんだ。
「うう……」
教室の床はリノリウムでひどく固く冷たかった。私は握りこぶしで床を叩くと多田に言った。
「冗談で逃げようってのか!」
「そうだよ」
多田はにこりともせずに返事をした。
「俺達は、所詮相性が悪かったんだ。じゃあな」
「待てよ!」
多田は私のその声に構わず踵を返した。そしてずかずかと歩きはじめた。
「待て!」
私は腕を伸ばすと、多田の足首を掴んだ。多田はバランスを失い、教室の扉にもたれかかった。
「何するんだ」
「謝れよ」
「何だって?」
「僕をここまでこけにして。いい加減にしろ! 謝れ!」
多田は足を振り回して私を払いのけようとした。私は強く握ったままだった。多田の足はうんざりしたように強く空を蹴り上げた。私は思わず足首から手を離した。
「俺にそれだけ言えるんだったらもういじめられる事はないぜ」
多田は呆れたように言うと、そのまま教室から駆け出した。多田がどんな顔をしていたのか私は知らない。見えなかったからだ。
私はそれから多田に連絡を取ろうとしなかった。当然と言うべきか、多田からの連絡はなかった。秋が終わると周囲は進路を決めるのに忙しくなり、その中で私も多田のことを思い出さなくなっていった。
その年の冬は寒かった。私の住んでいる地域は元々雪が比較的少ない所だが、それでも雪が降るくらい寒かった。私は早々に就職を決めた。だが、多田がどうしたのか全く聞こえて来なかった。
慌ただしく一月、二月と過ぎ、卒業式となった。卒業式にも多田は来なかった。冬の寒さが残るその日、私は自分が気がつくと多田の姿を探していることに気がついた。なんて諦めが悪いんだろうと自身に悪態を付いた。だが多田を探すことは止められなかった。古い体育館に並べられた椅子の一つに私は座った。卒業式は何事もなく進んだ。校長挨拶、在校生送辞、卒業証書授与、卒業生答辞。しかし私の耳にそれらは入ってこなかった。人の波から多田を探すので精一杯だった。
卒業式が終わった後の体育館で、私は多田のクラスメイトを探し、出来るだけ温厚そうな男子を見かけて声を掛けた。
「多田はどうしたんだ?」
「ああ……あいつね」
温厚そうな割に、多田をあいつと呼ぶ時の声には辛辣な響きがあった。
「あいつは来ないだろうよ」
「どうしてだ?」
「なんでも、引き抜かれていったんだって。外国の大学に」
「外国!?」
「そう」
「なんでそんな所に……」
「分かんないけど、ま、俺達とは違う奴だったって事じゃない」
投げ捨てるように言うと、まるで無関心な表情をその生徒は見せた。そしてその場を立ち去った。
しかし私はその場に立ち尽くしたままだった。多田の言動なら私は一言一句覚えていた。それらを注意深く、丹念に思い返した。思い返してみれば、多田はヒントをそこかしこに散りばめていたように思える。だが私には分からなかったのだった。
『俺は一千万ドルで売られたんだ』
そして多田がそう言った時にどんな顔をしていたか、私は思い出す事が出来なかった。致命的な失態だった。散りばめてあったヒントを読み解く事はおろか、決定的瞬間すら見逃したのだ。
気がつくと体育館は教師達が片付けの準備に入っていた。卒業生が座っていたはずの椅子があっという間に片付けられていく。多田が座るはずだった椅子はもうどれだか分からなかった。
私はスマートフォンのメールを開封した。メールは長文で、ちょっとやそっとで読めるものではなかった。
『やあ、元気にやってるかい? これを読む頃、俺はきっと君と連絡できなくなってるだろう。けれども仕方ない。俺にはやりたい事があるし、そうするべきだと分かっている。
俺はアメリカの大学へ行く。実は誰にも言っていなかったが、随分と前から研究チームに加わっていた。ネットで研究に携わっていたんだが、限界だ。どうしても、一緒に研究しないとこれから先に進まない。このメールを打ったら、俺はアメリカへ行くよ。
君からのメールは随分と楽しかった。俺にメールを送ってくる奴なんてそうはいなかったからね。
もう知っているかもしれないが、俺は生物学上では男性じゃない。女性だ。でも、俺は男性だと思って生きてきた。物心ついた頃からね。初めて動揺したのは小学生に上がる頃だ。スカートを履けと言われて、何故履かなければならないのか本気で抵抗したよ。それからだ、俺の戦いが始まったのは。
そんな俺を救ってくれたのが数学だ。数学の問題を解いている時だけが、何もかも忘れられた。気がつくと高校までの過程はすべて終わり、大学の研究に加わっていた。その道筋を引いたのは両親だ。今回の大学行きも、父親が持ち出した話さ。厄介払いも兼ねてるんだろう。
君はいい奴だ。いじめられる人間でもなんでもない。もしまたいじめられる事があったら、その時は睨み返してやるんだぜ。それじゃあ。誕生日おめでとう。俺のことは忘れてくれ。俺も、君のことは忘れることにするよ』
メールはそこまでだった。私は仰向けになって狭い部屋の天井を見上げた。多田が女だった――! それは、私には大きな衝撃だった。あの女生徒が言った馬鹿にしているとは、そう言うことだったのだ。多田は私などよりもずっと前から一人だった。私は花火大会の時の多田の厳しい表情を思い返した。
メールの送信日時は二年前の春になっている。そうだ。今日は私の、二十歳の誕生日だ。多田はそれを忘れず、どうにかしてアメリカへ行く前にメールを書き、それが今日着くように細工したのだ。だが、どうやって私の誕生日を知ったのだ?
私の頭は混乱していた。ノート。花火大会。廊下。机の落書き。
「そうか……」
私は出会った時の机の落書きを思い出した。あの机の落書きはいつも、万年ガキの日、五月五日生まれと書いてあった。多田はそこから私の誕生日と悟ったのだ。
私は多田へ返信した。元気なのか、いつか会いたいと。だがメールは送信失敗となって帰ってきた。私は送信の失敗したメールを見て呆然とした。そして思わず笑いが出た。
多田は忘れて欲しいと言ったが、これで私は、多田を忘れることがきっと出来なくなる。多田は失敗したのだ。いや、始めから忘れて欲しくなかったのかもしれない。
私はベッドから降り窓を開けた。そして夜空を見上げた。街の光で星はほとんど見えなかったが、天頂に向かうにつれ、微かに星が見えた。私は星に向かって呟いた。
「多田、元気なのか」
果たして、帰ってきたのは車の行き交う音だけだった。
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