1:義妹の家出
春三月、大学での後期授業が終わり、学生たちがテストの結果に少し安堵し、多々焦らされる頃合いだった。
学生という身分を存分に行使し、時間を持て余していた。
東京千代田区にある岩本町昭和道路沿いのJR線が見える神田川が桜一面に覆われているのを見ると、春らしいが終わりなんだなと……。
幾人が足を止めては、また歩き出すこの道で、小島居は同じ事ばかし考えていた。
今日も、この桜を避けることはできない。
それぐらい心に響く風情を感じずにはいられなかった。
川がゆっくりと流れて、それは万華鏡の様でありながら、この世のすべてにみえた。
変わらないモノなどないと、わかりながらも求めてしまう人間の普遍的価値の塊が、そのような形ではないかと勝手に想像してみた。
でも、違う点は幾つもあると気づいてはいた。
桜の花びらのように人間は美しくもなければ、平等でもない。
ましては人間の生死という柵や、社会やすべてが偏見でできているからだ。
今こうして生きていたり、風情を感じていられるのも、ある意味この世にこうして生まれてきたという偏見の上かもしれない。
「生まれなけりゃよかった……」男は小さく囁いた。
誰にも聞こえないぐらいに小さなこの声は、この街の人や車やらの騒音ですぐに消えてしまった。
しかし、それが小島居哲也の本音だ。
やがて、足を動かし、中央通りのある電気街へと足を運んだ。
今日は新しいビデオカメラを買おうと心に決めていた。
それは人間の行動心理学のレポートを作るための統計を取るために必要と考えたからだ。
にしても、新学期が始まろうとするこの街はいつもとは違う人々の熱風に晒されていた。
急ぎもせず歩いていると、何人もが後ろから邪魔だと言わんばかりに身体を当ててくる。
空を仰いでいると、晴れ晴れしい天気がこの秋葉原という街にとってはお似合いだな、と考えたのはどういう理由かは分からないが、それぐらいに御めでたい場所だと熟知していた。
上野アメ横に並ぶ闇市として栄えた『秋葉原』は次第にラジオの街と言われ、時期に『オタクの街』と名を変えた。
今となってはドン・キホーテ発祥の某アイドルのおかげで『アイドルの街』と形を変えてはいるが、いつに訪れてもアニメ文化に便乗し流行したメイドという存在がこの街を闊歩していない日はない。
どこかの老舗喫茶店がメイドカフェを始め、ここから秋葉原アイドルという概念が生まれたという噂があるが実態は定かではない。と、考えている小島居も、どこにアイドルが潜伏しているのか、逢えるアイドルにどう逢えるのかも知らない。
ただ、この街での暮らしが日々を重ねていた。
そして今日も、購入予定だったビデオカメラでさえも、どのようなカメラを買えばいいのか見当もつかない。
気が付けば、いつの間にか日が暮れていた。
仕方がなく、カタログだけを片っ端から袋に詰めて帰宅する頃には、紺色に東京の汚い白の光が反射したような変わった夜空が街燈とは別にこの街から夜を奪っていた。
岩本町から高架下を通ると、栄えている電気街とは違い、人影も寂しくなる。
明かりのある楽器屋のもっと奥に小島居の住んでいるアパートがあった。
築四十年以上といわれる『春風荘』は、名前のワリには、涼しげではなく古風過ぎて威圧感を感じ、まわりのビル街と比べると恰も九龍城を想像させる。
小島居が最初に訪れたときは雑誌で見た軍艦島の集合住宅地に似ているなと思うほどだ。
Uの字に形取られたアパートは、神奈川育ちの小島居にも類をみない。
黄色掛かった街燈を過ぎ、このアパートのフロアへ入る。
そして、いつもの一日を終えるハズだった。
小島居の部屋の前、華奢な小柄の女の子。
何やら退屈そうに扉に寄りかかっている。
小学生ぐらい、大人になりかけた小さな身体で、服装は大人っぽくも子供っぽくもみえる中途半端な緑のコート、雑貨屋さんに並んでいそうな黒にピンクの音符と五線譜が飛んでいる可愛らしいマフラー。
目を合わせるまで、誰だろうか……と思っていたが、それが妹だと気づいたとき、ちょっぴり嬉しいような驚きを隠せずに高い声をあげてしまった。
「雪乃か?」
この変な声に、くすみながらも、「はい」
笑顔を見せた小島居雪乃は、小島居の妹だ。
「また、きちゃいました……」
雪乃は妙な笑顔。
父型の弟の娘だから、本当は義理の妹にあたるのだが、実家にいたとき、何年か小島居の家族と一緒に暮らしていた。
大学入学でアパート暮らしになってから、家族と共に義妹とも、長らく会っていなかった。
正月でさえ、単位獲得のためのアパートに籠っていたため、帰れなかった。
だから、義妹と逢うのも、去年の夏以来だ。
去年のお盆で帰宅している最中、雪乃は東京見学がしたいと言い張り、貯めるに貯めた貯金を崩してこの秋葉原まで遊びに来たことがある。
そのとき一週間ほど、布団は狭い目にあったのを今でも覚えている。
とりあえず部屋で話を聞くことにした。
キッチンには足長のテーブルの他椅子二つ、冷蔵庫が置かれている。
上にぶらさがった紐を引っ張ると、全然眩しくもない電燈があたりを照らした。
眩しくなさ過ぎて、やけに暗い部屋の食器棚からコップを取り出し、余っていたペットボトルの紅茶の中身を雪乃に差し出した。
「ありがとう」
という声が聞こえたので、ちいさく返事を返した。
大学生の一人部屋に小学生がいるというのは、なにやら危ない匂いがする。
その感情にフィルターを通し、妹だからと頭に言訳を繰り返す。
ちょこちょこ紅茶を注ぐ雪乃の口元に目をやるながら、どうして、彼女は連絡もなしに来たのだろうと思った。
だが、それと同時にどうせ去年と同じ観光だろうと高を潜っていた。
だから、そのことを義妹に問いただした。
「観光にきたのか?」
「そんなとこよ」
「はあ」
小島居はとワザとらしく大きな溜息をしてみたが、雪乃はそれに気づいたのか気づかないのかそわそわと部屋中を見渡した。
だが、心底落ち着かないという感情は、彼女より小島居のほうが大きい。
いきなり妹が来ると知りもしなかったので、部屋が猥褻なモノで満ち溢れている。
その中にはロリータ趣味や如何にも盗撮をした代物のデータが溢れている。
さすがにパソコンさえ弄られなきゃどうにかなるが、いつ触りたいと言い出すか分かったものではない。
そう焦っていると、「なにかあったの? おにいちゃん」
不思議そうに雪乃は声を掛けた。
半年の間に、そういうことに気づくような敏感な女にでもなったかのような指摘は尚更に小島居の心を焦らせた。
焦らせたが、それ以上変質な行動をとるわけにはいかないので、オブラートに言訳をつけて、部屋を片付けることにした。
「妹よ」目も合わさずに、「部屋を片付けなければならないから、ここで待っててくれ」
「エロ本でもあるんですか?」
「あるわけないだろ……」
もっとヤバいモノだよ! と心が叫びたがっていたが、心を落ち着かせて席を立ち、寝室兼個室へと足を運んだ。
寝室を片付けながら、肌寒い季節というのもあり、お互い同じ一枚の布団で寝るのは道徳的にも、身体的にも不味いだろうと、夕食の支度ついでに安い毛布が安く売っている店を考えた。
パソコンのデータにブロックを掛け、ハードディスクと秘蔵DVDは箱の奥へと隠した。
ついでにビデオカメラのデータを確認。
バックアップを取った映像と確認できると、一度フォーマットを掛けて無造作にバックの中へと押し込んだ。
ベットメイキングをしているといっても勘違いしないで欲しいが、恰も妹との一晩を楽しみにしているみたいで卑猥としか言いようがないが断じてそんなことは起こらない。
そんなことを考えていると、
「うぎゃあああああああ」
キッチンの部屋から妹の毛虫でも方に乗っかったかのような悍ましい声が聞こえる。
太郎さんでも現れたかと、襖を開け雪乃に目をすると、そこには黒光りする昆虫も毛虫もいない。
その代わり、それより厄介なこのアパートの大柄な住人がそこにはいた。
彼は、勝手に部屋に入って、炊いでいた米をむしゃむしゃと勝手に食べ散らかすのを雪乃は震え慄きながら
「――な……ななな…」
と、男を指さした。
「平澤……またいつの間にか、食べてやがるな」
「おう! この後、すぐに仕事だから先に食べさせてもらうわ」
平澤は、神田にある写真スタジオでカメラマンをしているこのアパートの住人。
身体が高く、体つきは良いのだが、顔はイマイチで顎が長い。
芸能人でいえば、アントニオ猪木……まではいかないが、WBCにも出場した某野球選手を荒く和風らしくした感じと言えようか。
初めて見た時は、この人とは距離を縮めたくないと考えたが、話してみると良い人間だ。
住人同士の挨拶をしているうちに、彼とは息が合い、悪魔的に仲が良くなった。
お互い一人暮らしの身で、平澤は小島居の一つ年上。
ちなみに米代は毎月、平澤から頂いている。
小島居の親の送ってくる米の量が多いので、その分を平澤に分け与えているのだが、その応酬が学生身分の小島居にとっては、かなりの収入源となっている。
「――なんですか? あの人?」
痙攣を起こしたように震えあがった声と指が平澤の頭を貫いているとはいざ知らず、平澤は一杯だけじゃ足りず、もう一杯、炊飯器から米をよそう。
ついでに冷蔵庫の生卵も誘拐されていく。
横目に平澤は、「妹さんか?」
と、尋ねた。
「そういや、一度も逢っていなかったかね?」
と、妹に彼の素性を包み隠して話した。
要は、平澤はこのアパートの住民で、既に社会人であること、そして危害はないことをだ。
性格については言えなかった。
彼とは別に例の映像鑑賞をする仲間ではあったが、そんなことは義妹の前で話せるワケがない。
「そ……そうなんですね」
雪乃は口を歪ませる。
平澤は雪乃を確認し、ご飯粒のついた顔のまま、ニヤっと笑う。
雪乃は軽く会釈をするものの、心底落ち着ける状況ではないのであろう。
食べ終えると食器を洗い場に置き、「んじゃ!」と片手を挙げて扉を出ていった。
おそらく、雪乃からしたら嵐のような存在だったのかも知れない。
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