第5話 5


 ――知らない声だな。

 電話口に桃子が泣いているのに気付いた。そして、桃子を慰めている声が微かに聞こえる。

 なぜ、泣いている?

 そこに居る男は?

 桃之助は通話を切ると、別のアプリを起動してスケジュールを確認した。

 いつの間にか噛み締めていた奥歯から、ぎりぎりと音が漏れ出る。

「くそ……」

 大事なものを、大事にしたいだけのに、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。

 どうして桃子は離れていこうとするのだろうか。

 桃之助の黒曜石のような黒い眼に、影がかかっていく。

 ――あの頃のように、笑いあえたらそれでいいのに。


 それから、一時間の約束を三十分超過して、桃子と木藤はやっと帰った。

 留衣に約束の時間を破ったことを笑顔で怒られ、エンジには涙のせいでメイクが崩れてぐちゃぐちゃになった顔をからかわれた。

 帰ってから、桃子の表情が少し穏やかになったのを見て、木藤も少し安堵した。

 自分は誰かに執着されるようなことはなかったけれど、桃子の家出の理由や先ほどの様子を見ると、兄の存在は彼女にとって重い枷に違いない。

「先生、少しだけよろしいですか」

 お暇しようと思っていたところ、留衣に呼ばれて奥の部屋へ通された。リビングを抜けた先の一室。ベッドが二つある、シンプルな寝室だ。

 先ほど鏡花が桃子をメイクするために使っていたが、綺麗に片付けられていた。

「なにがあったのか、詳細を伺いたいです」

 彼は保護者代わりなのだから、桃子が泣いて帰ってきたのを気にするのは当然だ。二人は立ったまま、話を続ける。

「桃子の兄から電話があったようでした。会話の内容まではわからなかったのですが、彼女が取り乱してしまって……」

 簡潔に木藤が告げると、留衣は手で目元を覆って、溜息をついた。

「そうですか。……あの方から連絡があるのは想定済みでしたが、困ったものですね」

 以前桃子が兄との確執について耳にしたことがあったが、ああも取り乱すほどだったのか。

「担任として、協力できることがあれば仰ってください」

 留衣は静かに首を振ると、木藤に頭を下げた。

「今は、桃子のことを気にかけてあげてください。この問題に関してはこちらで対処します」

「ですが、彼女は」

 留衣の視線を受けて、二の句が継げなかった。

「貴方は一教師です。これ以上は深く関わらないほうがよろしいかと思います」

 決して強い言葉ではないけれど、これ以上踏み込める余地はない。

「お引止めしてすみませんでした」 

 留衣に開放されると、部屋のドアの前に桃子が立っていた。

 崩れた化粧は綺麗さっぱり落とされて、すっぴんのようだ。年齢相応に見える。

 大きな目にはうっすらと先ほどの涙が残っている。

「先生」

「……また、学校でな」

 暫く登校日はない。恐らく会うのは始業式になるだろう。

「……はい」

 お互いに話したいことはあるものの、木藤は桃子の心情を慮って帰ることを選んだ。

 二人の間に横たわる蟠りを感じながらも、振り切るようにしてその場を後にした。


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