第3話 4


 ああ、なんて幸せな一時だったんだろう。

 家事もバリバリこなして、課題も終わらせちゃって、幸せな気分でお布団に包まって……深夜二時。怖い夢を見て、起きてしまった。

 きっと寝る前にエンジくんがリビングでやっていたゾンビのゲームのせいだ。エンジくんのばか。ばかばか。

 昨日九鬼くんに会えて、すごく素敵な一日だったのに!!

「うぅ……」

 布団に潜って、丸くなって防御姿勢をとる。

 二時っておばけの出る時間帯だよね、どうしよう。

 こんなとき、家族が居たら泣きすがって一緒に寝させてもらうんだけど……桃子ちゃんは今日も歩行祭の実行委員会に奔走していたし、起こすのは忍びない。エンジくんなんて論外だ。絶対大笑いした上に子供扱いされるに決まってる。

 ――留衣ちゃん、起きてないかな?

 寝室は、留衣ちゃんだけ一階のご夫婦用の寝室で寝ている。

 ベッドサイドに備えられている懐中電灯を手にすると、そろそろと真っ暗な廊下へ出た。……うえぇぇ、寒いし、暗くて怖い。でも、振り返ったら、部屋まで戻るのも怖くて、なけなしの勇気を前に進むことにした。

 リビングを抜けた先、留衣ちゃんが起きていることを祈りながら、ノックしようと手を伸ばす。耳を澄ますと、静かな家の中に、家電のモーター音以外の音がする。――キーボードを打ち込んでいる音、かな。

 邪魔にならないように慎重に、控えめにノックをする。

「……はい」

 留衣ちゃんの声に、強張ってた体から力が抜ける。

「千和です、あの……入ってもいい?」

「どうぞ」

 ドアを開けると、留衣ちゃんはベッドサイドに置いてあったノートパソコンを閉じた。

「怖い夢見ちゃって、寝れなくて」

 そう言うと、留衣ちゃんは小さく笑った。

「変わりませんね、あなたは」

 反論の余地もありません。

「……ごめんね?」

「いいえ、白湯でも用意しますよ。 すこし待っていてください」

 留衣ちゃんのご厚意に甘えて、空いてるベッドへと腰かけさせてもらった。

 留衣ちゃんは桃之助くんのボディーガード兼執事みたいなものなので、今代わりに桃之助くんのお世話をしている人に連絡しているのかもしれない。

 でも、なんだろう。違和感は拭えない。

 学校がお休みだった日、留衣ちゃんは昼間に数時間このノートパソコンに向かっていた。リビングでビデオ通話していたこともあった。そのとき、たまたま近くを通ったけど、こんな風に閉じたことをなかった気がする。

 ――じゃあ、一体誰に……?

 一人思い当たって、息を呑む。

「どうぞ」

「……ありがとう。ねえ、留衣ちゃん。桃之助くんがね、最近、桃子ちゃんにもあんまり電話してこないんだよね。メールも、全然来ないんだよ」

 聞かなくてはいけない気がして、捲くし立てる。

 ずっと、気にはなっていた。毎日のように桃子ちゃん宛てに来ていた電話とメールが途切れたこと。

「……パソコンの画面、見えないように閉じたのは、相手が桃之助くんだったから?」

 一瞬だけ、彼は目を逸らした。

その仕種で、肯定なのだと察して、背筋がぞわぞわと粟立った。

「そうです。彼女の様子を報告するよう言われたのでね」

 ――桃子ちゃんの様子を……?

 貰った白湯の水面に、不安に歪むわたしの顔が映る。

 桃之助くんの考えがわからない。留衣ちゃんだって、断らなかったのはなぜだろう。

 桃子ちゃんのメールや電話が減ったのと関係あるのかな。

 不安が嵐のような音を立てて、押し寄せてくる。

「留衣ちゃんがここにきたのは、桃子ちゃんの監視のため?」

 ここに来て、もう三ヶ月が経とうとしている。留衣ちゃんは、ここでの生活なんとも思っていないのかな。

 ただのお仕事って言葉で括ってしまうのかな。

 わたしは、すごくすごく毎日が楽しくて、この四人での生活が大切なのに。

 目玉焼きにかける調味料も、テレビの好みも違うけど、衝突することもあるけど、それでも毎日が宝石みたいにキラキラしている。

 それが全部嘘だったと思いたくない。

 桃子ちゃんの笑顔が浮かぶ。

 桃子ちゃんを悲しませたくない。

 留衣ちゃんはそれ以上なにも言ってくれない。静かに、わたしと向き合っていてくれる。

「変なこと訊いてごめんなさい。白湯ありがとう」

 おやすみなさい、と付け加えて、わたしは退室した。

 一口もつけることなくすっかり冷めてしまった白湯を、キッチンの流しへ置いて、水底みたいに静かで冷えきった、真っ暗な廊下を通り抜ける。

 おばけが怖い、なんてもうすっかり頭から抜け落ちていて、代わりにこの生活に亀裂が入ってしまうのではないかという絶望感でいっぱいいっぱいだった。

 もやもやした感情に振り回されながら、時間だけが過ぎいって、気付けば夜が明けていた。カーテンの隙間から朝陽が少しずつ差し込んでくる。

 涙がぽろぽろ落ちてきて、油断したらしゃくりあげてしまいそうで、この水底のような静けさを守ろうと、唇を噛み締めて声を殺した。


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