わがまま悪魔と魔装鎧
ミツキタキナ
第1話
今日も空から天使が降ってくる。
天使虫。
加工されることで今や世の中のあらゆるものを動かしている天使機関の動力源になるそれらは、夕方になると空から降ってくるのだ。
雪のように軽やかに舞い降りる光の粒。
ほんの小さな粒たちは、通りのあちこちにある虫吸いと呼ばれる大きな装置に吸い込まれ、ほとんどが地面にまで到達しなかった。
天使機関の普及によって馬車が駆逐された道路には、いまだ馬車の細い轍のあとが残る。
古い痕跡を残した道路の所々に佇む漏斗状の虫吸いは、いっそ滑稽なほど不釣り合いに見えた。
その合間を、道幅いっぱいになりながら駆動車が走る。
馬無し馬車と呼ばれ、ポンコツと馬鹿にされていたそれらの車は、ここ十年ほどのうちに一気に普及し、今や我が物顔で道を行きかっていた。
傘を差さなければ。
天使虫は、素肌にあたると鋭く痛むのだ。
ラドラーは、傘を差そうと持ち替えたところで、忘れかけていた現実と向き合うことになり、深く重いため息をついた。
右手が、動かない。
利き手ではない左手一本では、傘をさすという作業はとてつもなく複雑で難解な作業だった。
なんとか留め具を外したものの、今度は開くことができない。
道の端に寄り、裏路地の入口部分に身を隠すようにして傘と格闘しながら、ラドラーは昨日の事故を思い出していた。
工場にひとつだけある大きな天使機関。
それは、工場内の機械、ほぼ全ての動力を賄っており、天井近くにある大きな軸から歯車を通してあちこちにその力を供給していた。
ラドラーは、それの整備士を務めている。
いや、務めていた、か。
頬に当たった天使虫がヒリヒリと伝えてくる痛みに苛立ちながら、彼はあの日同僚をかばった自分を恨んでいた。
見すごすことはできなかった? いや、あいつは自業自得だった。なのになんで、俺ばっかり割を食うんだ。
天使機関の暴走による小爆発に巻き込まれそうになった同僚を突き飛ばしてかばったのは、思いやりからか、ただの反射か。
どちらにせよ、彼の利き腕が動かなくなり、仕事を失ったことに変わりはない。
それがあまり褒められた行為ではないと分かっていながらも、彼は元同僚とそれを助けた過去の自分を恨まずにはいられなかった。
「くそっ!」
やり場のない怒りを半ばぶつけるようにしながらなんとか傘を開いたところで、ふと背中を走った寒気に彼は思わず傘を取り落とした。
右肩から下げるようにしゃがんだところで、三角巾で吊っている右腕のことを思い出し、舌打ちをしたいような気分になりながらも急いで左腕を傘に向けて伸ばす。
路地の奥を振り返ってはいけない。
確信めいた考えが頭を支配する。
焦りからか、先ほどから続く悪寒のせいか、震える左手は傘の柄を弾いてしまった。
傘は、薄暗い路地の方に柄を向けて回転するように転がった。
駄目だ、落ち着け。早くこれを拾わないと。
これを拾って路地から駆け出ればきっと悪いことは起こるまい…。
希望的観測めいた予感はあっさりと打ち砕かれた。
路地の石畳を、かぎ爪を持った足が踏む音が少し離れたところで起こった。
もう一度、今度はさっきよりも近くで。
傘の布地の向こう、視界の隅の方に足が見える。
異様に長く、細い獣の足だ。
路地の暗がりを凝縮したかのような黒色をしたそれの先端には、グロテスクなほど大きく鋭い爪がついていた。
影と黒との境をなぞるように、ゆっくりと視線を上げる。
どこまで続くのか不安になるほど長い足の上に、意外なほど華奢に見える肩と猫に似た形の頭があった。
ぎょろりとした大きな目玉と視線が合ってしまう。
縦長の瞳孔を持ったそれは、凶暴さを露わに爛々と光っていた。
アーミアバタムの獣…
ラドラーは、少し前に女友人から聞いた都市伝説の類を思い出した。
悪魔の獣、細長い体をしていて人を攫って食うの。見た人だってたくさんいるのよ。アーミアバタムってここから近いじゃない? 気を付けないと。
人を食う悪魔だなんて、今時馬鹿らしい、と、聞いた時はまるきり信じてはいなかったが、その話は奇妙なまでに今現在のこの状況と重なって思えた。
たった一歩後ろに下がるだけで、人がたくさんいる大通りに戻れるというのに、その一歩が踏み出せない。
天敵に追い詰められて逃げ場を失った草食動物はこんな気持ちなのだろうか。
ああ、神様。
彼は心の中で、ろくに信じたこともないような神に祈った。
浅く、早くなる呼吸を抑えきれないラドラーの様子を見て、その獣はうっすらと笑みを浮かべたようだった。
前足が一本、こちらに向かって踏み出される。
同じ側の後ろ足が次に動き、今度は反対側の前足、後ろ足。
絡まりそうなほどに長い足を器用に動かしながら徐々に迫り来る。
傘が、獣の足にぶつかってわずかに向きを変え、傘の骨に塗られた白い塗料をこちらに見せる。
むせ返りそうなほどひどい、金くさい臭気が路地を満たした。
視界が暗転する。
どこか遠くに重たいものが落ちたような音を聞きながら、ラドラーは意識を手放した。
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