第三回 橋守り
鶴川橋の番小屋に着くと、不寝番をしていた足軽の
「一体どうしたのだ?」
覚平が問うと、福次郎が顔を顰めて首を振った。
福次郎は、まだ若く二十歳になるかどうかの足軽だった。それだけに、覚平を侮るような態度はなく、市太同様に接しやすい手下であった。
「辻斬りでございますよ」
「またなのか?」
覚平が奥の小上りに腰掛けると、市太がすかさず茶を運んできた。
「しかも、一夜で二人もですよ。
「こっちには、誰か来なかったか?」
「定廻りの村井様が先程お越しになられて、怪しい者を見なかったか? と訊かれました」
「それで?」
「何の異常もございませんとお答えしました。それに何かあっていたら、こんな悠長にはしておりません」
「そうか。しかし、続くな……」
覚平が茶を啜りながら呟くと、福次郎も市太も神妙な顔で頷いた。
霜野城下では、春先から辻斬りが横行していた。最初の犯行は、松の内が明けた頃。城下の外れで願人坊主が斬り殺され、次に夜鷹が立て続けに三人斬られた。役人の警戒が夜鷹に向くと、今度は按摩が襲われるようになり、二人の人間が犠牲になった。
しかし、梅雨が過ぎると辻斬りはぴったりと止んだ。尚蔵から聞いた話では、下手人は大身家臣の部屋住みで、家族の手によって座敷牢に押し込められたという噂もあったが、真偽のほどは定かではない。
「今回の下手人は、同一人物でしょうか?」
市太が訊いた。最初に斬られた願人坊主は、市太の飲み仲間だったようで、しかも襲われているのは願人坊主・夜鷹・按摩と、低い身分の者ばかりで、そうした意味でも憤っているようだった。
「詳しくはわからぬが、同一人物であってもらわねば困る」
霜野の城下は、何人もの辻斬りを抱えられるほど広くはないのだ。
市太の茶を飲み干すと、覚平はおもむろに立ち上がって、二刀を腰に差した。
「お出掛けでございますか?」
福次郎が、怪訝な顔付きになっていた。御橋番役である覚平が、出掛ける事など滅多にないのだ。。
「いや、少し橋の周りを見てくる」
「それは朝一番にいたしました。橋には、軋み一つございません」
「いや、そうではない。その辺を見てくるだけだ。この辺りでも辻斬りがあって、河川敷に仏が転がっていないとも限らんからな。心配するな、すぐに戻る」
すると、福次郎と市太が同時に頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
股立ちを取った武士が駆けて来たのは、その日の昼下がりであった。
「御用の筋である」
立ち上がった覚平に、その武士は腹に響く声で言った。
筋骨逞しく、肩幅が広い男だった。押し出しが強く、立ち上がった覚平は一瞬怯みそうになった。
「拙者、鶴川橋御橋番役の臼浦覚平と申す。御用の筋と申されたが、姓名とご身分をお伺いしたい」
覚平は口籠らぬよう、ゆっくりと訊いた。
御用の筋ならば、五文の通行税は免除される。しかし、御用の筋と言ったからと言って、はいそうですか、と通しては橋守りの意味が無い。
産婆と飛脚、藩のお役目であれば、五文の通行税は免除される。産婆と飛脚は恰好や持ち物でわかるし、十手持ちも同様だ。町奉行所の人間も、顔でわかる。しかし、それ以外の者は、身分と役目を証明する木札が必要だった。
「何だと? 名を名乗れと申すか」
怒気を孕んだ声に覚平の全身に緊張が走ったが、意を決して首肯した。相手に怯んで道理を曲げれば、橋守りの意味が無いのだ。
「ほう」
「藩のお役目であれば、木札をお持ちのはず。もし急ぎの場合であれば、こちらの帳面に記帳を願いたい」
男の顔が赤くなる。しかし、覚平は構わなかった。これが、自分の役目だのだ。間違った事はしていない。
かつて、覚平は役目で失態を犯した。そのせいで、御橋番役に左遷された。役目に対して、どこまでも愚直であろうと思うのは、このまま負け犬では終わりたくはないという想いがあるからだった。
それに、通さずに叱責を受けるより、通して叱責を受ける方が罪は重いという、打算も当然ある。少なくとも、自分は決まりを守って通さなかったという名分も立つはずだ。
「自分が何を申しているのか、わかっているのか」
「如何にも」
「うぬ」
やはり、腹に響く声だ。こうやって威圧し、自分より立場の弱い者を支配してきたのだろう。覚平は男に嫌悪感を覚え、それが妙な闘争心も煽った。
「それとも、名乗れぬ理由でもおありなのでしょうか?」
「これは内々の事なのだ。うぬのような木っ端役人の知った事ではない」
「なれど、それで通せば御橋番役の意味がございませぬ」
如何なる者も、例外を許すな。これは、この役目に就いた時、前任者だった男に言われた事だった。その前任者は気難しい老武士で、人嫌いで有名だった。何でも後継ぎになる一人息子を、藩内の政争で喪ったらしい。そして前任者は、覚平に役目を譲ると隠居し、一年後に大量の血を吐いて死んだ。
「おのれ、たかが橋守りの分際で。うぬが認めずとも、勝手に通るわ」
そう言った男を遮ろうと前に出た瞬間、
「やめよ」
と、頭上から熱感の無い一声が降り注いだ。
「これは」
男がしたたかに頭を下げる。覚平も振り向くと、そこには立派な栗毛に跨った武士と、槍持ちや馬の口取りなどの一団がいた。
覚平は、慌てて片膝を付いた。
「すまぬな」
馬上の男はそう言うと、陣笠の庇を軽く下げた。
大身の家臣。恐らく、大組と呼ばれる上士の中でも、かなり名門の部類に入るだろう。もしかすれば、譜代衆或いは一門衆かもしれない。ただ、陣笠に記された〔井桁に蛇の目〕という家紋には見覚えはなかった。
「世良、帳面にはお前の名を書いてまいれ」
馬上の男が、世良と呼ばれた男に命じると、世良はさっきまでの威勢は消え失せ、せかせかと帳面に姓名を記した。
(徒目付組頭、
覚平は、血の気が引く心地がした。徒目付組頭と言えば、それなりの身分の者、少なくとも上士が就く役目だ。そして、その世良を従えるこの男は、それ以上の身分に違いない。
「橋守り、これでよいか?」
「……はっ」
「うぬの忠勤は、褒めるに値する。相次ぐ凶作で無宿人が増え、何やら城下が騒がしい折だ。橋守りはそうでなくてはならぬ」
覚平は胸を撫で下ろした。少なくとも、怒っているわけではなさそうだった。しかし、陣笠を目深に被っているので、表情はよく見えなかった。
「うぬ、名は何という」
「臼浦覚平と申します」
「臼浦……。そうか、お前が」
馬上の男は、そこで言葉を切った。
そうか、お前が。その先は、考えなくてもわかる。五年前の失態の事だ。
五年前。霜野藩がまだ嶺長内の政権だった頃、若年寄・
遁走した田原を追う五人の討っ手の一人に、立信流の免許持ちで、当時は書院番士であった覚平が選ばれたのだった。
五人は田原を藩境の
切腹である。覚平は仕方ないと思った。しかし、それを止めたのは先代藩主であった
「臼浦は逃げてはおらぬ。田原が振り切って逃げたのだ」
という証言だった。
しかし、切腹を免れた代わりに禄高は半分に削られた上、馬廻組格から無足組格へ降格し今の閑職へ移されてしまったのである。
「そうか。しかし、まぁいい」
男は、口許に薄ら笑みを浮かべた。
「臼浦、また辻斬りが出たのは存じておろう」
「はっ……」
「警戒は怠るなよ。鶴川橋は、城下を守る最後の関ぞ」
そう言うと、男は一団に進発の合図を出した。
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