5-11

 自身の背後で、気配がした。

 周囲にひしめく機材の中から、レーツェルは肩越しに、そちらを見やる。


「……案外、いけるもんだな」


 視線の先――気配の主であるその男は、背後の壁の穴の前で立っていた。そしてこちらを認識すると、彼は灰色のコートの裾を揺らして、こちらに歩いて来る。


(ふむ)


 当然、想定していなかったわけではない。だからこそ、ここの上にあれを撒いておいたのだ。

 だが彼がロイとの戦闘で受けた怪我から生還し、しかも上の化け物どもを突破してここまでやって来たという事実には少々驚いた。もはや自分にとって彼の生死はどうでもいいが、なんとも、しぶといものだ。


「よくここがわかりましたね」

「……優秀な情報屋がいたもんでね。それに、地下に入ってからここまでも、行こうと思えば行けるものだったよ。ろくに穴を塞いでもいないとは、不用心なもんだな」

「いやはや全く。上には、もう少し危機感を持って動いてもらいたいものでしたよ」


 少し笑って、レーツェルはまっすぐ彼に向き直る。


「ようこそ。と、言っておきましょうか」

「はン。ご丁寧にどうも」

「初めまして、になりますか。ノイン殿」


 ○ ○ ○


「――市政府秘蔵の研究員様が、しがない討伐屋の名前を知ってるとはな」


 ノインは厳しくレーツェルを見据えながら言った。


「昔、ボスウィット殿から、あなた方のことはあらかた聞いていますので。……あなたと、彼女の中にいる『彼女』のことも含めてね」


 言ってレーツェルは視線を少女――リリに向ける。

 リリは今、この広い部屋の中心に据えられた卵のような形の装置の中で、口に機械的なマスクのようなものを付けられ、浮かんでいた。装置の中には液体が満たされているようで、その様子は、いつしか彼女が言っていた『ふわふわ』した状態であった。


「レーツェル。その子を返せ」

「できない、と言ったら?」

「実力行使だ」


 ノインは〈ギムレット〉を抜いて構える。


「……ここに来たということは、ボスウィット殿からいろいろと聞いたのではないのですか? 返せも何も、彼女は元々ここにいたんですよ?」

「知ったことか。お前らみたいな連中にリリは渡せない。魔法使いの軍事利用だか何だか知らねぇが、俺はリリを連れて帰る」


 ノインは鋭く睨んで、レーツェルをぴたりと照準する。

 だが彼は、怯むことなくノインを見返した。


「それは困ります。市政府の計画などどうでもいいですが、彼女だけは渡せませんね」

「……お前、やっぱり何か別のことを企んでやがるのか」

「ええ。私は別に化け物の軍事利用など興味ありませんよ。何かと都合がいいので市政府に協力していたまでです」

「じゃあ、お前の目的はなんなんだ。リリをどうするつもりだ」


 ノインは銃口をレーツェルに向けたまま彼を問い詰める。


「血の求めるものを作るんですよ」

「……どういうことだ」

「そのままの意味です」

「……変な研究ばっかして頭イカレたか?」

「まともでないのは承知の上です。が、私は嘘は一つも言っていませんよ」

「もういい。黙ってろ」


 ノインは迷わなかった。〈ギムレット〉の銃口をレーツェルに向け、トリガーに力を込める。ノインの目的はリリをここから救出することだ。謎かけのようなレーツェルの話になど付き合う必要はない。狙ったのは彼の右足。とりあえず行動を鈍らせることができれば、それでいい。

 しかし発射しようとした瞬間、その手は無数の何かに絡め取られた。


「!?」


 その正体は、突如として床から生えてきた、無機質な見た目のコード。しかしそれらは有機的にうねっており、触手のようにノインの腕を、そして足をも縛る。


「てめっ……!」

「それはこのホロ・ファクトの防衛装置の一つです。彼女が目覚めるまで、もう少しそのままでいてくださいね」


 謎の機材の一つに片手を置きながら、レーツェル。


「っ! 離しやがれイカレ野郎! てめぇの作ったもんでどれだけの人間が悲しんだと思ってやがる! 全力で一発ぶん殴らせろっ!」


 立ったまま、まるで十字架に張り付けられたような格好でその場に拘束される形となったノインは、もがきながら声を飛ばす。

 するとその言葉に、レーツェルはやれやれといった風に首を振った。


「粗野な人だ。もう少し静かにできないものですかね。これからここでヒトの歴史が変わるかもしれないというのに」

「何?」

「先ほど尋ねられた、私の目的というのはそれですよ。人の歴史を変える――ヒトの極点を作り出し、それを観測するのが私の目的です」


 だがそう言われても、ノインには彼の目的を具体的に想像することができないでいた。

 彼という人物の思考回路が理解できない。

 と、彼は、まるでノインの疑問を察したかのように、こう切り出した。


「せっかくですし、彼女が目覚めるまで少しお話でもしましょうか」

「話だと……?」

「ええ。わざわざここまでやって来た客人に何もなしというのも無粋でしょう? まぁ、退屈しのぎでもなれば幸いですよ」

「…………」


 明確な敵意を向ける者に対して、話とは。

 それは余裕からくるものか、あるいは何か思惑があるのか。

 しかしノインは肯定の意味も込めて沈黙を返した。けして話をしたい気分ではないが、どのみちこの状態では自分は動きようがないし、時間稼ぎをさせてくれるならそれはそれで好都合だ。それに会話のなかに、何か付け入る隙が見つかるかもしれない。

 するとレーツェルは、ノインの沈黙を受け、語りだした。


「時にあなたは――特異点、という言葉をご存知ですか?」

「特異点?」

「ええ。ある事象の究極点。あるいは終着点。世界の理の下、それを外れた異質な点です」

「……そんなもんが、なんだってんだ」

「それを今から作るんですよ。彼女を使って」

「リリを……使って?」

「まぁ正確には、彼女と、このホロ・ファクトや『ホロ・ブラッド』を使って、ということになりますが」

「ホロ……ブラッド?」


 それは、ノインには聞き覚えのない単語だった。


「まぁ、暫定的に名付けてあるだけですがね。言ってしまえば魔法使いの素ですよ。ホロ・ブラッドはこのホロ・ファクト――それも、今彼女が入っているような装置に内包されていた特殊な液状細胞組織でしてね。これには生きている人間の遺伝子情報や記憶、人格を瞬時に侵食し、細胞内に保存する特性があります」

「それが、化け物作りの種明かしか」

「ええ。体内に入ったホロ・ブラッドの作用で人は魔法使い化します。魔法使いの持つ各特徴も当然、その際に付与されるものですよ。後天的に、そして意図的に付与するものもありますがね。そして投与後の検体に意識はなくなり、本能のまま――主に食するという形で、失ってしまったかつての人の形を求めるようになります」


 加えて、ホロ・ブラッドを宿すもの同士は他の生物には知覚できない共鳴波というものを発し、互いに共振するようになるという。これは彼らの言語のようなもので、後天的なインプリントや、命令の実行の際にもこの共鳴派が使われているということだった。

 たぶん、リリの言っていた『音』とはこの共鳴派のことなのだろう。


「……で? そのホロ・ブラッドってのが、なんでさっきの特異点の話に繋がるんだ」

「ホロ・ブラッドというのは人の『情報』を吸収する働きがあるんですよ。その仕組みについては不明な点も多いですが、生体信号に強く惹かれる特性が関係しているのかもしれません。そしてこの特性をあるやり方で限界まで引き出せば、ヒトの情報を極限まで一点に濃縮できる可能性があるというわけです。私はそれを作り、観測したい」


 それは、ヒトの究極体。ヒトの情報を極限まで集めたヒト。

 それの製造と観測が、レーツェルの目的であるらしかった。


「ホロ・ブラッドは、いわば人の情報の接着剤です。条件の揃った『器』にペレット化した他人の情報を流し込めば、それで人の情報は癒着し、濃縮されていく。そしてこのホロ・ファクトにはその特異点観測のためのものとおぼしき装置がいくつも存在します」


 と、そこでレーツェルは目を細め、冷徹な笑みを作って見せた。


「しかもありがたいことに、器に流し込む『水』となるものは、地下にも地上にも、大量にあります。市政府を上手く使いさえすれば、これらは簡単に手に入る」

「っ……!」


 おそらく、レーツェルがこの街の人間を殺したくなかったのは、それが理由だ。一人でも多く、人を融合させるため――そしてリリは、その『器』なのであろう。


「お前は、それのためにリリを作ったのか……!」

「それは少し正確ではありませんね。彼女が出来上がったのはあくまで偶然ですよ。特殊な状況下で出来上がったペレットに目を付けはしましたし、検体として保存管理はしましたが、それで器が出来上がると確信があった訳ではありません。ボスウィット殿からも聞いているのでしょう? 彼女は最初、生物たる形すら取らなかったと」


 レーツェルの話によれば、それはある種当然でもあるのだという。ペレットの記憶や人格、遺伝子情報はホロ・ブラッドに癒着する形で閉じ込められているために、普通に成形しなおそうとしても、培養途中で魔法使い化が始まってしまうのだ。


「じゃあなんでリリは人に……」

「それは私にもわかりかねます。ただ、彼女を構成するペレットそのものが特殊であったのは事実でしょうね」


 しかしそこでノインは、彼の言葉の中から、ある部分を拾い上げて尋ねた。


「……お前、ボスウィットと初めて会った時も、特殊な状況下でできたペレットに興味があるとか言ってたらしいな。けどそんなにソフィアの状況は特殊なのかよ。確かに魔法使いに寄生されるってのは聞かねー話だが、ホロ・ブラッドの話を聞く限り、ありそうなもんじゃねぇか」

「以外に鋭いですね。……しかし、特殊なのは確かですよ。ホロ・ブラッドは一度寄生した宿主を変えませんから」


 誰かを侵食したホロ・ブラッドが別の他の誰かを侵食することは、本来ありえないことらしい。つまり特殊個体とはいえ、魔法使いに寄生されたソフィアは完全にイレギュラーな存在であるということだった。


「おそらくソフィアという女性自身が、特異な体質だったのでしょうね。彼女はホロ・ブラッドを受け入れやすい。あるいは影響を受けやすい体だったということです。彼女の場合、魔法使いと深く接触を続ければ、遅かれ早かれ、魔法使い化していたかもしれません」


 そこでノインはソフィアが時折訴えていた『魔法使い酔い』を思い出した。あれが、その兆候だったとでもいうのだろうか。


「それで、リリはその体質を受け継いだってのか」

「そうです。しかも、どうやらその体質は魔法使いとの接触によって変質し、五年の歳月の中でゆっくりと変化し続けたようなんですよ。それこそ人の形のまま、ホロ・ブラッドを受け入れられるようにね。おそらく、彼女の中のホロ・ブラッドはホロ・ブラッドであってホロ・ブラッドでない何かになっているんでしょう」


 そこでレーツェルは一度言葉を切って、


「ちなみに彼女の見た目は、あなたのパートナーに寄生してきた魔法使いのベースとなった少女のものですよ。五年以上も前の話なので、どこの誰かまでは記憶していませんが」


 リリの見た目がソフィアと全く違うのはそういう理屈らしい。つまり彼女の中にある変質したホロ・ブラッドは、二者の情報を癒着させ、全く新たな命となったのだ。


「そして彼女が人の形を形成したのがひと月前。……確信しましたよ。彼女は人のままでホロ・ブラッドを宿せる者――ここに残された資料にあった、『聖杯』になったのだと」

「聖杯……」

「……神秘を開く扉、とも言えますかね。私はこれがなかなか作り出せなかった。というのも、聖杯には、いわば肉体と精神それぞれに矛盾した条件がありましてね。人を人でなくするものを、人の身を保った上で受け入れられること。そして人でありながら、自我がないこと。これを満たさねばなりません」


 彼が言うには、それが人を聖杯足らしめるきっかけ――つまり鍵であるらしい。そして特に重要なのは自我の喪失なのだという。しかしこれは他人を無意識下で線引きし、拒絶する習性のある『人間』という存在には解決が非常に難しい課題であるとのことだった。

 だがそこで、ノインは先のレーツェルの言葉に疑問符を付けた。


「……自我がないだと?」


 先の条件の後者を、彼女はおそらく満たしていない。彼女の自我は存在しているように思うのだ。それも、ソフィアのものでも、見知らぬ少女のものでもない『彼女自身』の自我が。

 するとレーツェルは、ノインの言葉を拾った。


「確かに、厳密に言えばその点を彼女は満たしていません。目覚めた段階で既に彼女は、自我といえるだけの意識を持ってしまっていましたから。そのせいで、ここもあの有様です」


 レーツェルはノインの背後の穴に視線を送りつつ、肩をすくめる。


「……リリが、ここをぶっ壊したってのか?」

「間接的に、ではありますがね。……一週間前、私はこの場所で、彼女を器として一つペレットを融合させようとしました。当然、薬物で彼女の自意識を抑え込んだうえでね。しかし彼女は実験途中に他者の情報を拒絶し、ホロ・ブラッド同士の持つ共鳴反応を広範囲に発生させた。それで、隣の保管庫の個体が一斉に起動したんですよ。うち一体は、彼女の『嫌悪』や『逃避』の意識を共鳴波でトレースして、命令として実行したようですがね」

「けどそれなら今、リリの自我は……」

「そうですね……衰弱している、というのがわかりやすいでしょうか」


 と、そこでノインはあることに合点がいって、レーツェルを睨み据えた。


「……お前は、リリの心を弱らせるために俺を殺そうとしたのか。それも、リリに殺させるようなやり方で……!」

「ご名答です。ベースとなった女性のものらしき記憶や知識が彼女に一部残っていることは認識していましたので、あなたと出会っていたことが分かった時点で、一定期間放置してことに決めたのですよ。大切な者との死別は、自我を効率よく弱らせるのに都合がいいですから」

「てめぇ……」


 大切な者をこの手で殺す。過程がどうあれ、その絶望の重さは、暗さは、ノインも嫌というほど知っている。


「っ! リリ! 俺はここだ! ここで生きてる! 目を覚ませ!」


 ノインは力いっぱい彼女に叫ぶ。それだけでも胸の傷口が、じくじくとした痛みを返して来たが、そんなことは全て無視した。


「無駄ですよ。たかだか空気の振動が、彼女の深層心理に届くものですか」

「黙ってろ!」


 しかしその時。

 ノインの耳は、ばしんっ、という妙な音を拾った。


(なんだ……?)


 ノインはその音のした方向――リリの入っている装置に注視する。

 リリの入っている装置の壁面には大きな白いヒビが入っていた。そしてそのヒビに手を添えるようにしているのは、目を覚ました彼女だった。だが、その眼は虚ろで、色は真っ黒。


「ついに……」


 そんなレーツェルの言葉が聞こえる。

 すると次の瞬間、装置が内側から弾けた。その内圧で、表面のガラスと中にあるオレンジ色の溶液が周囲に飛び散る。

 そしてリリはかさの減った装置内に着地し、口元のマスクを取り去ると、装置の中から軽やかに飛び出した。床に着地し、その場で直立する。


「リリっ……!」


 彼女を見たノインは駆け出そうとするが、コードは、ノインを強固に縛って離さない。


「これで第一段階がまず完成です。彼女には今、一つのペレット――聖杯となるための鍵が差し込まれています」

「わけわかんねぇ化け物を、リリに入れるんじゃねぇ! さっさと取り出しやがれ!」

「はは、可哀そうに。顔見知りを化け物呼ばわりですか。彼も元は人間――半身をホロ・ブラッドに侵食されてからも、もう半分は人間であったのに」

「なんだと?」

「彼は、かつて私の助手だった男です。半分残っていた人としての倫理観から私の元を離れてからは、長い間公安に所属していましたが……この少女を探すにあたってある条件と引き換えに戻って来てもらいましてね。その条件というのが、私の計画の糧となることでした」

「自分の助手を……実験台にしやがったのか」

「あくまで彼が選んだことですよ。私は少々口添えしただけです。予想しえたことではありますが、彼はこの世界で居場所をなくしていましたから」


 ――と、そこまで言われて、ノインの脳内にはふとある人物が浮かんだ。

 公安に所属していたらしい、半分化け物で、半分人間という人物。『彼』は確か、言っていた。居場所のない化け物の、最後の仕事だと。

 するとレーツェルは、こちらの考えを察して言った。


「ご想像の通りかと思いますよ。彼女に入っているのは、彼です」

「ロイ……なのか……」

「そうです。彼は半分人間ですが、半分は魔法使い――つまりこの少女とはまた別の形でホロ・ブラッドを受け入れられる稀有な体質の持ち主でした。しかも彼は体の一部を自在に魔法使い化させることが可能です。……確かあなたは、コートを着た魔法使いと仰っていたそうですが?」

「っ……そういうことかよ……」


 カリーナを襲ったのは、ロイだったのだ。どうやら彼は、既にその時からレーツェルの元で行動していたらしい。そしてリリの言っていた変な音とは、異質な彼の共鳴波だったのだろう。


「まぁ、彼の体質は不安定でもあるので、器には不向きでしたがね。ただ、その特徴は最初に器に注ぐ水としては都合がいいものでした。半分だけしか魔法使いでない彼が残すペレットに含まれる人体情報は少量で、拒絶反応も起きにくい。おまけに、融合も比較的早く済みます。戻って来てもらって正解でしたよ」

「……お前が投与したのか。人だったあいつに、ホロ・ブラッドを」

ホロ・ブラッドに侵食されたのは三十年ほど前――研究中のちょっとした事故によるものですよ。そしてそれからホロ・ブラッドに刷り込まれた『ある意思』を知り、ヒトの特異点の研究を始めたんです。……先も言った通り、ロイは途中で私の元からは離れましたがね。彼の力は公安が目をつけ、死亡を偽装しつつ転属を繰り返させて戦力として長年確保していたようです。……ああ、そうだ。先に言いそびれていましたが、ホロ・ブラッドは投与された人間の成長を止め、自然死――つまり、寿命の概念をも取り払ってしまうのですよ。の場合もなぜかその特性だけは出ているようですが」


 教鞭を取る教師とはこんなものだろうか、とノインは思う。しかし同時に、ノインはレーツェルの言葉の中に薄気味悪い引っ掛かりを感じていた。

 今彼は『我々がホロ・ブラッドに侵食された』と言ったか。


「お前も……ホロ・ブラッドに侵食されてるのか?」

「ええ。そうです。ただは、ホロ・ブラッドを破壊してしまう体質だったようでしてね。意識だけでした」


 そこで、ノインは背筋が粟立った。

 なら、誰だ。

 精神情報をホロ・ブラッドに侵食されているなら、今ここにいるお前は、誰なんだ。


「いやはや、ホロ・ブラッドを問答無用で破壊してしまうので、に大した利用価値はありませんでした。……いや、数年前、市政府から要望された安全装置を作るのには役立ちましたかね。あのホロ・ブラッド抗体弾丸には、の体細胞が組み込まれていますから」


 いつの間にか、彼は自己を他人のように扱っている。

 得体のしれない恐怖がノインの心臓を鷲掴みにした。


「さて、そろそろお話も終わりにしましょうか」


 言い終わるや否や、彼は懐から一つ、注射器を取り出した。

 そして拘束されているノインの下へ歩み寄る。

 注射器の中には黒い液体が満たされており、さっきまでの話を総合すれば、それがなんであるか、すぐに察せた。当然、彼の目的も。


「やめろ……」

「あなたもこの研究にご協力ください。人間というものは、脳内である程度把握した事柄への適応力は高いと聞きますが、ホロ・ブラッドに関しても、そういうものなんですかね? ああ……大丈夫ですよ? 化け物として苦しむことはありません。すぐに殺してペレットにしてあげますから」


 ノインは強く身をよじる。だがコードによる拘束は、いっそうきつく、彼の体を縛りつけた。


「さぁ、特異点の一部になってください。そしてヒトの極地を、極値を、私に見せてください」


 そして、その声に合わせたかのように、リリの体が変化した。

 首から下を黒い体組織が覆い、それは彼女の体を服――いや、刺々しい鎧のように包む。

 顔や髪は人のままだったが、その瞳はやはり、黒く染まったままだった。


「くっ……!」


 その間にも、レーツェルの持つ注射器がノインに近づく。

 そしてあと少しで――。

 だがその瞬間、聞き覚えのある男の声が背後から聞こえた。


「ノイン!」


 次いで、同じく聞き覚えのある銃声が響く。

 すると、ノインの右手の拘束が突然緩んだ。

 瞬間的に、背後の人物が撃った銃弾でコードが数本破壊されたのだと気付く。銃弾は眼前にいるレーツェルの右肩に刺さったようで、彼は注射器を手放して、後方へ大きくよろめいた。


「っ……!」


 ノインはその一瞬の好機を見逃さなかった。

 素早く〈ギムレット〉の銃口を、レーツェルに向けると、彼の眉間を狙って引き金を引く。

 瞬間、重く、暗い銃声が、部屋に反響した。銃弾は的確にレーツェルの眉間に刺さり、彼は赤い血をまき散らして仰向けに倒れる。

 同時に、先ほどの声の主が、背後から回り込んでくる。


「無事か!?」


 そして彼はノインを縛るコードを力任せに引きちぎると、ノインをその場から解放した。


「ボスウィット……」

「……間に合ったようだな。無事でよかった」

「お前……何で……」

「放っとくのは、後味悪ぃだろうが。……事情を知ってたフィデルに上まで送ってもらった。カリーナたちはもうほとんど魔法使いを片付けてたんで、先にこっちに来た」


 だがそこで、呻くような声が聞こえた。


「……臆病者のあなたが来るとはね……」


 それは、倒れていたレーツェルが発したもの。

 ノインは行動させまいと、再度レーツェルを銃撃する。


「……っクク……私を殺しても無駄だ……もう彼女は聖杯として機能し始めている。……むしろ私がいなくなることで……彼女は血の赴くまま……人を無差別に食らうことになるだろう」

「黙れ。何一つ、てめぇの思い通りにはさせねぇ。せいぜい地獄で悔しがってろ」


 だがレーツェルはそれでもなお、不敵な声で続けた。


「貴様に……彼女を……てる……のか……」


 彼の声はもう、途切れ途切れになっていた。彼の血は床に広がり続けている。

 傷を再生することはない。先の発言通り、彼の体はあくまで人間であるらしい。

 そしてレーツェルは、今一度言葉を発する。


「これも……つの結……か……。だが……空白は……つか……り返す……」


 するとその言葉を最後に、彼の体は体の中心に向かって縮んだ。まるで何かに圧縮されるように、体がべきべきと折りたたまれ、一か所に集合する。そしてその中点には、割れ砕けた黒い小さな結晶体――ペレットとは微妙に違うもの――が残った。そして気づけば、彼のいた場所には肉片一つ落ちておらず、さっきまで流れ出ていた血すらもなぜか消失している。


「……死んだ……のか?」

「だと……思うがな」


 終わり方は、酷くあっけなかった。彼がなんであるか、それはもうわからない。

 最期の言葉の意味も、また。


「…………」


 するとノインはそこで、無言で彼女に視線を向けた。

 彼女は未だ黒の鎧に包まれて、そこにいる。

 レーツェルの言葉からすれば、このままでは彼女は、魔法使いのように無差別に人を食らうようになってしまうらしい。当然そんなことはさせられない。

 それからしばらく、ノインは無言で彼女を見つめていた。

 だがある時、ノインは彼女に向かって歩き出した。

 手に握った〈ギムレット〉の弾倉を、残弾一のそれに換装しながら。


「ノイン!」


 ノインの考えを予想したボスウィットが声を上げる。だがそれをノインは明確に否定した。


「勘違いすんな。俺はリリを助けるつもりだ」


 そしてノインはリリの元まで行くと、彼女の前で跪いた。

 危険だとは思わなかった。なぜなら彼女は――変わってしまった彼女は、いつの日かと同じように、泣いていたから。頬に一筋伝う涙は、言葉よりも雄弁に彼女の気持ちを語っていた。


「……ごめんな。遅くなって」


 言ってノインは、コートのポケットから赤いハンチング帽子を取り出した。そしてそれを彼女の頭に乗せる。そのまま頬に指を滑らせて、彼女の涙もぬぐう。

 と、そこで声がした。


「ノ……イ、ン……?」


 か細い、リリの声。ノインは、それに少しだけ驚きをみせて、


「届いてたのか。俺の声は」

「うん……聞こえた……もう、どこにもいかないで……」

「……大丈夫だ。俺はここにいる。ずっと一緒だって言ったろ?」

「…………」


 リリは返事の代わりにまた一つ、涙を流す。

 するとリリは小さな手でノインの手を取り、〈ギムレット〉の銃身に触れた。そして添えるように銃身を握ると、銃口を自分の喉元へ向ける。まるで、ノインの意志を察したかのように。


「……これ、お前には撃たねぇって、言ったのにな」


 ノインが考えていたリリの救出方法は単純なものだった。

 注ぎ込まれたホロ・ブラッドが鍵となり、彼女を特異点の器足らしめているのなら、それを破壊してしまえばいいのである。魔法使い殺しの魔弾、ナハトレイドを使って。

 それは彼女の中にいるロイの完全消滅も意味していたが、リリがいつまで正気を保っていられるのかわからない以上、悠長に救出方法を模索している時間はない。

 この救出方法そのものに、間違いは無いはずだ。それについては、確信めいた予想がある。


(たぶんナハトレイドは、レーツェルにとっても安全装置だったんだ)


 市政府を掌で転がしていたような彼が、市政府の要望を素直に受け入れてこの弾丸を作ったとは考えにくい。そのことについてレーツェルは言及しなかったが、彼がわざわざこんなものを作った理由は、別のところにあると思うのだ。

 そしてそれはおそらく、ホロ・ブラッドの塊である『器』に異常が生じた際に、それを破壊して止める手段の用意。彼の目的が破壊や破滅ではなく、あくまで現象の観測ならば、その推測は大きくは間違ってはいまい。


(……あとは、、それで終わる)


 狙うのは、魔法使いと同じく脳幹でいいはずだった。ソフィアの時もそうだったが、ホロ・ブラッドは宿主の脳幹に集中して寄生するのだ。それなら、ナハトレイドで魔法使いの脳幹を撃った時、ペレットが残らない理由も説明がつく。

 ただノインは感じていた。ナハトレイドが破壊するのはロイのホロ・ブラッドだけではないと。たぶん自分は、彼女と引き換えに、『彼女』を完全に失うのだと。

 するとその時、リリがノインにそっと寄って、両手でノインの頬をやさしく挟んだ。


「……ごめんね。ノイン」

「お前が謝ることじゃないさ。……いいんだ」

「でも、今までで一番、悲しそう」


 気づけば、ノインの頬にはいつの間にか一筋の涙が流れていて。


「あの人は、あなたに笑ってほしかった。だから、私は――」


 そこでノインは、リリを強く抱きしめた。ただじっと、彼女の温もりを感じる。

 そしてしばらく経って、ノインは彼女を体から離すと、笑った。

 少し皮肉げな、ものだが、それは無理のない、確かな笑顔で。

 するとそれを見て、リリが口を開いた。


「――強くなったね」


 彼女は慈しむように、こちらを見ている。

 しかしその眼差しには、今までの彼女にはなかった光があった気がした。


「……撃って、ノイン」


 ノインは無言でそれを肯定すると、再度彼女の喉元に銃口を向けた。

 そして広大な部屋に、ただ沈黙が下りる。彼らにとっては、長い沈黙が。

 だがある時、空気が震えて。


「さよなら」


 その言葉の後、響いたのは銃声。

 それはあの時よりもずっと明瞭で。それでも重くて。

 最後のナハトレイドは、リリの脳幹を貫いた。

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