三章 引き合うものたち
3-1
「……うーん」
区画外にある、セメントコンクリート製の四階建ての建物――もとい、廃墟。その入り口前で立ち止まったノインは、難しい顔で唸った。右手にはリリの着替えが入った紙袋。隣には、既に泣き止んでいるリリ。
リリは今、ノインのコートを引きずるようにして羽織っていた。
彼女の服――特に上着は先の一件で破れ、血まみれになったため、とりあえずコートだけ脱がせ、自分のものを着せたのだ。帽子やボトムスに関しては奇跡的に汚れが少なく、着替え一式に関しても無事だったが、コートとトップスはもう着られないだろう。ちなみに脱がせたコートは彼女の体についた血を拭うタオル代わりに使った後、朝市のスタッフに事件を報告するついでに市場のゴミ捨て場に捨ててきている。
「……どうすっかな……」
ノインはリリを視界の端に捉えたまま、自由な左手をスラックスのポケットに入れる。
悩んでいるのは、魔法使いと同じ力を持っているらしい彼女の扱いだった。
あれこれ考えているうちにここまで来てしまったのだが、もし彼女が魔法使いと同じ存在だとするならば、連れるのは単純に危険だった。彼女の見た目は人間そのものだが、連中はそもそも人と似た形質を持つ生き物だ。もしかしたら、超がつくほどの特殊個体なのかもしれない。模範的な市民としての行動は、即刻公安に通報し、魔法使いの力を説明したうえで彼女を差し出すといったところだろうか。預かる云々と言っている場合ではない。
しかしそう思いつつも、ノインは結局それができないでいた。
市政府や公安に彼女の力が知れてしまった場合、彼女の運命は明白だ。その場で殺されるか、魔法使い研究機関であるフラグメントにでも送られて、実験体として扱われることになるかのどちらかである。たとえ魔法使いの力を持つことを隠して引き渡したところで、どこかで彼女の力が露見する可能性はあるし、彼女の身の安全が保障されるわけではない。市政府や公安はあくまでこの街の統治機構、治安維持機関だが、化け物の殺し屋組織としての一面も当然あるのだ。自分もそんな組織に属する一人だが、ノインとしては、『彼女』に似た彼女に、そんな運命を辿らせたくなかった。
彼女の犠牲によって魔法使いという化け物の生態が解明され、街の平和に繋がる可能性を想像しないでもないが、そんな平和など、後味が悪すぎて自分には素直に喜べない。先刻は感じていた彼女の面影に対する不気味さも、今となってはすっかり鳴りをひそめてしまっている。
(けど、どう考えたところで、こいつを連れるリスクはあるよなぁ……)
それにこんな特殊能力を持った少女など、その素性がどうあれ、もう純粋に厄介事である。離別する気を逃せば、ずるずると関わる羽目になりそうでもあった。
「うーん……」
ノインはポケットに片手を突っ込んだ姿勢のまま、もう一度唸って眉間にしわを寄せた。
するとその時、リリがノインのシャツを引っ張った。
「寒い?」
言ってリリは羽織っていたコートを脱ごうとする。どうやら、こちらが寒さで身を縮めているように見えたらしい。
そんな彼女の様子を見て、ノインはふっと口元を緩めた。
(……ま、ここで考えてても仕方ないか)
そしてノインは彼女を連れて目の前の廃墟――自宅であるアパートメントの階段を上って行ったのだった。
○ ○ ○
「適当に奥行っとけ。……汚ねー部屋だけどな」
最上階まで階段を上ったノインは、そこにある一室に彼女を招き入れた。部屋に窓はあるが、向きの問題で直接日差しが入らないため、中は微妙に暗い。
リリは言われた通り、ワンルームへ続く狭く短い廊下をとてとてと進んでいく。物珍しいのか、彼女はしきりに首を巡らせ、少し楽しそうだ。魔法使いに襲われた恐怖心も、既にいくらか解消されたらしい。
そしてリリに続いて部屋に上がったノインは、持っていた紙袋をその場に置き、廊下に備え付けてある小さなシンクの水道を捻ると、手近なグラスに水を注いだ。
幸い、今日は断水していないようだ。これなら、後でリリを風呂に入れることもできるだろう。ほとんど綺麗に拭えたとはいえ、魔法使いの血を浴びてそのままでは不快なはずだ。
ノインはグラスの水を一気に煽って一息つくと、リビングに目をやる。するとそこでは、リリが立ったままできょろきょろと部屋を見回していた。
「そこ、座ってていいぞ」
振り向いたリリに、ノインはこの部屋唯一の大物家具であり、自分の寝床である二人掛けのソファを指し示す。そしてリリはその通りに、そこに腰を下ろした。
(……風呂より先に、こっち済ませるか)
そう考えながら、ノインはリビングに向かい、ソファの前にある小さなローテーブルを退けた。そして腰の銃をホルスターごと外して近くの小さな棚に置くと、リリの真ん前にできたスペースにどっかりと腰を下ろす。
「……あー、えっとだな。帰って早々になんだが、お前にいくつか話がある。いいか?」
そう言ってノインがリリを見据えると、彼女はこくんと頷いた。
「どっから話した方がいいのかわかんねーが……そうだな……怖かったと思うが、ちょっと思い出して答えてくれ。さっき襲われた黒い化け物なんだが、お前はあいつと同じモンなのか?」
ノインは一番の疑問を率直にぶつけた。
もし彼女が魔法使いと同じ存在であるなら、彼女が見せた血の業も、異常な回復力についても合点はいく。リリと出会った時、見間違えだと思っていた傷も、回復したのだとするなら筋は通る。記億がないことや人と話せる知識を持っているのは謎だが、名前を持っていなかったことについても理解できる話だ。
魔法使いは生命の危機となれば共食いも辞さないため、先の裏路地で襲われたのも不思議ではない。最初に出会った時のような
だがそこで、リリはノインの問いに対し、首を横に振って答えた。
「わからない」
彼女は真顔だった。嘘をついていたり、隠し事をしているような素振りもない。
「……ならもう一つだ。人間を……俺を食べたいとか思ったことはあるか?」
しかしこの質問にも、リリは再び首を横に振り、今度は「ううん」と答える。
「そうか……」
この答えは少し安心できるものではあったが、彼女の素性は判然としないままだ。
だが今のところノインは、彼女のことを『魔法使いのようであって違うなにか』という感覚で認識しておいていいのではと思っていた。
先ほど思った『超』特殊個体の線もなくはないだろうが、ごく普通に考えれば、あの化け物と彼女を同一と考えるには相違点が多すぎる。人と話せる知識もあるし、外見の特徴も違う。加えて、彼女は朝が来てもここにいる。
通常、魔法使いは昼の間はどこか『巣』のような場所へ帰っていると言われている。
その場所などは生態と同じく不明だが、少なくとも夜間と早朝以外の時間帯に魔法使いが出たという話は一切聞かない。魔法使いが昼間を避ける理由としては、人と生活パターンが逆なのだとか、日光を苦手とするのだとか、いろいろと推察されているがどれも憶測の域を出ないものだ。ちなみに『巣』に関しては、市政府が発信機などを駆使して探しているらしいが、全く成果が上がっていないのが現状だったりする。
――まぁ、
ノインは、リリを『魔法使いと似た力を持った別の存在』と仮定したうえで、彼女の素性に関する質問を続けた。
「自分がどこから来たか、とかは、やっぱりわからないのか?」
「……わからない」
「どんな雰囲気だったかとか、そういうのでもいい」
「……ふわふわ、する?」
……聞いておいてなんだが、抽象的すぎて見当がつかない。というか、どこだそれは。
「あ、でも……」
「ん?」
「嫌な感じ、した、かも」
(うーん……)
結局、答えは断片的なものでしかない。しかしやはりというか、リリの元いた場所は、彼女にとってあまりいいものではないらしかった。もちろん、それも確定ではないのだが。
「じゃあ、さっきあの黒いやつをやっつけた力についてはなんかわかるか? 俺らが魔法って呼んでるもんに似てるんだが」
「マホウ? ……やだって思ったらできた」
「傷が治ってるのはなんでだ?」
「痛いって思ったら、痛くなくなった」
「……俺にくっついてきたがる理由はなんだ? 俺を知ってんのか?」
「知らない。でも一緒に居たい」
「……むぅ……」
初めからある程度予想はしていたものの、やはり彼女に聞いても、その素性を確定させるような情報は得られなさそうだった。魔法に関しても、リリ自身よくわかっていないらしい。彼女の持つ力が分かっただけでも良しとすべきなのだろう。
ただその力も、この街に住む人間にとっては忌むべきものである、というのが問題なのだが。
(……とはいえ、今更放り出せねーか……)
リリに危険性がないと断定できるわけではないが、預かるというのは彼女との約束でもある。それを反故にするのは、やはりノインにはできそうになかった。『彼女』の面影の残る悲しい瞳は、あまり見たくないのだ。
(……やっぱ、とりあえずこのままか)
結局、何らかの形で彼女の件にケリがつくまでは、預かるしかないのだろう。こうなると、いつまで預かることになるかは本当にわからなくなったが、拾ったからには責任もある。彼女の力や自分の立場を考えると、公安や市政府からは隠れる羽目にはなってしまうだろうが……その辺は、まぁたぶんなんとかなる。
自分は幸い、区画外に住むしがない討伐屋なのだ。そもそも日陰者なので、彼女を隠すのも、そう難しくはないはずだった。……なんとも悲しい話ではあるのだが。
(……ま、とりあえず聞くことはこんなもんかね)
たちまち聞いておくべきことは聞いたはずだ。ノインは話を切り上げにかかる。
だがそこでふと、ある質問が浮かんだ。
「そうだ、ソフィアって名前に覚えは――」
しかしノインは、途中で言葉を飲み込んだ。
ソファに座っていたリリが、いつの間にか小さく寝息を立てていたのである。傾いた彼女の頭から、ハンチング帽子がするりと落ちる。どうやら、相応に疲れていたらしい。
(……寝かせといてやるか)
リリの体についていた血は一応綺麗に拭えているし、風呂なんかは起きてから入らせればいいだろう。ノインはリリが着ている自分のコートを脱がせにかかる。
だがその時、血が染み込み、肩口が大きく破れたリリのトップスが目に入った。さすがにこれだけは着替えさせた方がいいかもしれない。ノインは一度廊下に向かうと、着替えの入った紙袋から灰色のハイネックニットを取り出して戻ってくる。
「おい、ちょっと起きて着替えとけ」
ノインは何度か呼びかけ、リリの体をゆすってみる。が、彼女は全く起きない。すぅすぅと気持ちよさそうに寝息を立てたまま、あどけない顔で眠っている。
(…………)
ノインは気まずそうな顔をしながら、リリと手にした服を交互に見る。が、やがてため息を付くと、リリが着ている自分のコートを脱がせ、彼女の着替えにかかった。
――相手は子供……いや、魔法使いだって可能性もなくなったわけじゃない。ノーカンだ。
誰に言うでもないそんな言い訳をしながら、ノインはリリの着替えを実行する。外からではわからなかったが、インナーとして着ていたタンクトップも破れていたので、それも仕替える。そしてそれが終わると、ノインはリリをソファに横たえ、普段自分の使っている毛布を彼女の体にかけた。同時に、リリの寝顔が幸せそうに緩む。
「似てる……よな。やっぱ」
彼女に見えるのは、五年前の『彼女』。その面影は、やはりノインを惹き付けるもので。
けれど――。
「魔法使い、ね」
言ってノインは、部屋にある小さな電熱ストーブの電源を入れ、ソファ前の床に寝転ぶ。
正直なところ、内心はまだ複雑である。あの化け物とこの少女は似ても似つかないが、この状態が危険ではないかという懸念は、やはり浮かんでくる。討伐屋である自分がこんな少女を匿っていること自体も、社会的には問題だろう。
それにもし――もしも彼女が魔法使いと同一の存在で、何らかのきっかけで自分を食い殺しに来るようなことがあったら、自分は彼女を殺せるのだろうか。
銃を向け、一思いに彼女を撃ち抜けるだろうか。
ふと想像したその光景は、まるで五年前の、あの日のようで。
「……やめだやめだ」
脳内の考えを追い出すように、ノインは自分のコートを乱暴に被る。
本来この時間は寝る時間だ。今日はいろいろあって遅くなってしまったが、日没後に霧が出れば、また仕事に出向かなければならない。今はぐっすりと眠るべきだ。
そしてノインは、さっきの考えを払拭するように、別のことにあれこれ思考を巡らせた。
(リリのコートは……普通に買ってやるしかないか。あんまりカリーナにばっか頼れないしな……確か、イーストエンドに安い服屋あったよな……大通り一本入ったとこだっけ……?)
ノインは頭の中に地図を思い描きながら、目を閉じる。頭の片隅では、おかしな悪夢を見ないで済むようにと願って。
それからしばらくして、ノインの意識は深い眠りへと落ちていった。
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