2-3
そこは暗く、極端に広い部屋だった。
夜は明けたが、部屋に窓はないため日光は入らない。一角に小さく明かりはあるが、その光量は部屋全体を照らすには程遠く、セメントコンクリート製の壁も床も、天井までも、先が闇に呑まれて消えている。ただ見える限りで言えば、壁の上方は、一部透明なガラス張りになっているようであった。
部屋の光源となっているのは、執務机ほどの大きさの機材の上にある設置型の蛍光電気灯。場は静かで、人の姿も、彼一人を除いては見受けられなかった。
「――それはまた、急ですね」
部屋の中に、優しげなテノールの声が響く。
声の主である男は、先の機材の前で受話器を片手に立っていた。電話線は、その機材に直接繋がっている。
その男の年齢は、見た目でいえば四十そこそこ。
適度な長さに切り揃えられた漆黒の髪に、同じ色を宿した切れ長の目。容貌は整っており、色白の細身の体に、医者が着るようなデザインの黒の作業着と、使い古した白衣を纏っている。
今彼が受けている電話は、未明の一件に関する連絡だった。電話の相手は、その時に彼が連絡を入れた男である。
『……まぁ、このままでは私のメンツが丸潰れだからな。私が顔の利く公安署もあることだし、公安省への貸しも、少なくするに越したことはない。この件は、もう公安省長官には伝達済みだ。関係のない公安官らの撤収も早ければ始まっているだろう。それに――』
(……ふむ)
相手の言葉を脳内で整理しながら、白衣の男は黙って耳を傾ける。
話によれば、この電話口の男は公安に任せていた例の魔法使い討伐を現時点で急きょ中止させたらしかった。しかも、起きた被害の後始末を自身の統括する組織――フラグメント主導で指揮することにしたという。諸々の手続きが煩雑になることも顧みず、だ。
まぁ、起きた被害の重大性を考えると、そうまでして彼が保身に走るのも納得のいく話ではあるのだが。
「旧研究所と地下の修繕はどうされるおつもりで?」
『……どちらもしばらく放置だ。被害状況を鑑みると、地下はもとより旧研究所の方も一般の作業員を入れるわけにはいかなさそうだからな。修繕を依頼できる事業者の目途がつくまでは地上一帯を閉鎖して凌ぐしかあるまい。それに関しては引き続きイースト一番署に頼んである』
「わかりました」
そこで一度、会話は途切れる。だが一呼吸おいて、白衣の男は口を開いた。
「……ところで、例の魔法使いは取り逃がしたままと伺いましたが、その個体が連れていた少女の件はどうなりましたか?」
それを聞いた相手の男は、一瞬、沈黙した。
『……なんだと?』
「公安から、何か連絡はありませんでしたか?」
『……なぜお前がその少女のことを知っている? お前に公安から報告など上がらんだろう』
「事故の起きた際、彼女は私の手元から魔法使いに連れ去られていますので」
その一言で、電話口の男は一気に不機嫌になった。顔は見えないが、そう感じた。
『……レーツェル。お前一体何をしている? その少女はなんだ?』
「当然、私の研究成果ですが」
『……ほう、研究成果か。なら聞こう。なぜその成果をフラグメントの所長たる私が知らんのだ? 事故を知らせる電話を受けた時もお前は何も言っていなかったな? 私の椅子が貴様を監視するためのものでもあると、知らないわけではあるまい」
「彼女の件については、まだ報告を差し上げる段階にないと判断してのことです」
そしてそこでついに、相手の男は声を荒げた。
『それで私に黙って何か事を進めていたというのか! 前任はどうだったか知らんが、私は貴様を甘やかすつもりはないぞ!』
電話のスピーカーが割れるほどの大声で、相手の男はがなる。
彼の声には少なからず焦りの色もあった。自身の監視をかいくぐって、監視対象が勝手に行動していたのだから当然といえば当然だ。
白衣の男――レーツェルは少しだけ受話器を耳から離して、
「申し訳ありませんでした。後日、資料も用意したうえで、彼女のことはお話致します。彼女の利用価値と、それが生み出す利益も含めて」
『………………利益だと?』
そこで、相手の声のトーンが一気に下がった。
「ええ。彼女の使い方次第では、閣下の任期中に例の計画は大きく進むかと思います」
しばしの沈黙。
そしてその後、相手の男は軽く咳払いをしてから、静かに切り出した。
『ふん。始末の悪いものだな。それほど貴重な成果をロストしているのか。もし円卓の人間にでも知られたら私の立場はどうなる』
「不手際をお許しください。あの事故は私にも想定外でして」
『……まぁ、それはいい。ただ、その少女についてはまだ特に情報はない。イースト二番街で目撃された後、例の魔法使いと共に消息を絶っていると聞いてそれきりだ。もしかしたら、もうどこかで死んでいるかもしれん』
「その点は心配ないかと思います。あれは肉体的にはひどく頑丈ですので」
『……ほう』
「しかし、そうですか。……例の個体にはまだ『リターン』の性質はありませんし、今のところ、彼女は完全にロストしたと考えてよさそうですね。保護の知らせでもあれば別ですが」
最後にそう言いつつも、レーツェルは彼女が簡単に手元に戻るようには思っていなかった。
彼女が今現在それを明確に意識しているかは不明だが、おそらく彼女はここが嫌で――あれが嫌で逃げ出したのだ。ならば誰かが彼女を拾っていたとしても、彼女はその人物に無意識にすがるのだろう。そしてそうなれば、その人物が善人にせよ悪人にせよ、放っておいて彼女がこちらに帰ってくるような確率は低い。加えてあれだけの事故なら、彼女に記憶の欠落、混濁なども発生しているかもしれない。
「彼女の捜査は公安が?」
『ああ。さすがに彼女の件は公安に任せたままだ』
と、それを聞いて、レーツェルはあることを彼に進言した。
「……もし、彼女を密かに回収する方法があると言えば、どうなさいますか」
『なに?』
「もちろん、閣下のお力添えが必要にはなりますが」
「……ロストした事実を隠ぺいできると言うんだな?」
「はい」
「…………」
――言ってみろ。
そんな無言の圧力が、その沈黙にはあった。
そしてレーツェルは、こう切り出したのだった。
「『彼』を、使いましょう」
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