吸血鬼歴七百年、童貞です。

キートン兄貴姉貴

吸血鬼歴七百年、童貞です。


 昔からこの街には言い伝えがあった。「夜一人で出歩いた女は吸血鬼に食われるぞ」。それぞれ微妙に言い回しは異なるが、概ね同じことを言っている。

 そして興味深いのは、被害者を名乗る女性が山ほどいることだ。ひいおばあちゃんにおばあさん、奥様に娘さん。どんな年代であれ、この街に住む生物学上の女は例外なく被害者と名乗る(どれだけ美形でも生物学上の男なら関係のない話である)。

 勿論その大半に伴侶となる男がいるわけだから、ムキになって「吸血鬼」にナニをされたのか聞き出そうとするのが、この街の日常でもある。男の独占欲にも、女のそれとは性質が違うが薄暗いところがあるのである。

 そして大半がうまく聞き出せずに終わる。しかも女性側は大抵顔を薄っすらと赤らめつつ、思わずこぼれ出たといった様子の微笑みを浮かべ沈黙を保つため、それはそれは伴侶の心に重大なダメージを与えることとなる。

 なお、その晩二人はナニがとは言わないが燃え上がるらしい。

 この街では夫婦円満の秘訣が吸血鬼なのかもしれない。

 さらに言い伝えがまともに機能しないこともこの街の特徴である。言い伝えを守らず一人で出歩く女が毎晩いるのだ。


 今晩もまた、出歩く女がいた。何処がとは言わないが包容力にあふれた彼女は、智恵子と言った。

 灯もまばらな裏路地を一人、何の危険もないかのように軽い足取りで歩いていく。

 やがて行き止まりに着くと、誰も居ないはずの暗がりへと親しげに声をかけた。

「久しぶりね。私が旦那とくっつく前だから、十年ぶりかしら。やっと会えた」

 すると暗闇が少しずつ輪郭を持ち始め、そこには男が立っていた。小柄だが引き締まった肉体。何処か妖しげな雰囲気の紅い眼は何もかもを引き寄せてしまいそうだ。そんな風にどれ一つ取っても現実味のない、物語から出て来たかのような男である。

「うん。ちょっと振りだね、チエコ」

「名前、覚えててくれたんだ。……嬉しい」

 智恵子の顔が綻んだ。

「でも貴方からすればちょっとぶりなの、ね。なんだかズルいわ、私は大分待ったというのに」

「そう言わないでよ、こちとら長く生き過ぎてそれはそれで大変なんだから。時間の感覚がおかしくなってるんだよ。この前だって気が付いたら朝になってたんだ。おかげで死にかけたよ……」

「相変わらず抜けてるのね。貴方らしい。あの時のまま。ねぇ、エル?」

「あはは……。言い返せないや」


 言い伝えは本当のことだったのだ。この男こそが吸血鬼、エルである。

「それで、どうして今晩なの?十年前のあの日からずっと貴方を探してたのに、突然現れるなんて。正直、こうして話していても信じられないの」

「別に。なんとなくだよ」

「そう。他のひとにもそう言ってるんでしょうね、きっと。でも会えただけでも嬉しいから、そこは問い詰めない事にするわ」

「あ、うん。やっぱり敵わないね」

「えぇ、そうでしょう。でも、私を女として育てたのは貴方じゃない。そんなに謙遜しないで」

「そう、だね。あんまり謙遜してもチエコに失礼か。時々こういうことを忘れそうになるんだ。だから、ちゃんと指摘してくれてありがとう」

「ええ。こちらこそ、よ。……ところで、こうしてまた会えたってことは、まだ見つかってないのよね。貴方が死んでも良いってひとは」

 懐かしい二人の和やかな会話から一転して、智恵子が何気無く口にした一言が鋭くエルに刺さった。

「……君には言ってたっけ?」

 エルはどこか重い表情で暫くおし黙ると微かな声でそう告げた。

「そうよね。流石に会話の内容までは覚えてない、か。そうだろうとは思っていたけど、はっきりわかると苦しいわね」

 少し目を伏せると、智恵子はまた口を開く。

「覚えてないみたいだから、私があの時貴方に教えてもらったことを話すわ。まず、貴方は凡そ七百歳。所謂吸血鬼で、毎日一回女の人の血を飲まないといけない。理由は教えてくれなかったけどね。それで、貴方は自分が童貞だと言っていたわ。一度でも交わってしまうと死んでしまうからだって」

「どうやら僕は結構喋ってたみたいだね。うん、全部正解だ。でも足りない」

 智恵子はここで引き下がらず、すかさず畳み掛けた。

「ええ。教えてもらったのはこれだけ。でも大方想像はついてるの。あれから私は結婚して、旦那と一緒にいる。男の人の事も大分わかるようになったわ。だからほぼ確信を持っているのだけど、貴方、血を吸うたびに下の欲求が抑えきれなくなっていくのでしょう?」

「お見通し、か。正解だ。やっぱり君には敵わない」

「でも、なんで毎日血が必要なのかはさっぱり分からなかったの。物語でも吸血鬼はよく登場するけど、別に毎日飲まなきゃいけないってのは殆ど見たことがないし」

「あれはフィクションだからね。脚色されているのさ。僕の場合は単純に飲まなくちゃいけないんだよ。実際に一日飲まないで我慢してたら、どうしようもなく狂いそうになった。見境なく殺して血を啜る化け物にでもなってしまいそうだったんだ。まぁ、今でも化け物ではあるけど。だからとにかく、飲まないのは不可能だ」

「ふぅん。そうだったの。……いざとなったら男の人からでも吸っちゃうのかしら」

「それはない」

 エルは食い気味に答えた。世界を狙えるタイムの反応だった。この男、吸血鬼の無駄遣いである。

「だよねぇ。流石にエルでも其処まではしないか」

「流石に、って。心外だな。僕は女の人の血しか飲めないんだ。それに、男の首なんて噛みつきたくもないね」

 エルはふん、と鼻を鳴らした。すると智恵子が尋ねる。

「死んでも?」

「死んでも。……あぁいや、死ぬときにはヤるって決めてるんだ。だから死ぬよりは、もしかしたら男の首でも噛むかもしれない」

「やっぱり。エルもやっぱり男の人だわ。旦那も割とそういうところがあるのよ。こう、下半身は別なんですーってところ」

 件の旦那の物真似なのか、一生懸命に低い声を出してみせる智恵子。一方、あからさまに出てきた旦那という単語にエルはちょっと傷ついた。童貞特有の面倒くさい思考が浮き上がってきたのだ。俺の方が先にチエコに目をつけたのに、などと何処か的外れなことを考えている。

「貴方今、“俺の方が先に目をつけてたのに”とか考えたでしょ。まったくもう、そういうところも旦那と一緒ね。なんだ、私の口から旦那って言葉が出たのがショックだった?さっきも結婚したとは言ってたはずだけど」

 一点攻勢。智恵子の猛攻の前に、エルはタジタジだ。ここで攻め込むあたりなんだかんだでノリのいい女である。

「いや、違うんだ。……違わないです、はい」

「分かればよろしい。でもね。そう思うなら、はじめから食べちゃって欲しいと言うのが正直な気持ち。そうやって貴方がどっちつかずの態度で七百年も過ごしてきたことを思うと、一体どれだけのひとが同じことを考えたか想像もつかないわ。ほんと、罪な人」

「……すまない」

「さっきも言ったでしょ。謝るならはじめからするなってのが本音なのよ。このっ、スケコマシ、女の敵、意気地なしっ」

「うぐっ、おっしゃる通りです。……なんか生きててごめんなさい」

 智恵子の声は、友人同士がじゃれ合うような気安いものだった。

 実際、その光景は「近所の男の子をからかうお姉さん」そのものである。

「まぁでも、私にはそれをいう資格はないわね。あの時貴方が私を目にかけてくれたからこそ、今の私があるのだから」

 智恵子が呟いた言葉は、エルにとって予想外そのものだった。咄嗟の言葉に詰まる。

「それは、一体……?」

 何処か躊躇っている智恵子だったが、やがて決心がついたようだ。

「うん、そうね。この為に貴方をずっと探してたんだから。今から言うから、ちょっと待ってね。私も心の準備がいるの」

「分かった。待ってる」

 エルは真剣な表情で即答した。

「……そういうところがズルいのよ」

 思わず小声で呟く智恵子。だが幸か不幸かエルには届かない。

「貴方は知らないのかもしれないけど、貴方に会ったあの時まで、私は自分に自信がなかったの。そんな時に貴方が物語みたいに現れて。……はじめてだった。あんな風に真正面から“君は綺麗だ”って言われたのは。私でも気づかないような綺麗なところを一杯一杯褒めてもらった。それまで私は、ただ生まれて育つ中でどうしたらいいのかもわからないまま、コンプレックスばかり抱えてた。周りを羨むことで精一杯で、ずっと“私なんか”って思ってた。でも、貴方に出会ってから私は変われた。それまで自分を認めてあげられなかったけど、貴方が一つ一つ褒めてくれたから、素直に認めることができたの。幸せになってもいいんだ、って思えたの。あの時はじめて私は女になれたのよ。旦那と出会って、好き合って。旦那との出会いを、縁をしっかり結べたのは貴方のおかげ。貴方が私を女にしてくれたから。……だからね、エル?」

「なに?チエコ」

「ありがとう。私を見つけてくれて。私を女にしてくれて。本当にありがとう」

「……うん。此方こそ」

 夜の風が二人を包む。風に吹き抜ける音と吐息だけが微かに聞こえてくる。見つめ合う二人だけがそこに居た。


 しばらく経つと、耳元に口を寄せ智恵子が静かに囁いた。

「ねぇ」

「うん?」

「エルは、さ」

 エルの耳元を吐息混じりの声が擽ぐる。

「いつまで童貞でいるのかしら」


 またも沈黙が場を包んだ。尤も、今回は「どう反応したらいいかわからない」という沈黙であった。


「きゅ、急に何を……」

「だから、いつまでそうやって童貞でいるもりって聞いたの。貴方が一向に腹を決めないから七百年も経っちゃったのよ?七百年モノのアンティークな童貞、なんて普通は引くと思うの。ドン引きよ、ドン引き。ねぇ、このままでいいの?アンティーク童貞クン」

 突然変貌した智恵子を前に、エルは戸惑いを隠せない。

「チエコ、一体何を……。いやそもそもそんな言葉どこで覚えたの」

「忘れたのかしら、貴方が去ってからもう十年も経ったのよ?それだけあれば人は幾らでも変わるわ。ましてや私は結婚したのよ?……その、旦那にもいろいろ教えてもらった、わ」

 言わなきゃいいのに一言付け加えた智恵子は、自分でも恥ずかしくなったのか真っ赤に顔を染めている。

 しかしその言葉は決定的な隔たりを浮き彫りにした。七百年変わらずに生き続けている吸血鬼と、僅か十年ですっかり変化した女。時間の有無は残酷なまでに二人を違う道へと誘っていた。

 結局、十年前に「食べなかった」時点でこうなることは決まっていたのだ。

「エル、私は旦那のものになったわ。だからもう貴方に食べられる訳にはいかないの」

「あぁ。分かってた……」

 エルが言い終える前に、智恵子がさらに言葉を重ねた。

「だから貴方はきっと理解したと思うの。逃した魚は大きかったな、ってね」

 ぽかん、とエルの顔が固まった。目の前には、どういう訳か自信満々な様子のチエコが居る。そのうちになんだかおかしくなってきて、つい笑みを浮かべた。

「あぁ、認めるとも、チエコ。あの時逃した魚はこんなにも大きかった」

「ん。分かればよろしい」

 腰に手を当てて踏ん反り返る智恵子。

「それでね、エル?」

「うん」

「私がシワシワのおばあちゃんになったら、また会えるかしら。今よりもっともっと幸せになって、うんと良い女になってるから。そしたら今よりもっともーっと貴方を後悔させてやるんだからっ」

 童女のような笑顔で、智恵子はビシッと指差しながらエルにそう宣言した。

「うん。待ってるよ。今度はもうちょと長くかかりそうだ」

 エルの記憶の中で笑う少女と、目の前のチエコの笑みは同じだった。十年の時はあまりにも大きな変化を与えたが、それでも変わらないものは確かにあったのだ。

「じゃあ、またね。久々に会えて楽しかったわ。また会いましょう。私の、はじめての好い人さんっ」

「うん。またね、チエコ」


 弾むような足取りで去っていくチエコを、エルは見えなくなるまで眺めていた。

「ほんと、君には敵わないなぁ……」

 呟いた言葉が風に包まれて、やがて消えた。




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