13話 永遠の約束
風と共に樅(もみ)の清々しい香りが宙を舞う。頬がヒリヒリと痛む。亜子にビンタされたのだ。僕はあの穏やかな彼女を怒らせるほど腐ってしまったのだ。
「ごめん......なさい。私のこと殴っていいよ」
今にも泣きそうな亜子は叩いた自分の右手を叱るように引っ込め、怖がりながら顔を突き出した。
「ほら、早く......」
僕は彼女を殴る権利なんて無い。むしろ、こちらが殴られるべきだ。心の痛みが限界に達し、胸元と目に違和感を覚えた。
「目、つぶって」
何故そんなことを言ったのか僕自身もよく理解出来ない。
人間は常に醜態を晒して生きている。それは僕も同じことだ。だけど、僕が泣いている姿を亜子に見られたくなかった。それがどうしてなのか、答えを見いだせないまま彼女の返事が来る。
「う、うん」
彼女は頷き、ゆっくりと瞼を閉じると光る涙の筋が出来上がる。歯を食いしばる表情が目に焼き付く。
僕よりも辛い思いをしているのにも関わらず、平然を装っていたことを痛感した。自分の理解が追い付かないまま、また衝動に駆られる。
「......っ⁉︎」
「ごめん......。僕が、僕が弱いせいでこんな......」
亜子の肩に両手を乗せて抱き寄せた。そして涙声で謝る。
「僕よりも亜子の方が辛いはずなのに自分が一番の被害者ぶって......。笠原に仕返しするためだけに亜子を利用した。それからこの2週間、一番大切な仲間である君の存在が当たり前のものと勘違いしていた」
だんだんと声が大きく、強くなっていった。それと同時に涙がポロポロと落ちる。お互い顔が見えないほど密接していた。終わりの見えない道から顔を出した夕日が眩しい。
「亜子が居なかったら今の僕は絶対に居なかった。君のおかげで他人と関わる大切さを知ったし、初めて生きてるって実感した。だから......」
車が通り過ぎるのを確認して、出来上がった沈黙を破る。
「これからも友達でいてください」
誠心誠意込めた言葉を放った。すると、さっきまで無抵抗で反応も示さなかった亜子が抱き返したのだ。
細くて華奢な腕に包まれ、心なしか安心した。少し苦しいのは受けて当然の罰なのだろう。冷たい心が浄化されていくような感覚に陥った。
「もちろん、いいに決まってるよ......。こんな私で良ければいじめの件が解決しても、その......友達でいてくれないかな?」
「当たり前だよ」
時折聞こえる鼻をすする音で彼女も泣いていることがわかった。無言で涙が尽きるのを待つ。ランドセルが邪魔だなと思った瞬間、自分が今何をしているのか気づく。
顔が熱くなり、心拍数が上がっているのがわかる。静寂の中騒ぐ心臓の音は今度こそ聞こえているだろう。意識してしまうと五感はいつも以上によく働く。
沈む夕日、髪の爽やかな匂い、ランドセルの特徴的な触り心地、口内に広がる不思議な味、自分の心音。
胸の辺りに怖いくらいの柔らかい感触がある。僕も彼女も比較的薄い服を着ているからだろうか。その感触が何なのか知りたい気持ちを無理矢理振り払い、一息つく。
無意識とはいえ、女の子に抱きついてしまった。この罪は重い。相当な時間が流れ、涙も落ち着いた頃に抱くのをやめた。亜子も腕を解く。彼女の涙も跡を残して消えていた。
「いつまでも友達でいよう!」
「う、うん......。じゃあ約束ね」
頷くのに抵抗があったような気がした。僕が急に抱きついたことを謝ってないせいか。
「あ、あと......その、急に抱きついてごめん」
こちらが謝っているのに彼女は笑顔で小指を出してきた。
「そんなことはどうでもいいの。それよりほら!」
出した小指を強調するように上下に振る。
「えっと......」
「啓太も小指出して」
言われるがまま小指以外の指を折り曲げ、彼女の手の前へ持っていく。すると、いきなり伸ばした小指同士を絡めてきた。日が沈むように僕の胸も染まっていく。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます! 指切った!」
そう言い終わると指を離した。
「何それ。ハリセンボン食わすならわかるけど、飲ますとか危ないこと言って」
苦笑い混じりに疑問を振る。僕はまだまだ無知だ。
「違うよぉ〜。針を千本飲ますんだよ。しかもこれは約束を破らないための誓いっていうだけ」
「そっか、初めて知った」
亜子は頬を膨らまして怒った。なのに可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
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