022 【第4章 完】三人で行くランチ
例の製薬会社の担当者から営業1課の課長に連絡が入ったのは火曜日の夕方だった。
あの外国人作家の挿画本を、うちのオークションに出品したいとのことだった。
なんの問題もなかった。
こうなった場合に
秋のメインオークションの顔が決まって、俺の知っている過去が大きく変わった。
課長が俺に向かって満面の笑みを浮かべる。
「大沼、大金星だ!」
俺もうれしくて仕方なかった。
下手したらそのままの勢いで課長と抱き合ってキスくらいしていたかもしれない。
業界1位のオークション会社から高額作品をひとつでも奪い取ることができたのは、それくらい
業界1位の会社も、高額な挿画本を俺たちの会社に奪われるとはきっと想像していなかっただろう。
『
まあ、おそらく製薬会社の残りの出品物は、ほぼすべて業界1位の会社に預けられたと思われる。
けれど、今回の『蟻のひと噛み』みたいなものを俺たちはこの先も、こまめにいくつもいくつも積み重ねていって、やがては業界1位のオークション会社を
現時点ではライバルにすらなれていないのだから。
課長が千円札を3枚、俺に手渡してきた。
「大沼、明日のお昼は市柳さんと二人でお祝いをしてこい。今回の勝利はお前と市柳さんの手柄だからな」
「えっ、よろしいんですか?」
課長は小さくうなずく。
「ああ。営業1課としてのお祝いは、焼肉屋かどこかで今度みんなで
そう言いながら課長は、急にくちびるをとがらせる。
「課長、なんで最後ちょっとキレてるんですか? じゃあ、2000円でいいですよ。ありがとうございます」
俺は千円札を1枚、課長に返す。
課長は稲妻のような速度でそれをすぐに自分の財布にしまうと、俺の肩を片手でポンポンと叩いた。
「なあ、大沼。いい機会だから、市柳さんが営業1課に来てくれるかどうか、彼女の気持ちをきちんと探ってこいよ。市柳さんは今回、大金星をあげたんだからこの勢いで堂々と営業1課に来ればいいんだ。だからそのへんを上手く頼むな。お前の
「俺で説得できますかね?」
課長が今度は両手でドンッと、俺の肩を強く叩く。
「大沼! お前以外に
そんなわけで翌日の水曜日に俺は、課長のお金で市柳さんをランチに誘うことになった。
けれど、市柳さんと二人きりでランチに行くことには抵抗があった。周囲の誰にも打ち明けていなかったが、俺はすでに高見さんと恋愛関係にあったからだ。
高見さん以外の女性と二人きりで食事に行くのは心が痛む。そこで俺は考えた。
課長には内緒で、高見さんも誘って三人でランチに行くというのはどうだろうか?
高見さんと市柳さんには理由を説明して、話を合わせてもらえばいいじゃないか。
水曜日は、オークションの下見会会場の設営日だった。
土曜日にオークションがあるのだ。
出品される作品の
カタログ制作班の市柳さんも当然参加しているので、ランチには誘い出しやすかった。
昼休みになると、予定通り高見さんを加えた三人でランチに出かけた。
「市柳さん、ようやくいっしょにランチに行けましたね。製薬会社での商談があった日に、いっしょにランチに行こうと約束したのに、なかなか実現できなくてすみません」
会社の近くの商店街を歩きながら、俺は市柳さんに謝った。
「お、大沼さん、覚えていてくださったんですね。こ、こちらこそ、約束していたのにお誘いできなくて本当にすみませんでした」
市柳さんも俺に謝る。
すると俺たちの先頭を歩く高見さんが、お店を指差した。
「ここです。大沼さんが『ランチはお腹いっぱい食べたい』って言うから探しましたよ。この洋食屋さん、パンとスープがおかわり自由でサラダバーもありますからね」
市柳さんが大食いだということは、高見さんには隠してある。だから、お腹一杯になる店に俺が行きたがっている――ということにしておいたのだ。
店の内装は木のぬくもりみたいなものをテーマにしているのだろうか。なんだか山小屋のようなイメージだった。
立派なサイズの
四人用の席に案内されると、市柳さんと高見さんが横並びになって座り、二人の向かい側に俺が座った。
メインの肉や魚なんかをひとつ選んで、パンとスープとサラダは食べ放題というシステムのようだ。
俺は市柳さんにメニュー表を手渡しながら言った。
「市柳さん、今日は課長のおごりなんです。なんでも好きなものを注文してください。先ほども簡単にお伝えしましたが、あの挿画本がうちのオークションに出品されたお祝いです。本当に
高見さんが微笑みながら言う。
「すごいなあ、市柳さん。同じ新入社員なのに手柄をあげて、課長からおごってもらえるなんて。アタシには縁のない話だよ」
「い、いえ……本当にわたしは手柄なんて……。たまたま製薬会社に知り合いがいただけですし、商談自体は大沼さんたちが……」
「でも、市柳さんがいなかったら、あの挿画本の出品が決まることはなかったというのは本当ですよ。まあ、上手く説明することはできませんが……」
俺が7年後の世界からこの過去に戻って来ていることは、もちろん説明できない。
だから、『市柳さんのおかげで過去に変化が起きて挿画本の出品が決まったのだ』ということを上手く伝えられないのである。
「市柳さん。とにかく、課長のおごりなんで好きなものを食べてください。ちなみに高見さんの分は俺が払いますよ。付き合わせちゃったわけですし」
「やった! 大沼さん、ごちそうさまッス!」
高見さんが、イタズラっぽく微笑んだ。
やがて食事が一段落すると、いよいよ俺は市柳さんに切り出した。
営業1課――特に課長――が、市柳さんを獲得したがっていることを説明したのだ。
「そんなわけで、市柳さんに営業1課に加わってもらいたいという声があります。仮配属が終わったら、本配属では営業1課に力を貸してほしいです。今回の大金星で、そういった声がますます強くなっています」
市柳さんは黒髪を揺らしながらこくりとうなずく。
俺は話を続ける。
「市柳さんさえよろしければ、うちの課長がもう本気で獲得に動き出しますが、どうですか?」
「お、大沼さんたちと一緒に営業で働けるのは、すごく楽しそうです。ま、前に連れていっていただいた集荷も楽しかったですし、やりがいを感じました。で、でも……」
市柳さんはうつむくと話を続ける。
「お、大沼さん。わたしがもし本配属で営業になったら、た、高見さんか黒浜さんのどちらかが、カタログ班になる可能性が出てくるんじゃないんですか?」
「まあ、正直その可能性は高いと思います。新入社員三人の配属先は、一度すべて見直されると思いますが……」
ミルクティー色の髪に軽く触りながら、高見さんが話に加わる。
「別にそんなの、市柳さんが気にすることじゃないよ。アタシがカタログ班になっても、会社の決定だったらアタシは受け入れるよ。市柳さんを絶対に恨んだりしないし」
「た、高見さん……」
高見さんは市柳さんに微笑みながら言う。
「ふふっ。正直、市柳さんが営業1課から必要とされているのが、うらやましいよ。アタシなんか、営業2課であんまり必要とされている感じでもないしさ。クロっちは、なんだかんだ営業3課で要領よくやっているみたいだし。だからまあ、本配属ではアタシがカタログ班になる可能性が高いかな、あはは」
市柳さんが高見さんに尋ねる。
「た、高見さんは本当にそれでいいんですか? 営業2課のままでいたいんですよね」
「うん、2課のままでいたいよ。でも、会社の偉い人たちが決めたのなら、アタシは従うしかないし」
「か、カタログ班になると、お、大沼さんと、仲良くいっしょに集荷とか行けなくなるんですよ?」
市柳さんの言葉を聞いて、俺と高見さんは顔を見合わせた。
まあ、バレバレなのかもしれない。
俺は市柳さんに言った。
「すみません、市柳さん。そのぉ……実はまだ会社の誰にも打ち明けていないんですが……俺と高見さん、付き合っています」
「や、やっぱりそうですよね……」
「はい。先週四人で飲み会をしたじゃないですか。その後……ちょっとまあ、色々とありまして。こんな感じになりました」
「で、では、大沼さん。本配属で高見さんがカタログ班になったら、大沼さんも高見さんも寂しいことになるんじゃ……」
高見さんが再び話に加わる。
「いや、市柳さん。そこは本当に気にしなくて大丈夫だから。仕事なんだからね。それに、アタシは同期の市柳さんが営業1課で活躍してくれるのはうれしいよ。だから、もし市柳さんが営業1課で働きたいのなら、チャンスなんだからね。当然、アタシと大沼さんのプライベートと仕事は、切り離して考えてくれていいし」
「あ、ありがとうございます、高見さん」
市柳さんは高見さんに頭を下げると、今度は俺の方を向く。
彼女は普段よりもさらにいくらか
「で、でもちょっと……わたしはカタログ班で満足している部分もありますし、オークションカタログの制作は、とてもやりがいのある素敵なお仕事です……。あと、やっぱり営業には向いていないと自分では思っていますので……」
本心なのだろうか……?
いや、市柳さんは自分の気持に
俺はそんな印象を受けた。
きっとこの人は、たとえ自分のチャンスでも、誰かが不幸になるのなら身を引いてしまうタイプなのだろう。生き方が不器用過ぎる……。
そして、この時点で俺は悟ったのだった。
市柳さんの説得に完全に失敗してしまったことを……。
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