氷の妖術少女

羽虫這左衛門

第1話 蝋人形の老婆

 カーテンの隙間からさしこむ日差しで、わたし、小松川朱美こまつがわあけみは起こされた。眠い目をこすりながらカーテンを開けると、刺すような光に目が痛む。もう一週間も前に梅雨入りしたはずなのに、今日はいやになるくらいに快晴だ。ちょっと目がチカチカするけれど、おかげで目が覚めた。乱暴な眠気撃退法である。時計を見ると七時一〇分。起きるにはすこし早いけど、まあいいや。


 リビングへ降りると、わたしよりずっと早起きな父が、テーブルについてトーストをかじっていた。


「おはよ」


「おう」


 お父さんは読んでいる新聞から目を離さないであいさつを返した。行儀が悪いからやめてとお母さんに何度も注意されているのに、朝・夕飯時に新聞を読むというお父さんの習慣は治らない。お母さんはキッチンで目玉焼きを焼いていた。


「お母さん、おはよ」


「あらおはよう。今日は早いのね―――ぷっ、ひどい顔!ちょっと見てお父さん」


 父は新聞の陰からちらりとわたしに一瞥いちべつをくれ、


「ひどいな」


 と真顔で言った。


「鏡で見てみなさいよ。あんたの顔、お不動さんみたいよ」


 言われるがまま洗面所で自分の顔を見てみると、確かにひどい。髪はぼさぼさで目は充血し、顔は土気色だ。これに起き抜けの仏頂面をつければ確かにお不動さんに―――なるわけない。お父さんもお母さんも、年頃の娘になんて無神経な発言だろう。きわめて心外だ。これならせめてベートーベンの肖像画だ。


 顔を洗って髪をとかし、目薬をさしたらずっとましになった。リビングに戻ると食卓にはトーストと目玉焼き、それに紅茶が並んでいた。母はトーストにジャムを、わたしはマーガリンをつけて食べるが父は何もつけない。きれいな表面を調味料で汚すのがいやなんだとか。


「朱美、あんたそろそろテストでしょ。勉強はかどってる?」


 お母さんはパンをかじりながら言った。親に勉強のことを聞かれてやってないと答えるバカはいない。かといってあまりに自信満々に答えるのも期待をふくらませるのでまずい。なのでわたしは普段からこう言うことにしている。


「まあまあよ、お母さん」


「いつもまあまあじゃないのあんた」


 実のところ、あまり勉強していない。やろうと思ってつい最近はやりのアニメを観たり、映画に夢中になったりしてなかなか手につかないのだ。そんな状態では今度のテストも不安だが、たいていどのテストでも似たようなありさまで、それでいて可もなく不可もなくな成績をキープしているのだから、「まあまあ」というのもあながち嘘ではない。


 一足先にパンを食べ終えた父が新聞を放り投げ、出かけていった。今夜は飲み会とかなんとか言い残したようだ。わたしの父は小説の校閲こうえつを仕事にしている。会社はさほど大きくなく、稼ぎも少ないが、父はそれで満足している。母は家庭教師の仕事をしていて、勉強が苦手でついていけない小学生の面倒を見たりしている。ふたりとも今の生活はとても楽しそうで、くだらない夫婦喧嘩のひとつやふたつはあるけれど、たいてい家庭の雰囲気は明るい。


 ふと、わたしは床に投げ捨てられた新聞を見た。何気なく字面を追ってゆく。内閣総辞職とか、選挙の得票数とか、むつかしい活字が脳のいい加減な検問を突破してゆく。しかし、今日に限ってわたしの怠け者の脳みそは、検問に「待った」をかけた。新聞上のある言葉にひっかかったのだ。


<小五少女、また不明か>


 社会面のすみっこに小さく載っている記事だ。五人の被害を出した火災がなければもっと大きく載っていたかもしれない。この町での事件である。六月二五日水曜日―――つまり一週間前―――、一〇歳の少女が帰宅途中に忽然こつぜんと姿を消し、行方不明になっている。警察によるとこの手の事件は数年前から多数の町で連続して起きており、今年になって七件目。警察は連続誘拐事件の可能性とみて捜査をすすめているが、進展はなく、いずれも未解決のまま。それだけの簡単な記事だった。


 小さな記事だが、わたしの目はくぎ付けになった。未解決というのが目を引いたのではない。連続誘拐という単語でもない。それは、一〇歳の少女という言葉だった。


 つい一か月前、同様の事件がわたしの近所でも起こったのだ。失踪したのは、小学校五年生の女の子。母からそのことを聞いて、わたしはひどくうろたえた。なぜなら、その子はわたしと顔なじみの子だったからだ。よく一緒に町内会のイベントや奉仕活動に参加したものだったからだ。警察に捜索願いを出すと同時に町内会が総出になって行方を探り、わたしもそれに参加した。しかし、彼女はいっこうに見つからなかった。煙のように消えてしまったのである。もちろん、家出のときのような書置きもない。いま、どこで何をしているのだろう。


 この不可解な事件を、世間は神隠しなんて言って騒いでいるけれど、正直言って不謹慎ふきんしんだ。わたしはそんなオカルトを信じないし、嫌いだ。そんなもの、真相がわからないことの言い訳でしかないのだ。そうやって茶化している間に、もっとすべきことがあるはずなのに。


 そうしたわたしの いきどおりは、母の言葉によって断ち切られた。


「なにぼっとしてんのよ。遅刻するよ」


 すでに朝食を済ませた母は、父と自分の皿を洗いにかかっていた。わたしはあいまいに返事をすると、味のしないトーストを紅茶で流し込み、家を出た。



 わたしの住んでいる中村町なかむらまちは、静かなところだ。東にそびえる紅葉の山と、西にひろがる大海原おおうなばらをのぞけば、ほとんどなにもない。昔はけっこう栄えた城下町だったというけれど、そういったところにありがちな昔ながらの街並みといったものはほとんど残ってない。どこにいっても住宅街やごみごみした雑居ビルばかりのごくありふれた町である。とはいっても住むには悪くない。清潔だし、空気も水も汚れていない。


 わたしが通っている海神東かいじんひがし高校は、そんな町の中ほどにある学力中程度の進学校だ。家から歩いて二〇分、桜が連なる長い坂を登りきり、ようやく見える校舎がそれである。偏差値へんさちはそれほど高くはないが、赤いチェックのリボンとスカートの制服はカワイイと評判で、女子の人気はけっこうある。わたしのような地味な娘からしてみれば、それも憂鬱ゆううつな話でしかないのだが。


「おはよ、朱美」


「おはよう京。あ、矯正きょうせいかけた?」


「わかる?高かったんだよ」


 宇喜多京うきたきょうは、肩まで伸びた、赤茶けてまっすぐな髪をばさっとゆらし、少年のようにへへっと笑った。この前までその長髪は軽いカールを描いていた。髪と同じく茶色がかった大きな瞳に高い鼻梁びりょうの美少女である。この娘はわたしの大親友。わたしと京とはかれこれ一〇年の付き合いで、幼稚園から高校まで一緒なのだ。だけどふたりを比べてみると容姿から成績まで雲泥うんでいの差。京は頭が良く、中学ではろくに勉強もしないのにテスト上位に必ず食い込んでいた。そのうえルックスとスタイルも抜群で、まるで外人さんのモデルのよう。うちの制服がこれほどよく似合っているのは、彼女をおいてないだろう。わたしは手足こそひょろ長いものの京のような魅力はないし、成績だってよろしくない。天は二物を与えずというけど、神さまはこの娘に二物も三物も与えている。


 わたしたちはしばしくだらない話をしながら坂をのぼった。やれあの男子は寝てばかりいる、あの娘は男子を意識しすぎてる、あの先生はよくチャックが開いている。


 そんな折だ。京がふとこんなことを言い出したのは。


「朱美はさ、怪談とかって信じる?」


「うーん、信じない」


 わたしは即答した。自分でいうのもなんだが、わたしはそうとう理屈っぽいタチだ。科学で解決できないものはないといういささかユイブツテキな考え方の持ち主なのである。


「なによいきなり。そういうあんたはどうなの」


「あたしは信じるよ」


 京は大まじめに言った。その横顔を見てわたしは吹きだした。京の人形のような顔と幼稚な内容の差が、あまりにおかしかったからだ。


「私はこの学校の怪談を信じてる」


「怪談って、動くお地蔵と帰らずの屋敷?」


「そう」


 京は大げさにうなずいた。


 たいてい、どこの学校にもいわゆる七不思議や怪談のたぐいはあるものだ。ひとりでに鳴りだすピアノ、動く人体模型、血の涙を流す肖像画、一段ふえる階段。いつの間にかそこにあり、まことしやかにささやかれ、歴史の中で変化してゆく。


 うちの場合、ひとりでに動くお地蔵さまと、入ったら最後、二度と出られない屋敷というのがそれだった。学校の裏手に小柄な成人女性ほどのお地蔵さまが立っていて、それが夜中に動き出すというのが一つめ。で、その裏手にある小高い山にはなにやら古ぼけたお屋敷があって、そこへ入ったものは二度と出てこられないというのがもう一つめ。実際に何年か前、そこへ行って帰ってこなかった生徒がいるとかいないとか。しかしそこまで話が大きくなるとかえって信ぴょう性は地に落ちてしまうし、だいいち、高校生にもなって怪談なんて!


「じゃあ本当にあそこに閉じ込められた人がいたってこと?」


「きっとね」


 わたしはすこしあきれた。京は頭はいいのにこういう変なところがある。すると彼女は敏感にわたしの気持ちを感じ取り、子供のように口を尖らせた。


「なに、私のこと頭がおかしいと思ってるわけ?」


「別にそこまでは・・・」


「じゃあさじゃあさ、放課後行ってみようよそのお屋敷に。行ってみれば朱美も信じるよ、きっと」


「あのね。入ったら出られないんじゃなかったの?」


「ちょっと見るだけなら大丈夫だよ。ね、いいでしょ」


 わたしは正直どうでもよかった。どうでもいいというよりばかばかしかった。ただ、まあテスト勉強の気晴らしにはなるだろうと思い、軽い気持ちで引き受けた。・・・・・・それがあんなことになるなんて、夢にも思わずに。



                   2



 お昼休み。わたしは他の友達にも京とお屋敷に行くことを話した。案の定、友達ははしゃいだ。みんなこの手の話が大好きなのだ。ただし自分も行くと言う勇気ある娘はいなかった。それは正解だ。軽い好奇心で屋敷に侵入し、居合わせた持ち主に怒られでもしたら大損おおぞんだ。そういう意味ではわたしもどうして引き受けたのかわからないが、一度約束したものは取り消せない。


 わたしたちが盛り上がっている間、京は黙々もくもくと弁当を食べていた。彼女は食事の間は一言もしゃべらない。しかも食べ方がやたらと上品だ。箸の持ち方から口に運ぶ動作まですべてが美しく、イギリスの貴族か禅僧のよう。だから周りのわたしたちも食べ方には気をつかう。


「生きて帰ったらみんなにも教えてあげる」


 食べ終えて箸をおくなり、京はそんなことを言った。もちろん真に受ける者はいないが、今朝の会話の後ではどこまでが本気なのかわたしにはわからない。



 放課後、わたしたち二人は正門ではなく裏門から出た。裏門は裏山と直接つながっているのだ。めったにここを通る生徒はいないのだろう、さびついた門はひどくきしみ、開けるのに苦労した。開けた後、手のひらは赤さびで赤茶色に汚れてしまっていた。


 薄暗いけもの道をたどって一五分。ややひらけたところにその屋敷はあった。黒ずんだ材木のお化け屋敷のような洋館である。腰にも届く雑草があたりに伸び放題だ。


「これが・・・・・・」


 話には聞いていたがこの目で見るのは初めてだ。うわさ以上に不気味である。窓は割れて赤いカーテンが外にはみだし、ツタが一面にはっている。観音開きの重そうなドアだけがやたらと真新しい。これを見た後だと入ったら出られないというのも、まあ、わからないでもない。


 京がわたしを見てにやっと笑った。


「ふふ。おじけづいた?」


「べ、べつに」


 本当にこの娘は人のわずかな心境にも敏感だ。仕方がないのでわたしは強がる。強がりついでにずかずかと扉に近づき、両扉を勢いよく開けた。やってから「しまった!」と思った。中に住人がいたらどうしよう。・・・・・・しかし数秒たっても誰も出てこない。中はうすぼんやりとしている。のぞいてみると、床に敷かれた赤い絨毯じゅうたんがみえた。


「誰かいませんかあ!」


 京が突然大声を出すのでわたしは飛び上がるほど驚いた。京は返事がないと知るやわたしをかえりみずにさっさと中に入っていった。仕方なくわたしもそれに続く。屋敷の中はがらんとしていた。壁はいたるところがいたみ、はがれているがほこりっぽくはない。部屋の左端に階段があり、奥の踊場へと続いている。風もないのに扉がひとりでにバタンと閉まった。


「朱美、見て」


 京は耳がないかのように背後の出来事には無関心で、ただ奥の壁を指さしていた。その方を見て、わたしは腰をぬかしそうなほどに驚いた。そこには無数のマネキン人形が立っていたのだ。いや、マネキンなんかじゃない。蝋人形だ。等身大の美しい少年少女の裸ばかりをかたどった、驚くほど精巧せいこうな蝋人形。それが蝋燭ろうそくの光に照らされて、隆起する筋肉に微妙な陰影を描いていた。うん?・・・・・・蝋燭?


「あらあら、お客さんかしら」


 キャッと悲鳴を上げてわたしは本当に飛び上がった。そこにひとりの老婆が立っていたのである。片手に蝋燭を立てた皿を持って。


「ああ、あの、わたわた、わたし・・・・・・」


「ええ、ええ、いいんですよ。肝試しにいらしたんでしょう。この頃そういう人が多くてねえ」


 少ない白髪を肩まで垂らし、歯のない口でフガフガ喋る不気味な老婆―――と言いたいところだけど、蝋燭に照らされたその顔は、あくまでふくよかで温厚そうなおばあさんだった。白髪は白髪だがふさふさしていて、軽いパーマがかかっている。おばあさんは人形に手をやって苦笑いした。


「夫の趣味でねえ、同じようなのを何体も集めてるのよ。いい加減おく場所がないからやめてって言ってるのに」


 わたしは、はあ、とあいまいに返事をした。ひどく叱られるかと思ったのになんだか拍子抜けだ。京はさっきから同じ人形を凝視(ぎょうし)している。そのわき腹をこづいて小声で言った。


「やっぱり怪談なんてうそっぱちじゃない。悪いからさっさと出ようよ」


 京はわたしを無視した。わたしはちょっと怒ってやや強くこづいてやろうとしたが、ふとその視線の先を追って、全身の血が逆流するような動揺を覚えた。そこには一体の少女の裸像らぞうがある。両肩に下がった三つ編み、つぶらな瞳、小さな口の、かわいらしい少女。


 動揺したのは、その少女がわたしのよく知る少女だったからだ。そう、これは、一か月前に行方不明になったわたしの顔見知りの女の子だ!


 絶句するわたしと動かない京に、おばあさんはにわかに冷たくなった声で言った。


「・・・・・・ところでおふたりさん、あなたたちも人形になってはくれなくて?」


「朱美!」


 とつぜん京がわたしの手首をつかんで駆け出した。わたしはもつれそうな足を精一杯動かし、転ばないように走る。―――魔女だ。あの老婆は魔女だ。うしろからおぞましい気配が追ってくる。扉の前まで来たとき、手も触れないのに扉が開き、わたしたちが出た瞬間、もう一度バタンと閉じた。すぐに内側からガタガタ開けようとする音がしたが、間もなく音はやんだ。


 そのままの勢いで山を駆け下り、なんとか裏門まで来たところでわたしは地面に手をついた。吐きそうなほど心は張りつめ、凍るように背筋が冷たい。心臓の音が誰かに聞こえそうなほどやかましい。なのに京は落ち着きはらって息ひとつ乱れていない。


「あの人形、ひ、ひ、人を・・・・・・」


 目から涙があふれる。どうして見まちがおうか。あれはわたしの知っている少女。顔のつくりから背丈までまったく一緒。こわい。こわくて震えが止まらない。


 そんなわたしを京はがそっと抱き寄せた。冷たい。京の身体は氷のように冷たかった。冷蔵庫を開けたときのような冷気が、あたりを包んでいる。じっとりと汗ばんだわたしの肌が急速に冷えてゆく。子供をあやすように京は言う。


「朱美、大丈夫よ。あなたはあたしが必ず守るから」


 彼女の言葉には温かみがこもっていた。気休めではない、わたしを守ると本気で言っているのだ。そしてそれはわたしを落ち着かせるのに十分な説得力をもっていた。これはいつもの天真爛漫てんしんらんまんでちょっと変わった京じゃない。確かな意志と自信にあふれた、もうひとりの京。そんな気がした。


 おぼつかない足どりのまま、京の肩を借りてわたしは山をおりた。夢の中を歩くような、ひどくふわふわした感覚だった。



 それから数日、わたしは生きた心地がしなかった。いつどこにいてもあの老婆を恐れてびくびくし、夜な夜な生きた人形の夢を見る。顔なじみの少女がわたしに襲い掛かる悪夢を。友達は屋敷であったことを根掘り葉掘りきいてくるが、とても答える気にはなれなかった。それは京も同じだったようで、知らんぷりしてなんとかやり過ごしていた。


 そんなある日の放課後である。京は委員会があると言って早々に引き上げ、わたしも美化委員の仕事を終わらせて帰り支度を始めていた。もう夕方である。どんよりした空の向こうに夕焼けが鈍く光っていた。早く帰らないと、今のわたしに宵闇はこわい。道の角から闇に紛れてあのおばあさんが飛び出してきそうで。


 ふと何気なく、三階の窓から校門の方に目をやった。そこで何か話し合っているふたつの人影があった。あれは用務員さんと―――紫のブラウスのおばあさん。


「・・・・・・ん?」


 わたしは一瞬、自分の目を疑った。目をしばたたいてもう一度見る。恰幅かっぷくのいい、一見温厚そうな顔、パーマのかかったふさふさの白髪。あれは間違いない。あの屋敷にいた老婆だ!


 老婆は用務員さんとにこやかに喋っている。そのとき、わたしと遠くの老婆の目が合った。老婆はこっちに気づいてニヤリと笑った。わたしはとっさにかがんで顔を隠す。飛び出しそうな心臓をおさえ、そのままの態勢で教室に戻り、乱暴に持ち物を整理し、かけ足で飛び出した。


「そんなに急いでどこに行くの」


 背後からの声に振り向くと、そこにはふくよかなおばあさんの笑顔があった。わたしはうさぎのように飛びのいた。ここは校舎の三階だ。まさかほんの数分で校門からここまで登ってきたのか?


 得体の知れなさにおののいて、わたしは少しずつ後ずさる。と、老婆の口から口いっぱいの唾液が飛んできた。わたしはとっさに顔を手でふせぐ。生あたたかい液体が右手にかかった。気持ち悪さに手をぬぐおうとして異変に気づく。手から手首にかけての部分が硬いのだ。見た目は何も変わらないのに、まるで石か石膏でも押しつけたような感触なのである。そして濡れ固まった部分は石像のように動かない。


 老婆は自慢げに言った。


「驚いたかい。あたしは妖術が使えるのさ。妖術・水蝋すいろう。これで生きたまま子供を固めて人形を作る」


 人形!やっぱりあの少女は人形だったのだ!わたしの手を固めたように、このおそろしい唾液で子供たちを塗り固めたに違いない。それも、生きたまま。このままではわたしも仲間入りだ。・・・いやだ。いやだ。いやだ!―――気づけばわたしは廊下の反対側に駆け出していた。老婆が老婆らしからぬ猛スピードで追ってくる、おぞましい気配!


 廊下の突き当りの階段まで来た。タッタッタッと軽い足音がどんどん近づいてくる。階段を二段ぬかしで踊場まで駆け下りる。足が滑った。床に突っ伏した。正面の壁にびちゃっと水のはねる音。死神の唾液だ。転がるように飛び起きて階段を飛び降りる。ドシンと着地、足の裏がしびれる。関節が悲鳴を上げる。何とか持ちこたえる。―――ここは二階だ、二階中央の渡り廊下を渡れば教師棟に行ける。校舎は生徒棟と教師棟とで別れ、H型になっているのだ。


 わたしは顔を上げ廊下を疾走した。しびれで足の感覚が麻痺まひしている。それでも必死に走る。と、脇の教室のドアがスライドして、出てきた手がわたしをひきずりこんだ。悲鳴を上げようとしたがひんやりした細い手におさえられる。・・・・・・京だった。京は人差し指を口にあて、静かに、とジェスチャーで示した。


「あなたがあれに追っかけられてるところを見てたのよ」


 わたしが何も言わないうちに京は言った。どうやら京は隣の教師棟から一部始終を見ていたらしい。落ち着いてあたりを見まわすと、ガラス棚にホルマリン漬けにされた生物たちが並んでいる。ここは理科室だ。


「ひとまず奴をやり過ごしましょう、話はそれから・・・・・・」


「誰をやり過ごすだってえ?」


 いやらしく間のびした声。わたしたちはぎょっとしてドアを見た。わずかに開いた隙間から老婆の顔がのぞいている。陰険な笑みをうかべている。


「年寄りの地獄耳をなめるんじゃないよ。あんたたちのさえずる声なんかいやほど聞こえるのさ」


 京はわたしを後ろに押しやった。勢い、わたしは尻もちついた。老婆は体を押し込めるように教室に入ってきた。二人の距離は二メートル。老婆はいやらしい目つきで京を舐めまわした。


「ほほお・・・こりゃまたきれいな娘だねえ。これを人形にして持ち帰れば無明坊むみょうぼうさまもさぞおよろこびだ」


 わたしは恐怖を忘れ、怒りと妬ましさでおかしくなりそうだった。京が死神の生贄いけにえとして人形になる。わたしはそれを見ていることしかできない。それがたまらなくもどかしい!―――しかし、京はなぜか不敵に笑った。


「残念。人形になって帰るのはあなたの方です、ご老体」


「しゃらくさいわっ!」


 老婆の口からあの唾液が、しかもバケツ一杯分の凄まじい分量で吹きだした。それは京の全身に降りかかる。わたしは思わず目を閉じた。しかし、続けて聞こえたのはバシャッという水のはじける音ではなく、ガラスを割ったような甲高い粉砕音だった。


「京!」


 わたしは目を開けた。そして目の前の光景に目を見張った。京は立っている。やわらかい肌のままで。老婆はおののいている。その目を驚愕に見開いて。ふたりの足元には砕けた氷が散らばっていた。老婆が悲鳴をあげそうな顔で叫んだ。


「き、貴様、妖術師ようじゅつし!」


「そのとおり」


 京は老婆の喉首のどくびをひっつかんだ。


「妖術・氷獄ひょうごく!」


 一瞬、あたりの空気が冷えた。冷蔵庫をあけたときのようだ。パキパキと音とともに老婆の体が凍結したように白くなり、その肌にしもさえ立った。京が手を離すと老婆は倒れた。ゴン、と置物の倒れたような音がした。


 なにが―――起こったのだ?京は絶体絶命のピンチだった。老婆に死の唾液を吐きかけられた。けれども唾は凍り、そのうえ老婆さえも凍った。ふたりに共通する言葉は「妖術」。そういえばさっきもあの老婆は術とか言っていた。妖術ってなんだ?魔法のことか?


 呆然ぼうぜんとするわたしを京はそっと抱き起した。その手と体はあの日と同じ、氷像のように冷たかった。


「立てる?怪我はない?」


「うん、わたしは大丈夫。・・・・・・京、今のは」


「いまは何も訊かないで。後で必ずすべて話すわ」


 わたしは喉元まででかかった言葉をぐっとこらえ、呑み込んだ。


「・・・・・・わかった。いまは何も訊かない。いまはね。でも約束よ。いつか話してね、あんたが何なのか」


 京は無言のままうなずいた。



                   3



 濃紺のうこんの空に鎌のような弦月げんげつがかかり、うすくなびいた雲のに、出たり消えたりしていた。月は「人形屋敷」のまわりで吹きなびく草と、そこを突っ切るひとりの人間を照らすともなく照らしていた。その人間はなれているのかとぼ しい明かりの中をすいすい泳ぐように進んだ。ただ、奇妙なことに、身動きのたびにその体から「パリ、パリ」と音が鳴るのである。その人間は勝手にドアを開け、入り込んだ。いや、帰ってきたというべきだろう。これは館の住人だったのだ。


 館の中にはなんだか奇妙なメンツがそろっていた。四人の男が、思いおもいに過ごしているのだ。将棋をやっている者もいるし、人形を眺めいっている者もいる。どこにあったのだろう、大きな仏像を丁寧にふいている作務衣さむえ姿の者もいた。奇妙というのは、その全員が僧形そうぎょうなのである。入ってきた影に気づいて、仏像の手入れをしていた坊主が手を休めずに言った。


「お娑婆しゃば、遅かったな」


 お娑婆と呼ばれた女は何も答えなかった。紫のブラウス、軽いパーマのかかった白髪。その顔は蝋人形より白く、キラキラと輝いていた。


無明坊むみょうぼうさま・・・・・・お伝えしたいことがあります」


 抑揚よくようのない口調で老婆は言った。奥で人形を見ていた坊主が振り返った。この男が無明坊か。巨大な体はでっぷり太り、頭は禿げあがって太眉の下の目はトラの視線のような目力を感じる。


「どうした、お娑婆」


「先日屋敷に侵入した娘ですが、あの娘、やはりただの娘ではありませんでした。妖術師でございます。それもかなりの実力。・・・・・・わたしは死にました。やつの妖術で氷漬けにされたようです。そしてやつは何らかの妖術でわたしをよみがえらせ、このわたしを操り人形としました」


 無明坊は老婆の凍り付いた体に触れた。お娑婆は続ける。


「やつは命じました。わたしが・・・・・・あなたがた四人を殺すようにと・・・・・・」


 お娑婆の歳のわりにはふっくらした手が短剣をつかんだ。他三人の坊主がいっせいに立ち上がる。


「いまのわたしはやつの言いなり。ですが・・・・・・・・・言いなりのままでは死にませぬっ」


 震える切っ先を無明坊に向け、自分に向けた。壮絶に笑って、言った。


「無明さま・・・勝ってくだされ。勝って、このお娑婆の・・・・・・お娑婆めのかたきを討ってくだされ!」


 お娑婆は短剣を自分の細首に突き刺した。一度はうまく通らず二度、三度と突き刺した。しだいに喉はえぐれて真っ赤な穴が開き、赤いシャーベットのような血と肉片を散らしだした。短剣が食道をえぐりとったあたりで、お娑婆は倒れた。無明坊は悲しげに言った。


南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。お娑婆、お前の恨み、必ずはらすぞ」


 彼女の亡骸なきがらをやさしく抱きあげる。


「妖術・赤熱掌せきねっしょう


 無明坊の両手が赤く光りだした。と、お娑婆の凍った身体がしだいに解け始め、赤いしずくが絨毯を濡らした。無明坊の体が通常ではありえない、熱した鉄のような温度を持ちはじめたのだ。肉の焼ける嫌なにおいが、屋敷中に充満する。老婆の破けた喉から熱湯のような血がドクドクあふれ出し、床にどす黒い染みをつくった。が、それはほんの一分、いや三〇秒の出来事だった。まもなくお娑婆の身体は炎につつまれ、すぐに白い骨に変わってしまったのだ。無明坊はうやうやしく遺骨を床におろすと、いかにも無念そうな表情で言った。


「お娑婆は長いこと人形をつくり、我らを楽しませてくれた。その礼を返す時がいま、来たのだ」


 三人の坊主はうなずいた。いずれも双眸そうぼうに危険で残酷な光をうかべ、とても仏法に帰依きえする者とは思えない。


「だが、ただひともみに押しつぶしては、死んだお娑婆も浮かばれまい。どうだ、我ら四人で娘の身体を一か所ずつ切り落としていくというのは」


「と言いますと?」


「まず誰か一人が娘の右耳を切って落とすのだ。そして次の一人は左耳を落とす。気勢もえたところで最後の二人が右腕と左腕を奪い、かっさらって両脚を落とし、なぐさみ者とする。あの世にとどくほどの悲鳴を上げさせるのだ」


「それは妙案みょうあん!」


「しかるべき罰ですな」


 この恐ろしい提案を、男どもはおもちゃを与えられた子供のように喜んだ。


「それで誰が最初に行く?」


愚僧ぐそうにおまかせくだされ」


不空坊ふくうぼうか。いいだろう」


 不空坊と呼ばれた坊主はうりざね顔で、白く、ふやけてしわだらけの水死人のような肌の男だった。うやうやしく一礼すると、顎をつきだし、ややがに又でドアまで歩く。そのとき、二階の踊り場から彼とまったく同じ、ふやけた顔の男がぬっと顔を突きだした。


「おーい、みんな誰と話しておる。愚僧はここにおるぞ!」


 一同はそろって上を見上げた。一階にいた不空坊はさっと駆け出し、二階の不空坊は大笑いした。


「どうやらそろいもそろって目は節穴ふしあなのようだ。だまし甲斐のないやつらめ!あははははははっ」


 不空坊は2階の窓を飛び降りた。暗闇の中にその笑い声は遠く小さくなっていった。


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