百物語《ジャパニーズ・ホラー》を君に。

久方 玉兎

第一夜 ケセランパサラン

ケセランパサラン

 主に東北地方で見られる未確認生物。うさぎの尻尾のような白い毛玉で、持っていると幸せが訪れると言われている。桐の箱に納め、白粉を餌として与えることで飼うことができる。別名、ケサランパサラン、テンサラバサラ、ケサラバサラ。



 美しい草原に、彼女は一人立っていた。一面が青空の良い天気で、草原には色とりどりの花が咲き、まるで雪のように綿毛が舞っている。その幻想的な風景を呆けたように見つめていると、一つの綿毛が彼女に向ってふらりと舞ってきた。思わず手を伸ばした時、綿毛はまるでクラゲのようにゆらりと意思をもって浮かび上がった。

 どこかに誘うようにゆらゆらと飛んでいく綿毛をなぜ追いかけてしまったのか、彼女自身にもよく分からない。

 気が付くと、白い綿毛を追いかけて上ばかり見ていた彼女の足元には、


 ―――地面がなかった。




 肌触りの良いシーツの上で目が覚めて、懐かしい夢を見たのだなと武良むら 百恵ももえは気付く。上半身を起こそうとして、何かに阻まれた。別に、金縛りでもなければ、何の怪異でもない。右側を見ると、見目麗しい男――アレクシス・シークレイが彼女に抱き着くようにして眠っていた。子どものようなアレクシスの様子に苦笑しながら、彼の赤みがかった髪を撫でた。


 百恵がアレクシスに出会ったのは2年前のちょうど今頃、春から夏に変わろうかという時期だった。いつも通りに眠っていたら草原で綿毛を追いかける夢を見て、気付いたらシークレア王国の第三皇子だったアレクシスの上に落ちてきた。どうやら、シークレア王国、という聞き覚えのない国名からも分かるように、異世界トリップ、というものをしたようだった。それも、中世ヨーロッパのような街並みの、剣と魔法の世界に。


 意図しなかったこととはいえ、暗殺されようとしていた第三皇子の命を救ったらしい百恵は褒美を賜った。それがシークレア王国の市民権の獲得と第三皇子との一夜の伽だった。

 不法入国を見逃すばかりか市民権まで与えられ、身分の高い男に抱かれる栄誉まで賜るとはこの上ない幸運なのですよ、と使用人のような人々に口酸っぱく言われたが、はっきり言って百恵にとってその褒美は嫌過ぎた。市民権の獲得については、いつ帰れるかも分からない身の上故に有難い。しかし、第三皇子で美青年とはいえ、好きでもない男の性処理係はお断りしたい。この国の文化レベルも分からないので、妊娠からのお家騒動からの暗殺コースも、性病発症からの隔離からの病死あるいは焼殺コースも、濡れ衣からの皇子暗殺疑惑からの死刑コースも被害妄想とは思えず切実にご遠慮申し上げたい。

 さらにこの第三皇子、婚約者だった女性が不倫相手との子を孕んだため、つい数週間前に婚約解消したばかりだと使用人達が噂していた。確実に女性不信になっているだろうと察せられる第三皇子に対して、百恵は古風と言われようと遊びやお試しでは異性との肉体関係を持てない主義で色事の経験値が低い。赤身魚の水揚げで不況を買うことは必至だ。完全に死神に囲まれた。四面楚歌。

 結局そこで百恵が取った行動は、死亡フラグ回避に向けて無様に足掻くことだった。


 作戦その1、風呂に籠城して時間をかける。時間稼ぎはことごとく失敗した。真っ昼間から使用人たちに洗い上げられて磨き上げられて、夜になるころには抵抗する気力さえ残ってはいなかった。文句なしにピカピカになった。

 作戦その2、仮病を使う。これも魔法チートによってあえなく失敗した。御典医がやってきて治癒魔法とやらをかけると、どこにも異常はありませんね、とクールに言い捨ててこちらの言い分さえ聞かれなかった。むしろ竹馬の友となっていた肩凝りすら解消された。

 作戦その3、変顔をして皇子のヤる気を削ぐ。言うまでもなく失敗した。第三皇子は笑うでもなければ怒るでもなく無表情ノーリアクションで、ただ百恵が気まずくなっただけだった。

 作戦その4、酒で酔い潰す。暗黒企業の女性戦士としての威信は異世界の皇子を前に敗北した。第三皇子はかなりの酒豪らしく、水のように飲んでも顔色すら変わらなかった。

 4連敗で後がなくなった百恵が自暴自棄で投下した作戦その5。それがまさかの第一戦を勝利に導いた。


 「”昔々、ササン朝ペルシアにインドと中国という大国を治めるシャハリヤール王、北部の都市サマルカンドを治める王弟のシャハザマーン王がおりました”」

 ――作戦その5、千夜一夜物語をする。


 第三皇子の婚約解消の話を聞いた時に連想したのが千夜一夜物語だった。アラビアンナイトという名前で知られる千夜一夜物語の大枠は、妻の不貞によって女性不信に陥った王らが処女の娘を召し上げては処刑していくのを諫めるために大臣の娘であるシェヘラザードが千夜と一夜に渡って寝物語をする、というものだ。あの有名なシンドバットの冒険やアリババと40人の盗賊の話もシェヘラザードが語った物語の一部にあたる。物語の続きが気になるように物語の佳境に入ったところで次回予告をする作戦で千夜と一夜を語り切ったシェヘラザードはその教養と知性を称えられて諌言かんげんと助命を勝ち取った。

 もしも、百恵がシェヘラザードのように千夜と一夜を語り切ったならば、伽をすることなく生き延びることもできるのではないだろうか。


 正直な話、千夜一夜物語を全て覚えている訳でもなければ、そもそも全文を読んだことすらないし、原文自体に千話分の物語は記載されていないという説もある。百恵が千夜一夜物語を完全再現することは不可能だ。しかし、ここは異世界なのだ。少々我流の千夜一夜物語になっていたとしても問題あるまい。ついでに恐怖でナニが縮んでくれないかなという希望も込めて、百恵によるジャパニーズ・ホラー版千夜一夜物語が開始された。

 幸いというのか、百恵が中二病を発症した時に調べ漁ったのはギリシャ神話でもなければケルト神話でもクトゥルフ神話でもなく、雨月物語であり遠野物語であり、つまりは怪談話や怪奇譚であった。さらには最近の都市伝説も含めるのならば千話どころでなく語り尽くせる。こうして、百恵の一夜は「菊花のちぎり」とともに中二病と腐女子脳が完全勝利を収めたのだった。


 上手くいったかのように見えた千夜一夜物語作戦だが、惜しむらくは一夜を乗り切ることばかりを考えていたために、一夜どころではなく幾夜も貞操の危機に晒されることになるという致命的な作戦の欠陥に気付かなかったことと、たった一つの誤りによって百恵は自ら降伏せざるを得なかったことだ。

 馬鹿みたいな話だが、百恵はうっかり第三皇子のアレクシスを愛しちゃったのだ。初めは怖いくらい無表情だった美形の皇子様が次第に子どもみたいにワクワクした顔になっていくのだ。どうしてこれで恋せずにいられようか。うっかりをさらにうっかりした挙句、アレクシスと両思いになって婚約してしまい、今に至る。いや、うっかりし過ぎだろ何でだよ、とは百恵も自分で思っているのだけれど、生まれも育ちも皇子様なアレクシスの話術の方が一般人の百恵よりも数段上なためにあっさり丸め込まれたのは仕方ないことかもしれない。とにかく、最終的には不況を買うことなくパックリと美味しく食べられてしまったので、作戦その5もまた失敗となったのだった。


 完全敗北が明らかになった今でもアレクシスへの怪談話は続いている。逆にアレクシスがシークレア王国の民族話を話してくれることもあり、婚約者間の欠かせないコミュニケーションとなっている。そう、例えば昨夜の怪談話はケセランパサランについてだった。ケセランパサランは持っていると幸運を招くとされている白い毛玉の未確認生物のことだ。桐箱の中で白粉を餌として与えれば飼うこともできるのだという。夢のない話をすれば、ケセランパサランの正体は白カビだとか植物の綿毛だとか動物の毛皮を見間違えたのだとか言われているが、百恵はケセランパサランが実在したらいいなと思う。白粉を入れた桐箱の中で飼ってアレクシスと彼が愛するシークレア王国に幸運を招いてほしい、なんてちょっと恥ずかしいけど本気で思っているのだ。異世界トリップから2年も経った今になって草原での夢を見たのは、単に昨日の怪談話をしていて連想されただけなのかもしれないし、元の世界と決別を示唆しているのかもしれない。うっかり身も心も異世界人を愛してしまった百恵はもう、二度と日本には帰れないのだと――。

 ふと視線を感じて彼の方を見やると、アイオライトのような深い菫色の瞳と目が合った。


 「おはよう。起きたのなら、声かけてくれればよかったのに」

 「いや……朝日に照らされたモモエが天使のように綺麗で、見惚れていた」

 「……大袈裟」

 「大袈裟なものか。君は自分の美しさを少しは自覚するべきだ。……ところで、何をそんなに真剣な顔で考え込んでいたんだい?」


 慎重に言葉を選ぶようなアレクシスの口調から察するに、百恵が婚約を後悔しているのではないかと不安にさせたようだ。異世界トリップから2年を経て、アレクシスとも婚約して、百恵はこの地で屍を埋める覚悟をし始めているし、何度もそう言っている。それでもアレクシスは百恵が日本に帰りたがっているのではないか、婚約を後悔しているのではないかと心配し続けているようなのだ。


 「……貴方が隣にいて幸せだなって。そう思っていたのよ」

 「…………そうか」


 アレクシスにも分かっているのだろう。この心配は言葉で解決するものではない。異世界人の羽衣を奪ったアレクシスが一生をかけて背負うべき業だ。

 そして同時に百恵も不安を抱えている。たった一時の望郷の念や日本に残してきた大切な人たちへの未練が、この世界へ来た時と同じように百恵の意思も決意も無視して突然に、日本へ帰還させてしまうのではないかと。心配性の彼のために、ただ全力で目を逸らしている。


 「もう、起きる時間ね。今日の最初の講義は何だったかしら」

 「確か、淑女レディー・ミレイユの舞踏課業ダンスレッスンだっただろう。円舞曲ワルツは上手に踊れるようになったのかい?」

 「自分の足は踏まなくなったよ!」

 「……何故、円舞曲ワルツの様な緩拍子スローテンポの曲で自分の足を踏めるのかが俺には分からん」

 「どうせ運動神経抜群の皇子様は自分の足なんて踏んだことはないでしょうね!」


 軽口を叩き合って、冗談を言い合って。不安は尽きなくとも、百恵はそんな彼との日常が大好きだ。



 「白粉おしろい泡桐箱きりばこといえば、アレクシスが子どもの頃によく持って行っていたわ。やっぱり男の子だもの。虫とか綺麗な石とか宝物にして入れていたのかしらね」

 百恵の午後の予定はアレクシスの義母様とのお茶会だ。義母様は得体の知れない異世界人である百恵にも優しく接してくださるし、女性ならではの相談にも乗ってくださる。そして何より小さい頃のアレクシスの話をしてくれるので百恵にとって至福の時間だ。それにしても、少女漫画に出てくるような美形のアレクシスが、幼少期とはいえ虫の採集をしているところなんて想像がつかない。


 「この国の子ども達にはどんな虫が人気なのですか?私の国では一角虫カブトムシとか抓虫クワガタとかが一般的だったのですが……」

 「そうねぇ、一角虫カブトムシ抓虫クワガタはこちらでも人気ね。あとは……灯篭虫かしら」

 「灯篭虫……、あ。蛍ですね。この国は綺麗な水辺が多いのですね!」

 「えぇ、そうよ!豊富で美しい水資源がこの国の魅力だもの!」


 シークレア王国の魅力を語るときの義母様の表情はアレクシスが怪談話を聞いている時と同じ表情で可愛らしく、好ましいと思う。百恵から見たシークレア王国民はとても純真で純朴だ。怪談話をすると本当に日本の井戸や天井裏には様々な妖怪モンスターが住んでいると信じてしまうらしく、日本はどんなに危険な国なのかと本気で心配されてしまう。だからこそ、口裂け女のようなビビットな話の多い都市伝説を話すよりは、滑稽で悪戯好きで人間臭い妖怪たちの話をするようにしている。今夜はポップでライトな蟲に関連した怪談にしようと考えながら、百恵は桐箱の中身をアレクシスから聞き出す算段を始めた。



 その夜の百恵とアレクシスの最初の話題は当然、桐箱の中身だ。カブトムシかクワガタかホタルか。幼少期のアレクシスが宝物にしていたのは何だったのか、一日中気になって仕方なかった百恵は少し興奮気味だ。


 「母上の白粉箱か……。うーん、何を入れていたんだったか……」

 「別に隠さなくてもいいじゃないの。子どもの頃のことなんだし」

 「もう20年近く前だぞ……。全然覚えて、いや、白粉箱の隠し場所は思い出した」


 アレクシスはワクワクした様子を隠す素振りもない婚約者のために、何とか記憶を引っ張り出すことに成功した。


 「どこどこ?」

 「確か、王宮の眺望楼……ってまさか、今から行く気か!?」


 話している間にも百恵はもう寝室のドアノブを掴んでいる。


 「もちのろんです!レッツゴー!!」

 「餅……?列5……?じゃない、今何時だと思って……。というか姫夜着ネグリジェで……あ˝ぁー」


 哀れ、突っ込みの追い付いていないアレクシスは紳士教育の条件反射と独占欲でもって、薄いネグリジェ1枚で飛び出していった百恵に着せる上衣を引っ掴み、廊下を見回る衛兵たちの記憶を消しながら彼女を追いかけた。




 王宮の眺望楼の屋根裏にひっそりとその桐箱は隠されていた。電気のない中世ヨーロッパのような街並みは闇に沈んで、月明りと星明りと王宮の光と手元の光だけがぽぅっと浮かんでいる。この世界には魔法があるとはいえ夜通し光を灯すには大きなコストがかかるようで、権威を示すために夜通し火が灯っている王宮といえども、輪郭を照らす程度の薄ぼんやりした光がところどころに配置されているだけだ。故に、ほこりが積もって薄汚れた小さな箱はほぼ手元の光のみで薄ぼんやりと照らされている。


 箱の中には、――何も入っていなかった。

 

 ちょっと残念なような、虫の死骸とか出てこなくて良かったような、複雑な気分で顔を見合わせると、眺望楼一面に真っ白な毛玉が浮いていた。精々がペットボトルの蓋くらいの大きさの毛玉が天守閣の床を覆って、真っ白なもふもふのカーペットのようになっている。


 「ケセランパサラン……」


 呟いたのは百恵とアレクシスどちらだったのだろう。

 驚く2人の間に強い風が吹いて、無数の毛玉は闇に沈んだシークレア王国の街並みに消えていった。

 王宮の光に照らされて淡い蛍が飛び交っているような幻想的な景色に夢中になっている2人は、いくつかの毛玉が2人の髪や肩にくっついて消えたことなど、気付いてはいなかった。


 「アレクシスの宝物、結局何だったか分からなかったね」

 「あぁ」

 「綺麗……だったね」

 「あぁ」

 「王国のみんなが幸せになるといいね」

 「あぁ。……ここは冷える。モモエ、帰るぞ」

 「うん」


 冷えた身体に繋いだ手だけが温かかった。



 「今夜のお話はね、中国が発祥のお話なんだ。不思議な虫が引き起こした、不思議な病気の話――。」


 今夜も深々と夜は更け、彼女は語る。

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