7
以前、陸斗に訊かれたことがあった。
――やっぱり、他人の気持ちを知りたいから心理学を勉強しているのかと。
そのとき、大河は上手く答えられなかった。他人の気持ちを知りたいなんて思ったことなかったし、何となく表情だったり、しぐさだったり、で相手の意図を汲み取れると思っていたから。
でも、今なら全く違う答えを導き出せる。
おそらく、心理学を学んでいる人間は他人の気持ちを誰よりも理解したいと思っている。が、超能力やメンタリズムのような相手の心を読むなんてことは、現実的には無理だ。
だから、人は心理学を学ぶ。他人の気持ちなんてわかるわけないし、知ってはならないから。分からないからこそ、そこに近しい何かを求めるために心理学という学問が発展してきたのだろう。
ただ、NISEMONOという存在はそれらを超越して、人の心に住みつこうとする。本当を知ってしまったNISEMONOはおそらく苦しかったことだろう。
だって、見えなくても良いところまで知り得てしまうのだから。心が見えないからこそ、人間関係は魅力的なモノになるのだと思う。色んな人を好きなって、色んな人を嫌いになって、そうやって寄り添っていき、自分の周りに多くの人間が繋がっていることに気がつく。
そして、偽物なんていないんだって思える。
美咲に呼び出された高校までの道のりはそんなことを考えていたから、あっという間に着いてしまった。
夜の学校は少々ドキドキする。いつも見慣れている風景が違って見えるからだろうか。
大河は彼女に指示された通りの道のりを辿っていく。昇降口のすぐ隣にある窓から、学校内に入り、非常口のマークの階段を最上階まで上り、屋上に繋がる扉を開ける。
屋上の錆び付いた扉を開けるときに鳴る独特な音に気づいた美咲はこちらを向いていた。
「やっと、きたか」
黒いフードを深く被った美咲の表情はよく見えなかった。でも、声色からそれほど相談事は深刻ではなさそうだ。
「それで、相談ってなんですか?」
そういえば、NIEMONOの一件以来、こうやって美咲と話す機会が増えた。でも、これが昔は当たり前だった。もちろん、そんな記憶も感覚もないのだけれども。
「私……ずっと、隠してたことがあるんだ」
月明かりが美咲の顔を照らす。強かった仮面はすっかりと消えていた。美咲の素顔を初めて見たような気がした。
「どんなこと?」
敬語をやめてみよう。
彼女には気づかれないよう自然に。
「大河を守ろうと私なりに必死だったの。口調をちょっと強気な語尾にしてみたり、自分自身が強くあろうと思った。でも、私は誰かにはなれなかった。私は隠していたことが二つあるの。一つは私が強くないのに強いふりをしていたこと。もう一つは……きみの記憶を消し去ったこと」
美咲は月を眺めながら、そう言った。なんとなく屋上に呼び出された意味がわかったような気がした。
「知ってたよ」
大河がそう言うと、美咲は驚いた表情を浮かべてから笑っていた。もしかしたら、美咲は驚かせてやろうなんて思っていたのかもしれない。
「そっか。知ってたのか」
やはり、真実とは唐突やってくるものだと思い知った。美咲は小さな声で「残念」と言った。
大河はその言葉の意味が理解できなかったが、豹変していく美咲の様子を見て愕然とした。
自分のどこにそんな力があるのかと思うほど、大きな声が口から飛び出ていた。
「お前はいったい誰だ!」
完全に油断していた。可能性はゼロではなかったとはいえ、どこか浮かれていたのかもしれない。
美咲らしき人物から返ってきた答えは予想通りだった。
「どうもNISEMONOです」
彼女の声で、彼女の表情で、嘲笑うように言われたその言葉は強烈に大河の心を貫いた。
気がついたら、美咲らしき人物の胸ぐらを掴んで、美咲の安否を何度も叫んでいた。
「やっぱり、あなたはあんな人が良かったのですか。それとも、誰かを投影していただけだったりしますか。まあ、どちらにせよ彼女はもうこの世にはいませんが……」
その言葉に体の力は抜け去った。怒りなのか、憎しみなのか、悲しみなのか、わからない感情が自分の中で唸りをあげている。体はもう自分のものではないように重かった。
「あっ、安心してください。私はあなたを殺さないですから。というか、もう私も終わりですから。いわゆる、共倒れです」
「どういう意味だ?」
その言葉に、NISEMONOはフードを取った。
「これでわかりますか?」
その声は聞き覚えがあった。それも、最近の話だ。でも、すぐに誰かわからなかった。だって、いつもの彼女はたどたどしい口調だったから。
「まさか、佐竹さん? でも、なんで……嘘でしょう」
美香は美咲の仮面を脱ぎ捨てていた。初めて見る圧倒とした美香の態度に身が引けた。
「正解です。いやいや、演技というのは似合わないものですね」
「なんで……どうして……?」
大河の混乱している様子に美香は呆れるようにため息をついた。
「率直に言ってしまえば、私は無色透明で在りたくなかったんです。あなたのような灰色であったり、あなたの友人のように虹色であったり、私は何色でもいいから染まりたかった。ただ、それだけです」
言葉にならなかった。そんな理由で、NISEMONOになりクラスメイトたちを殺めてきたのかと思うと。ただ、咎められるほど自分は何かしたのかと思い返せば、何もしていないことに気がつく。
自分もまた自己満足の世界に閉じこもり、傍観者であったのかもしれない。
「いやいや、我ながら楽しかったですよ。無色透明であることを利用できましたし、私は母がいれば誰にでもなれるんだって実感しましたし、そうも思いました。木村綾子にも、加賀萌絵にも、そして、黒沢美咲にも」
美香は彼女らの特徴を掴んだ声を披露し、名前を読み上げた。そのときに絶対音感を持っているんだという美香のたどたどしい口調が脳内に響いた。
「そんなすごい力があるなら、女優でも声優にでもなった方がよかったんじゃないか?」
精一杯の皮肉は声の震えによって台無しだった。美香もまるで賞賛されたかのように笑顔を浮かべ謙遜した。
「いやいや、あなたにそう言われるとは思いませんでした。でも、これでNISEMONOごっこは終焉です」
そう美香が言うと、サイレンが街中に轟いた。
もっと早くに気づくことはできなかっただろうか。大河はずっと自分の心を握りつぶしてやりたい衝動に駆られていた。
自分にどんな感情を持っていても美咲は大切な仲間だった。確かに、何度も裏切りともとれる行為で、大河の心をぐらぐらと揺らがせた。前に進む足を削ぎ取られたような感覚もあった。
でも、いなくなっていい人間ではない。まだ、中学生の頃の思い出も聞いていないではないか。美咲の本心だって聞いていない。
人の記憶だけ奪っておいて、先にいなくなるなんてずるい話だ。
「佐竹さんは美咲や蓮や陸斗のことを仲間だと思っていなかったんですか?」
大河は声を必死に絞り出した。
「あなた以外の人間は正直どうでもいい存在でした。あのグループに入ったのも、自分たちが動きやすくするためであって、仲良しごっこがしたかったわけではないです。あなたは気づいていないかもしれませんが、私はずっとあなたのことだけを見ていたんですよ」
嘘か真かわからないような言葉で濁らされた。
ずっと見ていたという言葉に大河は一つの可能性にたどり着く。あのときのずっと見られていたような感覚が蘇る。
「黒沢さんの家から出てきたところをつけてきたのは佐竹さんですか?」
美香は大河の問いを即座に否定した。そして、こう続ける。
「あれは飯田くんですよ。私はその後ろにいました。おそらく、私の感情と一緒だったとは思うのですが、相手が違ったみたいですね。まあ、当然といえば当然ですが……」
美香はどこか楽しそうに言葉を並べていた。
次々となだれてくる事実に大河は必死に食らいついた。蓮は情報屋で中立の立場を取っていた。でも、彼もまたロボットではなく人間だった。それも、多分向けられた感情は嫉妬だ。
「蓮がそんなこと……」
言葉が心だけでは収まらず、口からこぼれ落ちた。
「最後の最後まで、あなたは目を背けるのですか。今までやってきたように事実から……」
我慢とは良くないとその時よくわかった。気づいたら、美香の胸ぐらを掴み、屋上の落下防止の防護柵に叩きつけていた。
「お前に何がわかる……」
声も手も震えて、まるで自分の体ではないような気がした。今まで内側に溜められていたエネルギーが解放されたのだろう。
「私の家にまで来て、私がNISEMONOだって気づかないあなたに言われたくないですね。まあ、もう終わりですから、全て言いますけど、あれは本当の家じゃないんですよ。あそこ、父の家なんです。いわゆる、NISEMONO製作所でした」
その言葉に背筋が凍りついた。大河たちがNISEMONOについて話し合ったあの場所には死体があったということだろうか。そんな腐敗臭はしなかったし、血痕ひとつ残っていなかった。
「ああ、もちろん、血が残らないように工夫しましたし、遺体もすぐに運び出したりしたので、そのあたりは抜け目なかったと思います。ただ、黒沢美咲は気づいていたのではないかなと思います。もちろん、根拠なんてありません。全て、私の想像の話です。彼女は私の家に入るなり、死体が置かれていた部屋にいこうとしていましたから。流石に止めて使っていない部屋に誘導しましたが、どうもその後の行動も不可解でしたし……」
美香はそこまで言い切ってから、思いっきり息を吸う。
彼女の呼気が大河の右頬を襲い、思わず顔をしかめる。その拍子に大河の手を払い、美香はこう言った。
「いい加減離してもらっていいですか。私を今どうしたって、結果は同じです。ただ、ここでもし私に危害を加えることがあるのなら、あなたも私と同じ道をたどることになりますよ」
その言葉に大河は美香と距離をとった。
一筋の汗が大河の額を流れる。屋上の空気はひんやりとしているのに、体から発せられる熱が邪魔をする。
大河は一つ息を吐く。
NISEMONOのからくりを紐解いてしまえば、この程度のものなのだと呆れる。特殊メイクが上手な母親と絶対音感をもった子ども。使い方によっては、全く正反対の結果を生み出すかもしれない才能は犯罪者という最悪な方向へと導かれた。
美香はゆっくりと腕を上げて、ある方向を指さした。
「わかるでしょ。あの赤いランプがあんなにも止まっている。もうこれで終わり。実際のところ、これほどこんな状況が続くとは思わなかった。すぐに終わってくれるだろうと思っていたし。けれども、まあ、母親の言うとおり、人間はおかしい生物なのかもしれないですね。目の前の不安や恐怖の中に閉じ込められ、声を出せずに状況をただただ傍観している。愚かなものですよね」
美香は遠くを見つめそう言った。
大河の方を見ずに、美香は言葉を続ける。
「そうだ、黒沢美咲はあなたのことを相当好きだったようでした。だって、自分が殺されると分かっているのに自分のことなんかよりも、あなたのことを心配していたのだから。人の好意って時には冷たい残酷さを残すものですよ。本当に哀れなほどに」
美香の声は無色透明だった。これから何色にでも染まりそうな綺麗な声。ナイフは使い方次第だ。人に向けるのか、それとも、自分に向けるのか。
ここ数日、騒がせていたNISEMONOは姿かたちを変え、佐竹美香というある一人の少女になっていた。
大河は震える体を必死に抑えて、美香に尋ねた。
「あなたがNISEMONOとして、僕と会ったのは学校前の交差点……覚えてますか? 隣に陸斗もいました」
感情を押し殺した声はフラットに飛んだ。だいぶ正気を取り戻していた大河だったが、美香の次の言葉を聞いて、再び我を失った。
「なんのことです? 私が最初にあなたと接触したのは木村綾子のふりをしたときで、交差点でなんて会っていませんよ」
美香は怪訝そうな表情を浮かべていた。今更、嘘をつく必要もない。だったら、どういうことだろうか。
つまり、大河は美香があの日休んでいたことと、フードを深々と被ったやつに陸斗と一緒に追いかけられたという事実を重ねて、あれも美香の仕業だと思っていたのだ。
しかし、そうではないとなるとあれは誰だったのだろうか。
「まあ、いいです。あなたはPTSDで少々精神的にまいってしまっているようですから。これでおわりです」
一瞬のことだった。美香の姿は屋上にはもういなかった。その情報を整理する前に、生々しいぐしゃりという不快な音が耳に届いた。
美咲もこういう感覚だったのかもしれない。六田奏子が自殺するときも今みたいに一瞬の隙をつき、この世から消えたのかもしれない。
無残にひしゃげた落下防止の防護柵の一部を見て、大河は叫んだ。
乾燥した空気を突き破る大きな叫び声がどこまで駆け抜けた。
その叫んでいる自分をどこか傍観しているような気がして、より一層気持ち悪さを倍増させた。
大河は全身の力が抜けて前方へと倒れていった。
◆
今朝のニュースはNISEMONO捕まるという一面が何度も繰り返された。チャンネルをどのボタンに合わせても同じ内容をやっていた。
「天才的なメイクリストのまさかの裏の顔」だったり、「親子で猟奇的な犯行……止めることはできなかったのか」であったり、どこか見栄えを気にした文字が羅列された。
結局、海堂鈴江は逮捕され、その娘の美香は罪から逃れられないと踏んでの自殺だったのだろうとまとめられた。
大河は、黒沢美咲の遺体が高級マンションの一室から見つかった事実をテロップで何度見ても実感がわかなかった。また、あの上から目線の口調で自分の肩を叩いてくれるのではないかと思ってしまう。
彼女は全てを消し、全てを置いていった。おそらく、誰かに聞けば美咲との関係がどんなものであったかわかるだろう。でも、それを記憶として、自分の感覚に受け入れることはできない。
一層のこと、この事実さえも綺麗さっぱりと忘れ去りたいものだ。また、一からのスタートだと簡単にはいかないとわかっているけれど、彼女の消したものと置いていったものの重さを比べれば、その方法もありなのではないか。
大河はそんな現実から逃げるように自宅の玄関のドアを開けた。
◆
非日常はものの数日経ってしまえば、それが日常となってしまう。まさに、あの数日間は青天の霹靂ともいえることが起こりすぎた。そして、また終わりを告げたと思えた都市伝説は序章に過ぎなかったことを思い知ることとなる。
「まさか、こんなにも上手くいくとは思わなかったよ」
青年は誰に語りかけるわけでもない独り言を呟いた。風が逆立たせた髪の毛を揺らした。まだ、数日しか経っていないとはいえ、見慣れたこの街を見下ろす気分は感慨深いものだった。
「さて、次の街へと行こうか」
青年の声は静かに闇に溶け込んでいった。
人々は彼のことをNISEMONOと呼んだ。彼自身には実体がなく本当のところ寄生虫のように誰かの体に宿っては周囲の人間に影響を与える。
いわゆる、それはカリスマ性ともいえる輝かしいものに人々は取り込まれてしまうのだ。そして、だんだんと自分が自分ではなくなり知らない誰かへと変化していく。
その過程は、アイデンティティの形成の過程とかなり類似しているように思えるが、全くといっていいほど違う。
そう彼らを表現するとすれば、まさに人食いといえるだろう。ただ、物理的な人食いではなく、体の中を蝕んでいくというものだ。そして、NISEMONOは食われて空っぽになったところに居座る。まるで、その人自身のように。
髪を逆立てた青年はゆらゆらと歩き続けた。ときどき顔のパーツがバラバラに崩れていったり、取れてしまったりしていた。
「そろそろ、潮時かな」
取れた口を元ある場所につけて、青年は不気味に呟いた。
閑静な住宅街を抜け、山を越えて、気づけば、喧騒が広がる都会のど真ん中に立っていた。
時折、すれ違う人の肩にぶつかりながら、どこに向かうこともなく歩き進む。
たどたどしい足取りとは違って、視界の情報整理は機械のように瞬時に分析されていた。
青年は都会の喧騒に紛れて静かに呟く。
――見つけた。
今までの足取りが嘘だったかように、鋭いものに変わり、青年は黒髪の少女の元へと一直線に向かう。
少女は青年の存在に気づいてもなお、逃げようとはしなかった。まるで自分の宿命であるかのように受け入れていた。
青年はけたけたと笑ってから、手を差し伸べる。
「これであなたも変われます」
少女の目には輝きなどなく、あるのは闇だった。青年に意味のわからない言葉を投げかけられても、表情一つ変えることなく、そっと青年の手をとった。
すると、たちまち青年の手の温かみは失われ、魂が抜け落ちたように青年の体は前方へと崩れていった。
それでもなお、少女は驚く様子もなく、すっと青年の手を離した。
異変に気づいた周囲の人たちは、スマホを取り出し警察に電話をかけたり、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
少女の顔のパーツがバラバラに崩れていき、鼻は口と重なり、目は鼻の位置まで落ちていた。
「これが新しい体」
少女はぽつりとつぶやき、崩れた顔を一瞬で引き締め、後ろを振り向く。
力尽きた青年の周りに集まる野次馬を見て、少女は嘲笑い、不気味に呟いた。
――誰がHONNMONOなんだろうね?
少女はたどたどしい足取りで、人間社会へと紛れ込んでいった。
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