4

 ――偽りの記憶を植え付けるなんてそんなこと許されるんですか!

 少女は優しそうな雰囲気の女性に迫った。


 ――彼が苦しむくらいならと言ったから、私はその方法を提案しただけですよ。

 鋭い睨みが向かってきているというのに、女性は優しい口調だった。


 少女は葛藤していた。自分のエゴを突き通すのであれば、彼には悪いが記憶を改ざんさせてもらう。でも、それは本物とはかけ離れた偽りであり、もし、自分自身に都合の良い状態が出来上がったとしても素直に喜べないだろう。


 ――本当に、あったものをなかったとリセットすることができるんですか?

 少女は念のため、もう一度女性に尋ねる。


 ――ええ、必ずとは保証できないけど、心理学の世界で偽りの記憶についての実験例もあるし、実証性もある。ネックなのは倫理に反するという部分だけだけど、私と○○さんだけの秘密にできるのなら、それも問題にならないでしょう。


 秘密の共有をするほど女性との仲は深いわけではない。でも、彼女なら誰にも話さないだろうという信頼はある。


 だから、足元がしっかりしていることへの安心感が判断を鈍らせてしまった。


 ――やれるだけ、やってみます。 技術も知識もない領域に手をつけてしまった。


 ――時間はかかると思うわよ。早くても、半年から一年後くらいかしらね。

 人は自分の欲望だけで、こんなにも簡単に道徳心を失える。それでも、そういう罪

悪感がないわけではないから、心の中で何度も呟くのだ。

 

 これは彼の心の傷を癒すために行う治療なのだ、と。








 翌日、学校は全校集会を開いた。


 ただ、その全校集会は一連の事件についてではなく、学校で飼育されているうさぎとニワトリが殺されたことへの指導と注意喚起のためであった。


 大河は前もって蓮から情報を得ていたから、それほど驚かなかったけど、知らなかった生徒たちからすれば、衝撃に近い驚きだっただろう。その証拠に、一連の騒動への学校側の対策は何かないのかという声があちらこちらから聞こえた。


 もはや、動揺や不安はクラス内に留まることなく、学校全体へとどんどんと蔓延していく。


 犠牲者は三人に上り、一日に一人のペースで殺されているという現状だ。しかも、その目的も、標的になる明確な条件も、何もかもが不確かな状態である。このことに不安を抱かないわけがない。

そう、何もかもが情報不足なのだ。


 大河はちらりと横に目を向け、美咲の姿を視界に捉える。一時でも、彼女を疑ってしまったが、おそらくこういうことがこれからも続くことだろう。


 だって、自分が自分であるかなんて他の誰にも分からないのだから。さらに、その相手がNISEMONOともなれば、より難易度は上がる。


 でも、やつの犯行を止められる手立てはどこかにきっとあるはずだ。その糸口さえ捕まえてしまえば、あとは芋づる式に暴き出していけばいい。


 大河は一つ息を吐く。

 それにしても、学校で飼育されている動物を殺したのは、本当に六田奏子の仕業なのだろうか。殺されていた動物の近くに、六田奏子の持ち物が落ちていたからといって、必ずしも彼女の犯行とは限らない。


 それに、どうもこれは今回の一連の事件との関係がありそうな気がする。もちろん、確信めいたものはなにもない。根拠はと訊かれても、ただなんとなくそう思ったとしか言えないだろう。


 ――六田奏子って家族殺したんだろう?

 彼女が動物の件で呼び出されている時に、そんな声が聞こえてきた。


 本当に彼女がそんなことしたのだろうか。もし、それが事実だとしても何か特別な理由があるのではないか。


 気づけば、いつも彼女を庇う立場を取っている。どこかでまだ、彼女が家族を殺した殺人犯であることを拒んでいる。

 

 大河は頭を横に振り、雑念を振り払う。

 奏子のことを思い浮かべると、彼女は人殺しなんかしていないという考えがどうしても想起されてしまう。それはまるで長年染みついた癖のように無意識のどこからか湧き上がってくるのだ。


 やはり、空白の記憶は思い出さないといけないということだろう。もし、それが最悪の結果をもたらしたとしても、知らなくてはならない。


 無意識だけが先行して、記憶という事実が置いてけぼりにならないために。

 この日は、全校集会だけで学校が終わった。一連の事件で学校側はパンク状態であることや生徒たちの精神面も考慮してということらしい。


 今日も午前中で終わったため、何人かの生徒たちは教室に残っていた。確かに、部活も未だに停止されていることだし、暇を持て余している人が多いのだろう。


 大河たちも例外ではない。


「それにしても、本当にこの頃物騒だよな。まさか、学校の動物まで殺されるなんて。次は学校でも破壊するつもりだったりして」

 陸斗は呑気にそんなことを言った。


「いやいや、人を殺しても学校を破壊することはないでしょ」

 蓮は陸斗の方に目を向けず、冷静に言った。

 大河はしばらく二人の会話に耳を傾ける。


「わかんないじゃん。NISEMONOは学校ごと潰そうと思っているかもしれないし」


「それなら、なんでうちの学校なんだよ。他でも良かっただろ」


「そんなの知らねーよ。NISEMONO気分だろ。なあ、大河はどう思う?」

 二人の視線は大河に向けられる。


 そろそろ、打ち明けてもいい頃合いだろうと大河は昨日あったことと、美咲と組んでNISEMONOを暴こうとしていることを伝え、二人に協力を要請する。


 蓮も陸斗も表情を崩さず聞いていた。表情を崩さないという意味を深く考えてしまうと、色々と嫌なことがよぎってしまうけれど、二人が表情を崩さないのではなく驚いて固まっていると考えれば幾分か気持ちは楽だった。


 誰だって、人の心までは完璧に読みきれない。だからこそ、面白いのではないかと言う人もいるが、とてもそんな気分になれやしない。


 今は、少しでも相手の心中を読み取り判別していかなくてはならない。こいつは、偽物でこいつは本物。正解なんてわからないし、間違えなんてものもない。でも、結果的に間違っていればそこで終わってしまうのだ。


 大河が一通り話し終えると陸斗が答える。


「いや、俺は協力するって前にも言ったから構わないよ。それに、美咲ちゃんがいるならより安心だろうし」

 蓮は「正直、大河だけだと心配だもんな」と余計な一言を加えて、大河の要請に頷いた。


 そして、どこから現れたかわからない美咲は大河の肩を叩き、決まりだなと言った。


 そう、協力まではそれほど難しいことではないと思っていた。問題は次のステップなのだ。


 大河は美咲に視線を送ったが、そんな目など跳ね返すような睨みが返ってきたので、仕方がなく再び大河が話し始める。


「それでだ。問題はどこで話し合うかということなんだ」

 机に腰掛けていた陸斗が机から下り、怪訝そうな表情を浮かべた。こいつは意味が分かっていないだろうなと思い、大河は蓮にどこか良いところはないかと尋ねる。


「それなら、図書館とかどう?」

 蓮はあっさりと答えた。


 大河は首を横に振る。

 テスト勉強する程度なら、図書館でも良かっただろうが、今回に関してはその場所が一番行ってはならないところである。


「いや、なんというか、そういうところはダメなんだ……」


「なぜ?」

 蓮はすぐさま口を挟む。


「誰に聞かれているかわからない場所というのかな。そういうところでは、NISEMONO話ができないだろう」

 今回はNISEMONOを相手にするわけで、誰が利用しているかわからない不特定多数の人が訪れる公共機関は除外しなければなない。なぜなら、情報の漏洩があるからだ。


 それに、これは信頼関係を築くという意味も含まれている。つまり、どこかで何かが漏れたとするのならば、盗聴器など仕掛けられていない限り、内部犯になる。おそらく、頭が切れるであろうNISEMONOはそこまでのリスクを負って、犯行は行わないだろうし、もし、仮に犯行が行われたとしてもどこから漏れたのかという判断材料があるのは心強い。


 情報漏洩があれば、NISEMONOの範囲が限定的になるだろうし、なければ、それ以外がNISEMONOだという絶対的な信頼関係が生まれる。

 これらは一昨日、美咲の家を訪れた際に二人で決めた条件だ。


「なるほど、そういうことね」

 蓮はにやりと笑い、頷いた。


 一方、陸斗は頭を抱えていたため、大河は子どもに説明するよう優しく丁寧に意味を伝えた。そうすると、なんとなく理解してくれたようだった。


「できれば、誰かの家が良いと思うのだけれども、どこがいいですか? あっ、ちなみに僕と黒沢さん以外で」

 それを聞いて、明らかに陸斗の表情が曇った。


「なんでだよ、大河は良いとして、美咲ちゃんはなんで?」

 美咲はため息をついてから、説明する。


「リスクの問題だよ。おそらく、NISEMONOは私たちの家を知っている可能性がある。私も彼もNISEMONOに接触しているからね。だから、私と彼以外というのが条件。わかった?」

 美咲は最後に説明が下手だからこうなると文句を言っていたような気がするけれど、大河はそんなこと聞こえていなかったように平然と話し始める。


「それで、二人はどう?」

 彼らは首を横に振った。


 大河が予想したとおり、難航を喫した。

 陸斗も蓮も家はダメだということで、話し合える場所がなくなってしまった。一歩譲って、学校とも思ったが、誰かに何かを聞かれていたという言い訳が出来てしまう限り、それはダメだと諦めた。


 ――あの。

 まるで音階のソの音がフラットに響いたような声だった。その声の主に覚えがなく誰だろうと四人一斉に声のした方を振り向く。


 そこには、本を大事そうに両手で抱えた佐竹美香が立っていた。

 コミュニケーション能力に長けた陸斗は何の遠慮なしに美香に話しかける。


「美香ちゃん、どうしたの?」

 彼女は少し俯いて、本を横の机に置いてから口を開く。


「私の……家なんかどうです……か?」

 そこにいた誰もが、彼女の言ったことの意味を理解できなかった。いや、普段の彼女から想像できないお誘いだったからだろうか、上手く意図を汲み取れなかった。


 佐竹美香という人間は一言で言えば、大人しい生徒だ。暇さえあれば、読書に勤しみ、誰かが話しかけないと、彼女の声すら聞けない。だから、自発的に何かをすることに対して、みな驚いてしまった。


「良いんですか!」

 陸斗の声は廊下にまで反響していった。

 美香は控え目に頷く。


「大河どうかな?」

 正直、大河はこれ以上の人手を増やすことに反対であったが、現状、美香の家を借りる以外の手立てはなかった。それに、彼女は大人しいから、NISEMONOの標的にもならないだろうということが大河を後押しして、首を縦に振った。


「よし、じゃあ美香ちゃんの家にレッツゴー」

 陸斗の陽気な声が何かの合図だったかのように、みんなが動き出す。

 美香は机に置いていた本をとって、再び大事そうに抱えて歩き出す。


 もちろん、彼女がNISEMONOではないという証拠はどこにもないから、疑いの目を忘れずに持っておこう。



 美香の家はこのあたりで有名な高級マンションだった。


 彼女の家庭は母親しかいないシングルマザーだと知っていたから、貧乏で質素な生活を送っているのだろうと勝手に思っていた。

 しかし、結果は真反対で随分裕福な生活をしているようだ。


「でも、びっくりしたなーまさか、美香ちゃんの家がこんな高級マンションだったなんて」

 陸斗は珍しそうにオートロックを見つめながら、そう言った。


「私の……お母さんが有名な……メイクリストだから」

 蓮はすかさず美香に尋ねる。


「もしかして、佐竹のお母さんって海堂さん?」

 美香は少しばかり恥ずかしそうに頷いた。

 

 やはり、自分の家族が有名だと恥ずかしいのだろうか。確かに、人は何かと付け入る隙を与えると変に悪目立ちする。だから、美香は大人しく静かに学校という場所で無色透明であるのだろう。


 何色にもなれるという部分では陸斗も同じものを持ち合わせている。でも、彼女のそれと彼のそれとではジャンルが違う。どれほど違うかといえば、血を争うホラー小説と甘くて切ない恋愛小説ほど違う。陸斗は周りの色を変えてしまうほどの影響力を持っていて、美香は周りの色と同化するというカメレオン体質である。


 五人はエレベーターで七階まで上り、金色で書かれた表札を横目に室内に入る。大河たちはいたるところで驚きの声を上げていたが、美咲だけ当たり前だと言っているように躊躇なく奥へと進む。


「あっ……黒沢さん……私の部屋はこっちね」

 美咲は鼻をならし、美香が指さした方へと向きを変える。

 美香の部屋も圧巻だった。この広さは学校の教室とさほど変わりないのではないか。


 しかし、ここもあまり生活感がなかった。まるでモデルルームみたい部屋だ。だから、きっとここはあくまでも彼女の内側ではなく外側を見せられているのだろう。


「えっ! ピアノが家にある」

 陸斗はいちいちオーバーリアクションだ。


 どこからそんな声が出るんだよと思うけど、彼にそれをそのまま訊いたところで、喉からという何の捻りもない当たり前の答えが返ってくることだろう。


 陸斗の根は真面目であると大河が一番よく知っている。


「音楽……すきだから」

 美香は恥ずかしそうに答えた。


「へえー弾けたりするの?」

 陸斗は部屋の隅にあるグランドピアノをさすりながら訊いた。


「弾くよ……」

 大河はそれよりも気になることが一つあったが、それを訊く前に陸斗がまた尋ねていた。


「どれぐらいうまいの?」


「絶対音感……わかるかな……」

 陸斗は眉間にしわを寄せて、考え込んでしまった。


「俺はわかるよ」

 横から腕を組んだ蓮がそう言った。


 そういえばと、大河は美咲の姿を探す。

 みんなが注目しているグランドピアノとは反対側のところに彼女はいた。美咲は目を細めて外の景色を眺めていた。


 そう、まるで学校の屋上から眺めているように。

 絶対音感すごいねという蓮の声で、大河は我に返った。美咲から視線を外し、グランドピアノの方に向ける。


「なんかやってみせてよ」

 美香の困った表情を無視して、陸斗は彼女にどんどん迫っていく。

 美香はじゃあ……と言って、ピアノの鍵盤に触れる。そして、一音ずつ出して、その音をそのまま声に乗せて室内に響かせた。


 大河は素直に驚いていた。

 彼女とは中学生の頃からの付き合いであるが、目に見えるような才能があるとは思わなかったからだ。いや、誰にだって一つくらい才能はあるけれど、彼女の才能はそういう出っ張りがないところだと思っていた。


 中学生の頃、大河は美香の通知表を一度だけ目にしたことがある。内容はものの見事に全てが五段階評価の三だった。際立った成績も、際立った学校生活も送っていない。そういう姿が佐竹美香という人間だと思い込んでいた。


 だから、いつの間に絶対音感なんて技術を身につけたのだろう。音楽の授業で特別歌が上手いとも思ったことないのに。


「ちょっと、そろそろNISEMONOについてやりたいのだけれど」

 美咲は不機嫌そうな表情を浮かべ、その表情通りの声色が飛んできた。

 それからは、美咲が主導で色々と話し合いが行われた。


 もちろん、NISEMONOの特徴からNISEMONOに近い人物は誰々だという細部の内容までだ。


 その中で互いに思った推測を話し、吟味していく。美咲が目を増やした意味を考えつつ、大河は耳を傾ける。


 案の定、話し合いはNISEMONOが六田奏子だという流れになっていた。その流れに、大河だけが反対した。


「だから、言っているだろ。六田奏子は前科があるんだって」


「それはあくまでも過去の話なんじゃないか。今話しているのは現在の六田さんだ」


「何が六田さんだよ。そんな他人行儀になりやがって」

 しまったと、大河は口をつぐんだ。そうか、みんなからすれば奏子と仲良かった自分が記憶のどこかに存在しているはずだ。


「いや、待ちたまえ今はそんな私情をはさんで話せとは言っていない。発言はあくまでも私情を抜きにしてくれ」

 美咲の厳しい言葉に蓮も口をつぐむ。


「ちなみに、いつからNISEMONOの噂ってあるんだっけ?」

 陸斗は何かを思い出したかのように朗らかな口調で言った。


「確か、三年前くらいからだったはずだ」


「いや、それは違う。俺の知っている情報だとNISEMONOは、十年も前にあったことになっている」

 その蓮の言葉に美咲はすぐさま否定した。それはまるで確信を持って言っているように感じた。


「なんで、そんな自信をもって言えるんですか?」

 大河はすかさず美咲に訊く。


 彼女の表情がいつもと違って翳りを見せた。

 記憶のどこを探しても彼女のそんな表情を見たことがないし、覚えていない。でも、大河の身体はしっかりと覚えているのか、すごく悲しくなった。


 わからないのにすごく悲しい。

 彼女は一言、調べたからよと言った。


「ちなみに、十年前は今ほど詳しい特徴があったわけではないけど、マイナーな都市伝説として存在していたらしい。NISEMONOが急激に広まったのは、今から三年前と半年前の二つだ」

 情報屋としての仕事道具であるだろうメモ帳を取り出し、蓮は言った。

 大河は心の中で三年前と呟く。


「そういえば、三年前って六田奏子の事件があった年じゃないか?」

 陸斗は眉間にしわをよせて言った。


「そうだね。まあ、これはあくまでも偶然だろうけど」

 これまでずっと黙っていた美香が口を開く。


「本当に……偶然なのかな……?」


「というと?」


「何か違っていたら……ごめんなさい……。その時から……NISEMONOという言葉を……よくうちの学校で……聞くようになったような……気がして」

 相変わらず読めない文字を解読するような口調で、美香は言った。


「それは、普通だと思うけど」

 蓮は怪訝な表情を浮かべる。

 美香は首を横に二回振ってから、再び口を開く。


「広めた……根源はあの中学生だった……頃のクラス……誰かなって」

 つまり、奏子の事件とNISEMONOが広がったという時期は偶然ではなく意図的に行われたと美香は言いたいのだろう。


 確かに、それが本当ならものすごい話だ。誰かがNISEMONOをわざと広め、その年に奏子の事件を起こした、もしくは、起きる原因を作った。


 しかし、驚くべき事実はそこだけではない。本当に驚くべきところは、美香という人間がどれほど頭の切れるタイプかということだ。


「どうしたの?」

 その蓮の声に大河は顔を上げる。


 すると、そこには美咲と陸斗の歪んだ顔があった。まるで親に怒られている子供のような表情をしていた。


 でも、視線が彼らに集まるとすぐにその表情を崩し、いつもの表情へと戻っていった。そして、何事もなかったように何でもないと言った。


 蓮は納得のいかない顔をしていたものの、それ以上踏み込もうとはしなかった。

 美咲は一度時間を確認してから、口を開く。


「佐竹さんはどうしてそう思ったの?」


「いや……六田さんがおかしくなったのと……NISEMONOの噂が立ち上がった……頃が同じだった……から何かあるのかなと……思って」

 その言葉に対して、美咲はそうとだけ言って、話を切り替えた。


「きみの父親から何かわかったことはなかったか?」


「ごめん、昨日は帰ってこなかったんだ」


「そうか……」

 そう言って、美咲は額に手をやった。


 大河はふと窓のある方へ目を向けた。

 窓の外から見える景色が、澄んだ水色の空に並ぶうろこ雲からすっかり様変わりし、群青色の空が広がっており、その向こう側に微かなオレンジ色が灯っていた。


 結局、話し合われた結論は、内部犯の可能性を低くするため、なるべく二人以上で行動することとして、一番怪しいとされた六田奏子をみんなの目で見張るというもので落ち着いた。

 美咲の目を増やすということはこういうことだったのだろう。

 

 帰り道の際に、蓮が美香の母親について独り言のように話し始める。


「まさか、あの有名なメイクリストの海堂鈴江(カイドウ・スズエ)の娘だとは思わなかったな。全く、そういう嫌らしい匂いもさせてなかったしな。彼女が有名なメイクリストって言い出さなかったら、全く分からなかったよな……。まあ、あまり人に言いたくないというのも分かるけど。彼女の母親はブログに過激なメイクを載せて売れたみたいなものだったし。けして、綺麗に売れたって感じではないだろうからね。まあ、この頃はテレビに出てないみたいだけど」


 大河は海堂という苗字がずっと引っかかっていた。どこかで聞いたことがあるような気がするけれど、どこで知ったのか全く思い出せない。


 大河が記憶の片隅を必死にめくっていると、陸斗が振り返って言った、


「でも、美香ちゃんと苗字ちがくね?」

 その言葉に蓮は待っていましたと得意げに答える。


「それは佐竹の両親が離婚したからね。たしか、六田奏子の事件があった年に離婚したはず」


「なんで、蓮はそんなことまで知っているのかね」

 美咲はゴキブリでも見たような顔をしていた。


「いやいや、これは俺の親が言っていただけだから」

 蓮は一つ声のトーンを落として言った。


 「あっ」と、大河は無意識に声が出ていた。周りになんだよと訊かれ、何でもないと笑って返す。

 海堂という名前をどこで聞いたのか思い出した。そうだ、母親から聞いたのだ。家に帰ったら、母親に海堂という人物像について詳しく訊いてみることにしよう。


「佐竹も色々と闇が深そうだったよな」

 別れ際に蓮がぽつりと呟いた。

 その言葉は誰に拾われることなく、暗闇に溶け込んでいった。






 大河はうなだれていた。


 灰色を飲み込んでしまったように気分は落ち込み、体を重くさせた。

 ふと、陸斗と美咲の表情が浮かぶ。悲しげでもあり、切なそうでもあった。


 あの表情は、風呂に入っても、好みの肉じゃがを食べても、大好きな心理学者のアドラーの本を読んでも忘れられなかった。


 ずっと頭にこびりついて、離れなかった。

 大河は深呼吸してから、ベットに寝そべる。


 一つ一つを整理していこうと、大河は思考を巡らせた。

 まず、母親に海堂鈴江のことを訊いたら、娘想いの良い母親だと言っていた。しかし、海堂鈴江が娘想いだということは、ほぼ事実とは異なると考えていい。なぜなら、あの自宅を見たからだ。あれほど、生活感のない自宅と普段は帰らないという母親。それに、美香の言動から察するにあまり母親のことを好意的に思っていない可能性がある。


 この状況から踏まえて、海堂鈴江という人間はすごく周りの目を気にしている可能性がある。つまり、娘想いは建前の仮面であって、本当はそうでもないということだ。


 次に、今回の話し合いについてだ。これは、あの二人の表情の意味を汲めればわかりそうだが、そう簡単に口を開いてくれることはないだろう。しかも、それが空白の記憶の部分と重なるのであれば尚更だ。


 さて、どうするべきなのか。

 大河は寝返りをうって、余計な情報を消すために目をつぶった時だった。自室のドアがノックされた。


 大河がはいと応えると、目の前に父親の徳郎(とくろう)が立っていた。

 徳郎は大河とは似ていない体格をしている。犯罪心理学者ということで有名でなければ、格闘技でもやっているのではないかと思われることだろう。


 大河はいつもと様子が違う徳郎を見て、姿勢を正す。

 徳郎から、厳しい躾なんて受けたこともないし、どちらかといえば楽観的な人間で、取っ付きやすいという雰囲気だ。


 それなのに、今日は違った。


 ――話がある。

 徳郎の厳かな口調に大河はすでにペースを乱していた。

 それから長々と話された。それはとても知りたくもない現実がごろごろと転がって、大河の心を必死に折ってやろうとしていた。


 徳郎の優しい語り口から、こぼれる残酷な未来がとても恐ろしく感じた。

 そして、大河は後悔した。


 あのすっと体重ぶん沈む感覚を思い出す。そうか、あれはそういうことだったのかと、大河は右手に力を入れた。


 まだ、陸斗に掴まれた部分の変色は治っていない。痛みは改善されたとはいえ、とても人に見せられるものではなかった。でも、少しでもあの時に起こったことを鮮明に説明するためには、仕方がなかった。


 ――そうか、それが事実でもお前は。

 父の優しい口調はどこかに消え、今までに聞いたことのない声を耳にしていた。やんわりとしていた包帯が凍りついて固まってしまったような冷酷さがあった。


 絶対的に信頼をおいていた人物からの非情な宣告に絶望を通り越して、呆然とただただ立ち尽くすことしかできなかった。

 大河は最後に一つだけ確認を取る。


「あれは――いや、NISEMONOは人間ですか?」

「ああ、今回の一連の事件は人間の仕業だ。化け物でも何でもない」

 悲痛な言葉に目を背けたくとも、背くことができない。ただ、再びNISEMONOに先手をとられてしまったという敗北感だけが残った。

 また――やられた。

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