5-2
覚醒は急速だった。ぱっちりと目を開けば、驚き顔の
「……ライル殿」
少し腫れぼったい目をしばたたき、凪音は心底安心した、という吐息をついて、
「良かった」
と、ライルの手を握り締める手の力を更に強めた。ライルもふっと笑んで、少しだけ、握り返す力を込める。
ひたすらに眠って体力を回復させたからだろうか、それとも夢の中でリルが言った通り、彼女の力の片鱗を受け取った影響か。世界がやたら明瞭で、暗いはずの室内は、唯一灯る明かりの火でしっかりと見渡せて、外の雨音は大きく耳に届き、凪音のつけている花の香料がふわりと漂う。あらゆる音や色、においが今までよりはっきりと感じて取る事ができた。
身を起こし、凪音が手を離すのを待つと、「よっこらせ」と相変わらずおやじくさいかけ声を出しながら立ち上がる。縁側に歩み寄り、障子に手をかけて、勢い良く開け放つ。
ぱあん! と高い音を立てて障子が開くと同時、滝のように降り注いでいた雨が、ぴたっと止んだ。雷音も瞬く間に遠くなってゆく。
三日空を覆い続いた暗い雲の隙間から、太陽光がまるで梯子のごとく降り注ぐ。『
「わかった」
光の彼方に存在する一点の闇。天津地の南東にある闇の洞窟で、『
「ナギネ」
表情を引き締めて振り返れば、ぽうっと惚けるようにこちらを見ていた凪音が、弾かれたかのごとく我に返る。何をそんなに見入っていたのか。首を傾げた後、ライルは決然と言った。
「俺の装備を用意してくれ」
それで察したのだろう、凪音は深くうなずき、部屋の押入からライルの服と大剣、荷物を取り出した。いつライルが目覚めても構わないよう、用意してくれていたに違いない。
『
『少しどころでないはないじゃろ、このロクデナシ』
耳元で、リルのいつもの罵倒が聴こえた気がして、口元を緩めた。
覚悟などとうに決まっている。部屋を出て行こうとして、ライルは、凪音が戦装束を身にまとっている事に気付いた。まさか、ついて来るつもりか。『闇樹』との、正真正銘世界の命運を賭けた戦いに。
「足手まといにはならぬよう最善を尽くす。万一の場合は、容赦無く私を見捨ててくれて構わない」
ライルの懸念を感じ取ったかのように、凪音はきっぱりと言い切り、不意に泣きそうな目をして、口元だけは微笑んだ。
「そなたがリル殿に懸想している事は重々承知だ。迷わずリル殿を優先してくれ」
瞬間、沈黙が落ち。
「――っへあああああああ!?」
ライルは妙ちくりんな悲鳴をあげて、手足をこれまた妙な形に曲げてしまった。
誰が、誰に、懸想していると?
「そなたたちを見ていればわかる」
ライルの動揺を置き去りにして、凪音はとつとつと言葉を継ぐ。
「女の勘をなめないでいただこう。信頼感があるからこそ、憎まれ口も叩き合えるのだろう」
言われて思い返す。
出会い初っ端に投げ飛ばされた事。
底知れぬ胃袋に財布を脅かされた事。
数知れぬ罵倒を浴びた事。
地獄の筋肉痛。
いつも尊大な態度。
たまに見せるしおらしさ。
毛虫を心底嫌がった子供っぽさ。
過去を語った時の頼り無い横顔。
笑った時には、惹きつけられるくらい可愛くて。
(……ああ、そうか)
熱を帯びた顔を少しでも隠す為に、口元を手で覆い隠す。
(俺、あいつに惚れてたのか)
『真白』を独り占めしようとした『闇樹』のように。『禍土』と愛し合った
だが、今はそんな己一人の感情に揺れ動いている場合ではない。ぶんぶん首を振って余計な思考を駆逐すると、凪音をじっと見つめ、言い聞かせる。
「愛だの恋だのその話は今は置いとく。とにかく今度は最強の竜が相手だ。本当に、あんたを気にしている余裕は無いかもしれねえ。それだけわかっててくれ」
凪音はまっすぐにライルを見返すと、「承知した」と神妙にうなずいた。
二人は部屋を出て、屋敷の人間達の視線を浴びる中、堂々と廊下を進む。
「ライル様」
出入り口の門を抜けようとしていたところで呼び止められたので、振り向く。凪音の姉である朱音が胸の前で両手を組んで、黒目がちな瞳を潤ませて立っており、その後ろには、厳しい表情をした
「千草様の仇を、とは申しません。ただ、無事のお帰りを祈ります」
朱音はそう言って、胸に当てていた手を、そっと腹に添える。
「人と竜は、わかり合えるのだという証を、どうか」
「儂は相互理解だの何だの、難しい事は考えぬ
丸めた頭を撫でながら、轟也が後を請け負って進み出る。
「凪音が見込んだ婿殿だ。最大の成果を、期待しておる」
そうして、がっしりした大きな右手をライルに向けて差し出す。それを握り返すと、ぎゅぎゅぎゅーっときつく握られ、大きな傷のある顔が迫って来て、どすのきいた声で囁かれた。
「儂の凪音ちゃんに何かあったら、末代まで祟るからな」
迫力満点な脅しに、さっき凪音に対して「気にしている余裕は無い」と言った事実も吹っ飛び、ライルは振り子人形のようにかくかくとうなずくしかできなかった。
轟也が手を離すと、ライルは空を見上げた。雨雲はすっかり去り、三日ぶりの太陽が行く手を祝福するかのように輝いている。
「ナギネ」
手招きで呼ぶと、凪音がそろそろと近づいて来る。その腰をがばりと抱いて、彼女が顔を真っ赤にする間に、ライルは念じた。
(ほんっとうに少し、どころじゃないじゃねえかよ)
自分の中に宿った『真白』の力が応えて、ぶわさっ、と、音を立ててライルの背に翼が生じた。それはリルが『真白』の片鱗を発現した時に見せるものと同じ、天使を思わせる白い羽根だ。
おっさんに天使の羽根、というあまりにも不釣り合い極まりない光景と、最早人知を超えた現象に、
南東へ向けて。
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