3-5
すうっと。
そうして、彼女を中心にぶわりと吹き出した烈風が、ライルも、人さらい連中も、『時風』をも吹き飛ばし、林の木々を根元から激しく揺らした。
「なんっじゃこりゃあああああっ!?」
どこぞの国で見た王宮兵団ものの演劇の中で、銃に撃たれた主役が発したのと同じ絶叫が、ライルの口からほとばしった。その顔に、ごん、と吹き飛ばされて来た太い枝がぶつかり、じんじんする痛みの中、たり、と右の鼻の穴から生温いものが伝い落ちた感覚がする。ごうごうと唸る風の音が耳を塞ぐ中、人さらい達の悲鳴が遠く聴こえる。かなりの距離を吹っ飛ばされたのだろうが、助ける義理も余裕も無い。
鼻血を垂れるに任せ、近くの木の幹にしがみついて、この烈風の中心にぐぎぎぎ、と顔を向ける。
凪音はそこにいた。緑色の石を握り締めて、意志の無い瞳で虚空を見つめたまま、動かない。だが、静止した彼女とは裏腹に、彼女を中心に吹き出す風は威力を増すばかり。おまけに鋭さを増して来て、小さなかまいたちが時々襲いかかり、頬や手の甲に傷をつけてゆく。
「この、大馬鹿者!!」
風の音に塞がれたはずの耳に、リルの怒鳴り声が鼓膜を破るのではとばかりにやたら大きく聴こえて、ライルは顔をしかめる。横を向けば、白い尻尾と羽根を出して竜の姿を半分見せたリルが、必死に羽ばたきその場に踏み留まっていた。黙っていれば愛らしいその顔に、見た事も無い怒りをたたえて。
「竜の力の欠片をただの人間に持たせるな、こんのノータリン!!」
ノータリンとは何だ。新種の特効薬か何かか。いや、「脳」「足りん」というとてつもない罵声か。呑気な思考をしかけ、「うわお!」集団で吹き飛ばされて来た毒キノコの群をばしばし浴びた所で、俺何でまさにノータリンな事考えてるんだ、と、現実に帰って来る。
「だって、『
おまけとばかりに鼻面直撃を目指して飛んで来たテングダケを振り払ったところで、至極当然の質問をリルに投げかける。リルはばっさばっさ羽ばたきながらも、顎に手をやり、考え込むような姿勢を維持していた。器用というべきか、それとも実は『
「『水蓮』の時はわらわも驚いたんじゃい。竜の力の欠片は、人間の手には負えぬ代物。手にすれば暴走を呼び起こす。わらわの『
そう言われて、思い出す。『水蓮』の力の欠片をライルが取り出してリルに渡そうとした時、彼女は目を丸くして驚いていたのを。『真白』の力を得ていたライルには、竜の力の悪影響が及ばなかったのだろう。
だが、そんなのんびりした思考をしている場合ではない。風は一層強まり、虚ろな目をした凪音は、ふらふらとよたつきながら、一歩、また一歩と頼り無い歩みを踏み出す。
「まずいぞ」
リルが眉間に皺を寄せて、唸るように洩らした。
「あの力は人の手には負えん。このままでは、遅かれ早かれ、ナギネは生命力を吸い取られて」
死ぬ。
その一言が、ずんと重くライルの腹の底に沈み込んだ。途端、頭の片隅に追いやって忘れようとしていた、思い出したくない記憶が、泥の泉が湧くように蘇る。口の中が苦みを覚えて、顔をしかめる。
「……無いのかよ」
一流
「正気に戻す方法は」
未来ある若者である凪音の命を奪う訳にはいかない。何より、この失態を招いたのは自分だ。骨の二、三本砕けてでも、自力で挽回するしか無い。
ライルの決意を感じ取ったのだろうか。リルは琥珀色の瞳でじっとこちらを見下ろしていたが、不意に背を向け、
「無い事も無い」
頭上を見上げながら飄々と言い放った。
「じゃあ早く言ひょほえい!」
急き込んで一歩を踏み出そうとうっかり手を離した瞬間、暴風に吹き飛ばされそうになり、変な声をあげながら木の幹にしがみつき直す。
「なに、古典的だが確実な常套手段よ」
そんなライルを肩越しに振り返り、リルはにやっと牙を見せた。
「呪われたお姫様には、王子の口づけ、じゃ」
かぽん、と。変な音を立ててライルをこの星という中心に見立てて星々が巡っているようであった。いや、確かこの世界の理の中心は太陽であって、この大地さえ太陽を基準に回っているのだと、声高に主張して、異端裁判にかけられた天文学者がいたか。
いやいやそんな事は今はどうでもいい。
『王子の口づけ』とリルは言った。『呪われたお姫様』は間違い無く、今まさに竜の力に縛られている凪音だろう。だが王子様は誰だ。星が煌めきながらライルの脳内を高速で周回し、ある瞬間に、ぴたっと止まる。
「……おい」
やっと思考の星が集約し、眉間に皺寄せ口をひん曲げる、変な顔のまま、ライルは呻くように洩らした。
「それ、俺がやれってか」
「貴様以外の誰がおるか、このヌケサク。ちゃんと責任取るがええ」
当たり前だ、とばかりにリルが鼻を鳴らす。たちまち落ち着いたはずの脳内が、再暴走を始める。
ライルとていい歳だ。若い頃は顔と実力と金にものを言わせて、女の子達とけっこうよろしくやっていた。当然、やる事もばっちりよろしくやっていた。若気の至りで彼氏持ちの少女に手を出して、その彼氏が鉈を握り悪鬼のごとき形相で追いかけて来たものだから、取る物も取りあえず、死にもの狂いで逃げるようにその街を飛び出した事もある。所謂黒歴史というやつだ。
それをやめてからというもの、人と適度に付き合う事はして来たが、あくまで狩竜士としての活動に支障を来さない程度で、深入りは、する事もさせる事も無かった。無愛想ではなかったが、取り立てて愛想が良い訳でもなかった。
だのに、今。
自分の過失で死に向かう少女を見て、放っておけない自分がいる。その為に、目の前の尊大な竜に、頭を下げずにいられない自分がいる。
「頼む」
暴風に飛ばされないよう幹にしがみついたままの、誠意の欠片も感じられない体勢だったが、ライルはリルに向かって何とか低頭した。
「あいつを助ける為に、お前の力を貸してくれ」
「……『お前』ぇ?」
途端にリルが、不機嫌に顔をしかめる。
「『貸してくれ』ぇ?」
「申し訳ございませんリル様ナギネを助ける為に誠に恐縮ながらあなた様のお力をお借りしたいのですがどうかよろしいでしょうか」
彼女の不機嫌さをヒッシヒシ感じ取って、即座に口調を改めて一息で言い切る。人一人の命がかっているのだ。矜持が云々言っている場合ではない。
「わかってきよったではないか」リルが満足そうににやっと牙を見せる。「さすがわらわの狩竜奴」
直後、ふっと身体が軽くなるのを感じる。『真白』の力が宿ったのだ。幹から手を離して風に立ち向かっても、ライルの身は飛ばされる事無くしっかと地面に足を踏み締めて立つ事が出来た。
ざっと腐葉土を蹴り飛び出す。竜の力の欠片を握った凪音の顔色は青白くなり、ひゅうひゅうと呼吸が浅くなっているのが見て取れる。最早一刻の猶予も無いだろう。
至近距離まで近づいて、両手を伸ばす。頬を押さえ込んで、血の気の引いた紫の唇を見つめる。
「……初だったらそれなりに責任は取るからな」
声に出して詫びて、ひゅうっと一息吸い込むと、ライルは凪音の唇を自分の唇で塞いだ。
それだけではショック療法にならないだろう。やる事はしっかりやって来たライルは、とある街の娼婦に仕込まれた、『これをやられて落ちない異性はいない』という舌技を披露する羽目になった。すさまじい舌技だけに、何とも筆舌に尽くしがたい。
(地の文がボケを入れるなー!!)
謎の存在に突っ込みながら、ライルの超絶キスは続く。
やがて。
色を失っていた凪音の瞳に黒が戻る。焦点の定まっていなかった目が正気の光を取り戻し、それから、真ん丸く見開かれる。背後から、ぴょうと冷やかすようなリルの口笛が、やたら大きく聴こえた。
凪音の手から力が抜けて、ぽろり、『
「このくそったれ『真白』! 受け取れえええええ!!」
振り向きざまに大きくふりかぶって外角高めへストレート、石をブン投げる。恥ずかしさと悔しさと情けなさが入り交じった、狩竜奴の全力を込めた一球を、リルは片手で事も無げに受け止める。
「今日わらわに三回暴言を吐いた事、覚えておれよ」
その琥珀色の瞳に昏い怒りを宿して、低く呟く事はしっかり忘れずに。
そうして、緑の石を己の胸に当てる。『時風』の力の欠片はリルの中へと吸い込まれ、それを合図にしたかのように、それまで吹きすさびいていた風が、ぱたりと止んだ。
事態が収まった事に、ほうと息をついたと同時、凪音がまさにくたり、という音を立てそうなほどに脱力して、膝から崩れ落ちそうになった。ライルは慌てて両腕を伸ばし、彼女が腐葉土に口づけをする前に抱き留めた。
「ら、らいるろの……」
すっかり腰砕けになって呂律も回っていない凪音が、耳まで真っ赤になってライルを見上げる。黒の瞳が熱っぽく潤んでいて、何だか良からぬ感情が刺激される。
(いや待てちょっと待て本気で待て。俺はおっさんでこいつは子供だ。今のは人助け、人工呼吸みたいなものだ。何の他意も無いんだぞ)
心臓が口から飛び出しそうなくらいにばくばく言っている。初恋少年か、と言わんばかりの動揺に襲われて、ライルはしばらく凪音と見つめ合う形で固まっていたのだが。
「なーにをボーッとしとるんじゃ。やはり貴様は少女趣味か」
「違うわ!」
背後からリルの呆れ声をかけられて、必死に否定しながら彼女を振り返る。『時風』の持っていた力を取り戻したリルは、既に尻尾と翼を仕舞い込み、いつもの外見のみいたいけな幼女の姿に戻っていた。
「そ、そんな事よりだな」
まだぐにゃんぐにゃんとしている凪音の肩を支えてしっかりと立たせてやると、ライルは向こうでひっくり返っている人さらいどもを顎で示した。
「あいつらどうするよ。今回は未遂とはいえ、今までさんざっぱら悪事を働いて来た事には間違いねえ」
「や、やはり近くの街で憲兵に突き出すべきであろうな。同じ事を繰り返されては、旅人も安心してこの辺りを通れないだろう」
凪音が至極当然な答えを返して来る。しかしその頬はまだ赤くて、ライルが振り向くと、顔を赤くして目をそむけてしまう。
やはり嫌われてしまっただろうか。事故半分とはいえ、ライルのミスで彼女の多分ファーストキスを奪ってしまったのだから、幻滅されても仕方無い。
……と思ったのだが。
「しかしそれにしても、ライル殿の腕前には感嘆を覚えた。ますます、我が国を救う為に共に来て欲しい」
凪音は熱っぽい瞳でライルを見上げてうっとりと微笑み、それからリルの方を向く。
「リル殿も、ただ者ではないと思っていたが、まさか竜であられたとは。お二人の助けを得られれば百人力だ」
「あー、それな」
途端にリルが頬を赤く染めて、その頬を指でぽりぽりかく。どうも褒められるのはこそばゆいらしい。
「説明は追々してやるから、他言無用じゃて」
「勿論。ご事情はあるだろうから、約束はお守りしよう」
いつも横柄な『真白』が、一人の少女に持ち上げられて照れている。見た事も無い光景にライルがにやにやして、どう突っ込みを入れてやろうか考えていると。
「四」
リルがぎろっとこちらを睨みつけ、低く呟いた。どうやら三回暴言を吐いた事に加えて、揚げ足を取ろうとした事もカウントに加えられたらしい。一体どんな意趣返しが来るのやら。その前に、明日は地獄の筋肉痛なので、天誅が下るならとりあえずその前か後にして欲しいものだ。
すっかり相手の気持ちがわかるようになって来た狩竜奴に、「ライル殿、リル殿」と凪音が改まって声をかけ、やはりしっかり七十五度のお辞儀をした。
「改めてお頼み申す。我が国『
その言葉に、ライルもリルもきょとんとし、数秒後に呆然と口を揃えた。
「「……『
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