3-3

「ほんっとうに、すまん!!」

 お互い水から上がって服をまとった後、ライルは草の上に膝と両手をついて、地面にめりこませそうな勢いで頭を下げた。

「い、いや」

 凪音なぎねもまだ顔を真っ赤にしながら、しどもどと返事をする。

「私もはっきりとは言わなかったしな。誤解を与えたままだったのは非常に申し訳ない」

 凪音はれっきとした女性だったのだ。道理で、線が細くて顔つきも声も男らしくなかった訳だ。

 という事は。

 ライルが水浴びに行くと言った時のリルの含み笑いを思い出す。彼女は機嫌云々ではなく、最初から凪音の性別を正しくわかっていて、何が起こるかを把握した上で状況を楽しんでいたのだろう。

「あの性悪ババア」

 まんまとかつがれていた事にライルが毒づくと、凪音がきょとんと目をみはり、小首を傾げる。つややかな黒髪が流れて頬にかかり、色気すら覚える仕草、これは間違いようもなく女性のそれだ。女だとはっきりわかってしまうと、先程のなまめかしい肢体を思い出して、心臓が口から飛び出して転げ落ちそうなほどにばくばくと脈打っている。

「と、とにかく戻ろうぜ。あいつに文句の一つも言ってやらなきゃ、腹の虫が治まらねえ」

 そう、このままではライルは、知らなかったとはいえ年頃の娘の裸を見てしまった変態おっさんの不名誉をひっかぶる。自分の裸が御開帳されたのはどうでもいい――いやよくないがこの際どうでもいい――が、凪音は年頃の娘だ。名誉は嫁入りにも関わるだろう。特に東の国は、男女の慎みに対して厳しいと言う。彼女の父親にでも知られようものなら、腹かっさばいて詫びろなどと言われるかも知れない。この手で腹をかっさばくのは、竜の腹だけで勘弁して欲しい。

 そんな恐れと、リルへの怒りをぐるぐる抱いたまま焚火の所までライル達が戻った時、しかしそこにはリルはいなかった。焚火だけがぱちぱちと音を立て、馬車も馬もそこにあるのに、少女の姿だけが見当たらない。

「……花摘みであろうか?」

 凪音がきょろきょろと周囲を見回して、ぽつりと呟く。しかし、近辺へ気を払ってみても、人の気配は感じられない。嫌な予感を覚えてライルは地面に視線を下ろし、そしてがばりと這いつくばるように身を屈めた。

 人間の靴跡が、草を倒して刻まれている。大きさは成人男性、数は、三。跡を辿れば、川を離れて林へと消えている。

「――行くぞ」

 どこへ、という凪音の返事を待たずに、馬車から離していた馬の背にひらりと飛び乗る。状況を把握しきれないままながらも駆け寄って来た凪音の手をぐいと引っ張り、自分の後ろに座らせる。凪音が腰に腕を回して、しっかりとつかまる。先程まで裸がどうとか言っていた羞恥心をかなぐり捨てて、ライルは林の中へと馬を走らせた。

 不遜な態度と実年齢で忘れかけていたが、リルは傍から見ればただの幼い少女だ。しかも整った顔立ちをして、黙ってさえいれば大変愛らしく見える。彼女の正体を知らない人間からしたら、目を惹かれずにはいられないだろう。

 もし、人さらいを生業とする輩に狙われたら、と危惧しなくてはならないのは、凪音だけではなかったのだ。

 リルなら問題無いと思って一人にしてしまったのが仇になった。彼女の狩竜奴かりゅうどとして最大の失態だ。そしてその大失態は、自分の手で拭わねばなるまい。

 手綱をひとつ、大きく叩いて、馬の速度を上げる。犯行現場に足跡を残し、こちらが追跡に使うだろうに馬をそのままにした。そんな迂闊さを持つ犯人ならば、この道を行くだろうという見当をつけて、ライルは馬を走らせる。

 果たして、ベテラン狩竜士かりゅうどの勘は見事に的中した。林を抜けるところで、三体の人馬が視界に入って来た。先頭の男が小脇に抱えた黒いフリルがひらひら揺れている。

「止まれよ。でないと、首と胴体が泣き別れだ」

 低い声で凄みながら、ライルは背中の剣に手を伸ばし、鞘から引き抜く。前を行く男達が振り返り、一様にぎょっと目を見開いた。それもそうだろう。髭面の男が抜き身の剣を手に、にたりと唇をめくりあげて物騒な言葉を吐きながら追って来たのだ。逃げても止まっても命が無いと思うだろう。男達はわめきながら馬に鞭をくれて速度を上げた。

 ライルはちっと舌打ちして、自らも馬の速度を上げる。手綱を操り林の木々を上手くかわして、先を行く人さらいとの距離をあっという間に詰めた。逆に追いつめられた敵は、素人乗馬で木を避けきれず、一人がどごんという轟音と共に大樹にぶつかって落馬した。

 ライルはそいつには目もくれず、引き続き残る二人を追いかける。一人に横並びになって、驚愕に完全に硬直した男に向けて、とても正義の味方とは思えない、悪魔のような笑みを見せつけた後、大剣を振るう。

 はなから当てる気など無かったが、相手をびびらせるには充分だったようだ。男は悲鳴をあげながら仰け反り、そのままひっくり返って馬からずり落ち、地面に転がった。

 背後に置き去りにされる相手にはもう関わらずに、リルを脇に抱えた最後の一人に接近してゆく。すると、凪音がふっと腰に回していた腕をほどいて立ち上がる。何を、と問うまでも無く、ライルは彼女の意図を悟り、馬の速度を上げた。

 ライルの馬が人さらいの馬に追いつき、二頭が横並びになる。そのタイミングを見計らって、凪音が馬の背を蹴って人さらいの男へ飛びかかり、二人――男が小脇に抱えたリルを含めたら三人――ごともんどりうって馬の背から転げ落ち、乗り手を失った馬は混乱してあらぬ方向へと走り去った。

 幸い林の中は腐葉土に覆われた柔らかい地面だ。落馬しても頭を強く打つ事も骨折する事も無い。凪音は男の首根っこをつかんだまま、すらりと鞘から刀を抜くと、じたばたする男の眼前すれすれをかすめて地面に突き刺した。弱い者ばかり姑息にさらって、荒事には慣れていないだろう男は、ひっと喉の奥で悲鳴をあげて完全に硬直した。

「リル殿、大事無いか」

 凪音が油断無く男をおさえながら、男の小脇に抱えられたリルに声をかける。と、もがもがもがっ、とくぐもった声が返って来た。

 両手足を縛られて、さるぐつわをかまされたリルは、早く助けろ、とばかりにむーむーこもった唸り声をあげて、身じろぎする。そこにライルが追いついて、荷物の中の縄で男を簀巻きにすると、リルの縄を断ち切り、さるぐつわを外してやった。

 ぷはっ、と、大きい息ひとつつきながら身を起こしたリルは、琥珀色の瞳を果てしなく不機嫌に細めて、

「遅いわ、この馬狩竜奴ばかりゅうど

 と、開口一番憎まれ口を叩いて来た。まあ、殊勝な礼などはなから期待していなかったが、しおらしい言葉のひとつくらい出ないものだろうか。

「お前こそ」ライルはぶうたれたリルを見下ろして、あきれきった台詞を返す。

「お前の力なら、この程度のチンピラ三人なんて、あっという間にのせるだろうが」

 すると、リルがぐっと言葉に詰まったかと思うと、手を組み胸の前でその手を行き場無く揉みながら、そっぽを向きつつ小声で返す。

「……ほ、本当にいきなりだったんだわい。気づいたら抑え込まれてたんじゃ」

 完全に油断した、とぽそりと付け足す。

 ぶうぶう口の中で文句を言っていたリルはしかし、やがて不平を述べる事を諦めると、ぱんぱんとスカートの汚れを払い、簀巻きにされた男の前に仁王立ちになって、

「さあて」

 と腕組みし、にたりと般若のごとく口の両端を持ち上げた。仁王も般若も東方の存在で、ライルはとんと目にした事が無いが、後に凪音との間でこの話が出た時、『あの時のリル殿は、まさしくそのようなかんじだった』と語ったのだ。

「いたいけなわらわをこんな目に遭わせたのじゃ。代償は、それなりに払ってもらうぞ」

 本当にいたいけな少女なら、そんな悪魔みたいな形相はしない。そう指摘したいのはやまやまであったが、ここで余計な首を突っ込んでは、怒りの矛先がこちらに向きかねない。ご愁傷様、とライルは心の中で両手を合わせて、リルがかがみこんで悪漢の顔をのぞき込むのを見守る。

「まずはその鼻をコキッとへし折ってやろうかのう? タムの実を口の中に放り込んで、このさるぐつわで吐き出せないようにしてやるのも良いか」

 リルは心底楽しそうに仕返しの方法を宣告するが、言っている事は子供の悪戯レベルが混じっている。

 タムの実はどこでも育つ果実だ。良く似たナラの実は甘酸っぱいのだが、タムの実はほぼ同じなりをしていながら、その皮は香辛料をたっぷり使ったカレーより、数倍辛い。皮をむいてしまえば信じられないくらい甘い実が待っているのだが、そこにたどりつくまでには、分厚くて、むいている間にも玉葱よろしく涙が止まらない辛みを持つ皮が待っているので、よほどの愛好家でなければ食そうと思わない。

 それを皮のまま口に突っ込むのは、人さらいへの罰というよりは、最早嫌がらせの域だ。実際、身動きの取れない人さらいはさーっと青ざめ、「やっ、やめっ、やめてくれええええ!」とまな板の上の鯉のように身体をくねらせた。

「ま、まあ、リル殿」

 数時間の邂逅ですっかりなだめ役になってしまった凪音がぽんぽんと肩を叩く。

「怒りの気持ちはわからなくもないが、こやつらを罰するのは我々ではない。近くの町の憲兵に託して、正当な裁きを下すべきだ」

 直後、凪音を見上げるリルの琥珀色の瞳が、氷点下に凍った。そのようにライルには見えた。

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