3-2

「ほうほう、桜とはそんなに種類があるのか」

「最も有名なのは染井吉野。かつて東の果てに存在した島国の神域の名だ。八重も非常に美しく咲く。黄桜は、酒の銘柄にも使われているな」

 御者台のライルをほっぽって、幌の中で和気藹々と、楽しげな会話が交わされている。

「かつて、かの島国が戦に明け暮れていた頃、前線の歩兵は桜のように潔く散るべし、と歌にまでされていた事もあったそうだ」

「ふむ。いかにも争い好きの人間が考えそうな事だの。歌で戦士を鼓舞するのは、戦の常套手段だろうて」

 いや前言撤回。和気藹々と、物騒な会話が繰り広げられている。とにもかくにも、凪音なぎねとリルはすっかり意気投合したようだ。尊大なリルを前にして、どうなる事かと思ったが、凪音は彼女の態度を個性として扱ってくれたようだ。リルも、自分の知らない話を色々としてくれる凪音の事を気に入ったらしい。いつも以上に饒舌だ。

「ああ、桜が見たいの。終わってしまったのは残念だの」

 馬車の床にのの字を書いてぶつぶつ言うリルを、凪音は手を焼く子供をなだめる母親のような慈愛に満ちた表情で、とんとんと肩を叩いて慰める。

「また来年見に来れば良い。それに桜は、季節が終わってしまえば困る事も多くてな」

 少年が溜息をついてゆるゆる首を振るのを見計らっていたかのように、その「困る事」は、おとないを告げた。

 ぽとり、と何か軽い物がライルの頭のてっぺん、丁度つむじあたりに落ちた気がした。鳥の糞でも落とされたかと思ったが、それにしてはもじゃもじゃ頭がもぞもぞしてくすぐったい。片手で手綱を操ったまま逆の手を頭にやれば、ふにゃん、と柔らかく細長い感触が掌に触れた。

「……ああ」

 ライルはぼやきながら、それを指先でつまみ上げる。小さな毛虫が、ライルの太い指につままれてもがくようにうにょうにょと動いていた。

「そういや、花が終われば毛虫の季節だわな」

 毛虫を手にしたまま幌の中を振り返る。凪音は「そうだ」と苦笑いしていたが、視線を滑らせ、ライルは幻覚でも見ているのではないかという錯覚にとらわれた。

 リルが完全に固まっている。琥珀の瞳を恐怖に見開き、歯をかちかち言わせる様は、いつも不遜な態度に出て来る『真白まつくも』と同一人物――いや竜だから同一竜か――とはとても思えない。一体全体どうしたのか。ライルは首を傾げ、それから、彼女の視線を辿って、それが自分の手につままれた毛虫に固定されている事に気付いた。

 もしかして。いや、もしかしなくても。

「何だお前、毛虫が嫌いなのか?」

「言うなアアアアアッ!!」

 にやりと笑うと、リルが両耳を塞いで、悲鳴に近い叫びをあげた。

「その名を口にするなそれを見せるなわらわの視界にも聴覚にも入れるな世界から撲滅せよ!!」

 ぶんぶん頭を振って、リルが一気にまくし立てる。まさか天下の神の竜が、踏み潰せば一撃必殺の毛虫を恐れるなど、人間達には及びもしない考えだろう。

 付け入る隙など一分も無いと思っていた彼女の弱点を、ひとつ発見してしまった。ライルはにやりと笑って、毛虫をつまんだ手をふらふらと振る。

「何だよ、こんなに小さくて可愛いじゃねえか。それに大きくなれば綺麗な蝶になるんだぞ。それを撲滅しろなんて、お前も器量が狭いな」

 前に器が小さいと言われた事への反撃とばかり、からかうように笑いかけると、目尻に涙をためた琥珀色の視線が、ぎんと睨みつけて来た。

「ま、まあ、リル殿、そうおびえず。ライル殿もいじめは良くない」

 二人の力関係をまだ正しくは把握していない凪音が、間に入って互いをなだめる。たしかに、これ以上このネタでリルをなぶったら、後でどんな仕返しが来るかわかったものではない。指先でぴん、と毛虫を弾いて、近くの木の枝に引っかかるように飛ばしてやると、リルがほうと溜息をつき、『後で覚えておけ』とばかりに、じとりとした視線を送って来た。やはり調子に乗りすぎたか。狩竜奴は苦笑して肩をすくめる。彼女のこの上手を保ちたがる性格にも、大分慣れてきてしまったようだった。


 結局その日はハカルクの森には辿り着けなくて、野宿をする羽目になった。

「絶対に毛虫の落ちて来ない場所にせえよ」

 リルがまだ涙目ながらも、ライルを睨み上げてそう主張したので、桜を避けて、虫がつく事の少ない木が立ち並ぶ場所を選んで馬車を止めた。

 青々とした葉っぱと、萌える草のにおいが鼻腔いっぱいに滑り込んで来る。そんな中めいめいに周辺を探索して、凪音が夕飯用に木の実や果実を採って来る。ライルは近くの川でヤマメをつかみ取りで人数分捕まえ、リルは食料集めには参加せず、火を焚いた。火熾しに木を使った形跡が無いので、凪音のいない隙に、竜としての力を使ったのだろう。『溶炎ようえん』の力を取り戻した今のリルなら、松明につける程度の小さな火から、町ひとつ焼き尽くす大火まで、自由自在に違い無い。

 太陽は既に西に傾き始めているが、夕飯にはまだ早い。食事の仕込みも終えて時間を持て余していると、凪音がおもむろに腰を上げた。

「すまぬが、川に降りて汚れを落として来る」

「おお、気をつけるのじゃぞ」

 リルがあっけらかんと応え、ライルは何の気無しに手を振って少年を見送った。が、しばらく経って、ふっと思い至る。

 いくら腕に覚えがあるとはいえ、狩竜士でもない少年が一人、水場で無防備になるのは、危険なのではないか。旅の途上での危険は、竜や野生動物だけではない。治安の悪い地方では、盗賊や山賊が横行している。この辺りはそこまで荒れた地ではないだろう。とはいえ、そういった類の輩が零ではあるまい。

『ではわらわはか弱い内に入らぬのか』

 そう言った時に、じろりと睨んで来るリルの台詞は容易に想像できるが、しかし彼女は天下の『真白』だ。一人でも、竜としての正体を明かす手間すら無く、賊ごときこてんぱんにのしてしまうだろう。

 だが、凪音はそうはいくまい。ああいう手合いの美少年を食い物にする不届き者はどこにでもいる。趣味の悪い金持ちに子供を売り払って益を得ようとする悪徳商人の雇った無頼漢に、無防備な所を襲われたら、ひとたまりも無いだろう。

 それに男同士、裸の付き合いで親睦を深めるのも一興だろう。ライルはどっこいしょ、とおっさん臭い一声を出すと、腰を上げた。

「俺も行って来る」

 何かぶうぶう文句を言われるかと思ったが、どっこいリルは平然とした様子で、

「そうか。せいぜい仲良くな」

 と、焚火をつつきながらあっけらかんと返して来た。怒られるかと思ったが、これは拍子抜けだ。しかも彼女の口元には、何だかやけに楽しそうな笑みが浮かんでいるではないか。

 ご機嫌はすっかり治ったらしい。そう判断したライルは、焚火の傍を離れ、萌える草を踏み締めて、川へと向かった。

 さらさらと穏やかな流れの音が耳に届く。ふっと目をやれば、近くの木に刀が立てかけてあって、浅葱色の着物が枝にひっかけてあるのが目に入った。間違い無く凪音の物だ。

 そこでライルも服を脱ぐ。筋骨隆々とし、あちこちに傷跡を残す身体があらわになる。三十年近く狩竜士かりゅうどとして戦って来た勲章だ。その裸身の腰にだけタオルを巻いて、川へと向かえば、浅瀬で身体を洗う凪音の背中が見えた。

 線が細いとは思っていたが、本当に華奢だ。鍛えてはいるのだろうが、無駄な肉の無い肩幅は狭く、腰はくびれて尻はふくよかだ。そう、まるで女のように。

 その途端、ライルの脳裏を一つの予感が横切った。まさか、の思いが駆け巡る。

 ライルの気配に気づいた凪音が、はっとこちらを向いた。たちまち少年は顔を真っ赤にして、両腕で身体の前を隠した。その腕の下には、たしかな膨らみがある。

 予感は確信に変わる。二人の距離が十歩ほどの所で、ライルはぱくぱくと口を開閉し、凪音を指差す。凪音は、火を噴いたのではというばかりの顔をうつむかせてぷるぷる震える。

 その時、いたずら好きな風がふんわりと吹いて、ライルの腰に巻かれていたタオルをさらっていった。突然の御開帳に、更に周囲の温度が下がった気がする。

 たっぷりと時間が流れた後、やっと状況に思考が追いついたライルの口からは、


「ほんげえええええええ!?」


 言葉にならない叫びが迸ったのだった。

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