ソプラナは今日も歌う

雪月風花

第一章 盾

盾 第1話

 二つの重い石が、断続的にぶつかり合っているような音が、森の中に響いていた。ヘルハウンドというモンスターの唸り声である。

 紫色の短い毛並みと、引き締まった筋肉で覆われた狼のような体躯には、矢が何本も突き刺さり、無数の裂傷が刻まれていた。ぼくが構える剣の刃に付着したヘルハウンドの血が、重力に引かれて剣身に赤い線を引いていく。荒い呼吸と共に、ヘルハウンドの上顎から血の色をした長い牙が飛び出している。その額からは鼻先に向かって黒い角が、鼻先からは上向きに炎で熱した鉄のような真紅の角が生えている。

 ヘルハウンドは疲弊しきっていた。あと数回斬りつければ、息絶えるはずだ。そう思った時、ヘルハウンドの体がぐらつき、片方の前足の膝が地面につきそうになる。

「今だ!」

 ぼくは好機と見て、ヘルハウンドに向かって疾駆する。あと数歩までの距離に肉薄し、ぼくは剣を上段に振りかぶる。その瞬間、ヘルハウンドの赤い角が輝きだし、周囲の草や木々が紅の光に染まる。角が光るのは火炎ブレスを吐く前兆だ。まずい! と思ったけれどもう遅い。真っ直ぐ全力で駆け寄っていたから、急には横に飛び退ることはかなわない。

 最後の力を振り絞り、倒れそうだった体勢を立て直したヘルハウンドは、大きく開いた口腔をぼくに向けた。ぼくは急制動をかけながら、剣を持っていない方の腕に装備しているブロンズシールドを前に掲げた。一瞬の後、ぼくの視界が炎によって埋め尽くされる。押し寄せる炎の熱さに思わず呻き声が漏れる。ブロンズシールドは、瞬く間に熱したフライパンのような熱さになった。装備している腕にその灼熱が伝導し、肌が直接炎で炙られているかのような激痛が走る。

「あっつぁ!」

 ヘルハウンドが火炎ブレスを吐き終わった瞬間、ぼくは耐え切れずに剣を投げ捨て、空いた手でブロンズシールドをもう片方の腕から外して放り捨てた。燃え滓となった草の上に転がったブロンズシールドは、ぐんにゃりと変形してしまっていた。

 痛みに顔を歪めながら、反射的に火傷した上腕を手で押さえる。

「グルァア!」

 隙だらけとなったぼくに向かって、ヘルハウンドが飛び掛る。血の色をした長い牙がぼくの喉笛に突き刺さるより先に、横から飛来してきた矢がヘルハウンドの脳天を貫通した。絶命し、全身から力が抜け落ちたヘルハウンドの体躯が、ぼくの上に覆い被さってきて、ぼくは下敷きになって倒れ込んだ。

「た、助けてソプラナ!」

 黒いポンポンが付いた白いベレー帽を頭に乗っけて、アクアブルーの三つ編みを揺らしながら、倒れているぼくの傍まで駆け寄ってきたソプラナは、手に持っていた弓を地面に置き、ぼくの上からヘルハウンドを引き剥がしてくれた。

「平気!? ちょっと腕見せて」

 ソプラナは、腰に巻いた皮のベルトに付いているポーチの中からポーションを取り出した。そして蓋を開けてガラス瓶を逆さに向け、火傷を負ったぼくの腕に、中に入っていた液体をかける。するとたちまち火傷を負った肌が綺麗になっていき、痛みも消えていく。

「冷や冷やさせないでよね。今の結構危なかったわよ」

「ごめん。油断したわけじゃないんだけど、気をつけるよ」

「あの盾もう使えないね」

 ソプラナが変形してしまったブロンズシールドに目を遣る。

「今度はもっと良い盾を買いなよ。わたしがあげてるお給金で足りるはずでしょ」

 ぼくたちは不思議なことが大好きで、不思議を求めて二人で旅をしている。ソプラナは吟遊詩人で、ぼくはソプラナの護衛として雇われている。不思議なものを見たという噂を聞いては、それを求めて旅をする。そんな旅のやり方だから、聞いた噂がただのデマで、肩透かしをくらうこともしばしばだ。でもたまには当たりを引き当てる。不思議なことに遭遇すると、ソプラナはその不思議を歌にする。そして作った歌を、ハープの美しい演奏と共に人前で披露して、お金を稼いでいるのだ。「作詞作曲をしているんだから、君は吟遊詩人じゃなくて、抒情詩人(トルバドゥール)じゃないの?」と訊いたら「抒情詩人よりも吟遊詩人の方が言葉の響きが格好良いから、わたしは吟遊詩人って名乗ることにしてるの」と返された。だからソプラナは吟遊詩人なのだ。清らかな眉目をしているソプラナは、美しい少女だった。

 ぼくも変形してしまったブロンズシールドに目を向ける。ブロンズシールドは、大抵どこの町や村に行っても売っている。防御力が高いわけでもない、盾の中でも大した価値のない消耗品である。そんなことは勿論、ぼくもわかっていた。

「そうなんだけどね。でもこのブロンズシールドは、デザインが凝ってて綺麗だったでしょ? 縁は優美なフォルムで、盾の真ん中に大きくカロライナジャスミンの花のレリーフが描かれててさ。防具屋でこのブロンズシールドを見た時、ぼくはこのブロンズシールドに一目惚れしたんだ。だからずっと大事にしてたんだ。だからこんなになっちゃったけどさ、それでも手放したくないんだ」

「今まではその盾でもよかったのかもしれないけど、わたしたちが今から向かおうとしてる先には、この辺りよりも強いモンスターが出るって言うし、もっと防御力の高い、新しい盾に買い変えるべきだと思うわ」

「そうだね。とりあえず町に着いたら防具屋の行って、修理できるか訊いてみるよ。できないって言われたら、アシュには悪いけど新しい盾に買い換えるよ」

 ソプラナが怪訝な表情を浮かべる。

「アシュ?」

「この子の名前だよ」

「盾に名前付けてたの!? 気持ち悪い……」

 ソプラナが、馬車に轢かれて甲羅が割れ、異臭を放ちながら死んでいる亀を見るような眼差しをぼくに向ける。

「違うよ! 盾の裏側にアシュナーノって名前が刻んであるんだ。多分この盾を作った職人さんの名前だと思うんだけど、ぼくはそれをこの子の名前として呼んでいるだけだよ」

「名前が刻んであったとしても、普通防具を名前で呼ばないわよ。それに『この子』とか言ってる時点で引いちゃうんだけど」

「なに言ってるのさ。ほら、アシュをよく見てよ。アシュには思わず名前で呼んであげたくなる、そこはかとない可愛げがあるじゃないか」

「……もしかして、一人でなんかぶつぶつ言ってる時があると思ってたけど、あれってただの独り言じゃなくて、その盾に話しかけてたの?」

「そうだよ。アシュとは会話もできるんだよ。『今のバトルどうだった?』って訊いたら『アセビ格好よかったよ』とか言ってくれるんだ。……ちょっとちょっと! 無言で目を逸らして、ぼくを置いて早歩きで立ち去ろうとしないでよ!」

 ぼくは慌ててまだ熱いアシュを無限袋の中に収納し、ソプラナの後を追いかけた。

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