異世界ゴキブリ アルベルティーニ
民工
第1話 ありふれた殺意とその抽出
今日も一日きつかった。
秋山宗次郎は会社帰りの電車を降り、駅の駐輪場へと向かった。自宅は駅から自転車で15分程度の所にある。スーツに黒ぶちの四角い眼鏡といういかにもサラリーマンといった風貌をしているが、まだ20代前半の青年である。
夜遅くまで残業してしまったので、流石に帰宅するやいなやベッドに入りたい気分である。
そのようなことを考えながら自転車をこぐ。それほど起伏の激しい道ではないが、ちょっとした丘を登り、街灯の他は灯りもない、車もない静かな夜の道路の中央を軽快なスピードで滑走する。安閑な時間だ。
眠たい。と思いながら自転車を停め、アパートの一階の自室に入る。
あゝ、これで一日が終わる。悪くない気分だ。明日も頑張るぞ。
靴を脱ぎながら明かりをつける。
「!!」
急についた光を避けるかのように小さな影が棚の奥に素早く走り去っていった。
「うえっ!ちくしょう。ゴキブリめ。なんと忌まわしいやつだ!クソッ!」
全く秋山宗次郎はゴキブリという生物が大嫌いである。とてつもなく嫌いである。親の仇ほど嫌いである。ゴキブリをみるとなんとも名状しがたい殺意。しかし、凄まじい強さの殺意が湧き上がってくる。
「俺の部屋に現れた己の愚かさを恨むが良い。」
時代劇のようなセリフを発すると、ここからの宗次郎の動きは素早かった。素早いステップで移動し、所定の位置にある殺虫剤に手をかける。無論、この動作の最中にも彼の双眸が標的をロストすることはなかった。殺虫剤を持っていない方の手で棚を退けると、間髪を容れず殺虫剤を噴霧した。その身体の滑らかな様はさながら最多勝投手のようであり、なんの無駄もなくターゲットを亡き者にする様は熟練の特殊部隊員のようでもあった。
多くの人々はゴキブリという生物を忌み嫌っている。故に自らの部屋に現れた時などはパニックに陥ってしまう人も多い。しかし、宗次郎のゴキブリ嫌いはその程度ではなかった。ゴキブリを発見すれば、それを殺害したいという心情がその精神の全てを占めるのだった。
全く参ったぜ。くたくたで帰ってきたと思ったら出やがって。まあしかし、目下の脅威は取り除かれた。ゆっくり休むとしよう。もし、ほかの奴らが入ってきたとしても我が鉄壁の罠の数々を前にして為す術もなかろう。
翌朝、出社する宗次郎の顔に、一般的なサラリーマンのような気だるさは見受けられない。彼の仕事は正に、彼の抱く崇高な理想を体現する為のものだからだ。
「おはよう。秋山くん。今日も相変わらず早いわね。」
豊かな黒髪で、いかにも聡明そうな白衣を着た女性が挨拶をする。
「く、九戸先輩の方こそです!」
宗次郎などは高校、大学でも研究ばかりやっていたので、このような美人に微笑みかけられてしまうと多少狼狽してしまう。
よし、今日も頑張るぞ。
宗次郎も早速デスクに向かいガラスケースに入っている被験体の観察を始めた。
「秋山くん。昨日設置した方の毒エサの効果はどう?」
九戸愛衣が尋ねる。
「36%のゴキブリがすでに死んでいますね。もう少し死ぬまでの時間を伸ばさないといけませんね。」
「そうね。わかったわ。ありがとう。」
そう、秋山宗次郎は製薬会社に勤めており、ゴキブリ駆除剤の研究を行っている。「全世界のゴキブリを駆逐する」というのが彼の唯一無二のモチベーションである。その一心でここまで来た。
どうして死ぬまでの時間を伸ばさなければならないかって?解説しよう。毒エサを食ってしまった彼らは汚染されてしまう。しかし、そのまま帰宅する。ゴキブリは仲間の糞を食う習性がある。故に毒を食った個体が毒エサをさらに家族に提供するわけだ。つまり、この回数を増やせば増やすほど多くの個体に毒が行き渡るから、うまくゆけば家族丸ごと壊滅させることができるという寸法だ。だから毒を撒き散らすのに適切な期間は元気にウロウロしてもらわなければならんのさ。一匹をすぐに殺してやるのでは生ぬるい。一族郎党皆殺しにしてやるのさ。
「おはようございまーす!」派手な服装をした可愛らしい少女が銀色がかった長髪をきらきらさせながら研究室に入って来た。
「
「ろーちゃんの触覚をモティーフにしたカチューシャなのです。可愛いでしょう?」
「そ、そういうことにしてやろう。」
ちなみにこの少女–田村五郎八−はゴキブリのことを英語のローチにちなんで、ろーちゃんなどと呼んでいる。全く気持ち悪い限りだ。そして触覚を生やしやがるほどゴキブリのことをこよなく愛している。しかし、困ったことに、触覚を生やしていてもなお、普通にかわいい。
「そういえば、駅前にお団子屋さんがいらっしゃってたので先輩方に差し入れに買って来たです。召し上がり給えです。はい、九戸先輩。」
「あら、ありがとう五郎八ちゃん。」
「秋山先輩もどうぞ。」
「あいにく俺は、キモい生物に囲まれて食欲ないので遠慮しとくわ。」
「こんなにかわいい子たちにキモいとか、先輩は頭沸いてるんでしょうか?」
「はあ?お前なあ。世間一般ではゴキブリはキモいとされているんだぞ。」
「そうやっていつまでも自分のパラダイムに閉じこもってるからいけないんです。五郎八はいろんな国の人たちと触れ合っていろんなパラダイムに触れて来たです。お互いを認め、それらをアウフヘーベンするのが大事なんですよ!」
「なんか難しい言葉並べてるけどそんなの屁理屈だ!というか、お前そんなに大好きな連中を殺す研究してんだぜ。」
「そ、それとこれとは別問題なのです!ろーちゃん達は繁殖力凄まじいので大丈夫なのです。そ、それに!多すぎたら揉め事が増えちゃいます!オスマン帝国の皇帝が弟全員殺してたのと同じ理論なのです!」
「すげー暴論だなおい!」
実際、田村五郎八は頭が良い。彼女は12歳で高校内容をマスターし、13歳で本場のゴキブリ研究に触れるためアメリカに渡った。そして、飛び級を重ねて16歳にして卒業を果たし、我が社に入社した。まさに天才。そして、とんだ変態野郎だ。
「ふん!もうよかです。先輩はばかやろうです。ねえ、吉田さん? うん。そうだよね〜!」
こいつはゴキブリ一人一人、いや、一匹一匹に名前をつけている。そして、フルネームである。流石にキモすぎる。全く住んでいるパラダイムが違うとしか言いようがない。
兎にも角にもこのチームはこの三人で研究を進めている。終業時間に近くなるまで三人とも無言で、いや、五郎八がゴキブリ共に話しかける以外は無言で研究を進めた。そして、まさに宗次郎が帰ろうとしたその時、彼は九戸愛衣に呼び止められた。
「そういえば、秋山くん。昨日渡した捕獲罠ってもう置いちゃった?」
「はい、昨日一匹出ましたし、早速設置して来ましたよ!」
「あの〜。ほんとに申し訳ないんだけど、今日ちょっと調べてきづいたんだけど、餌の匂いが、強すぎちゃったみたいで、ちょっと、その、ヤバいかもしれない。」
「そ、そんなに強いんですか!?まあ大丈夫でしょう。アハハハ......。」
「ごめんね、今度なんかおごってあげるから許して」
「しょうがないですね〜」
これは大変なことになった。九戸先輩は俺によく実験品をくれるのだが、以前に同じようなミスをした時には、ご近所さん大集合的なノリで、凄まじい数の奴等が俺の部屋にいらっしゃっていた。あの時はさすがに参ったぜ。
九戸先輩とデートに行くことができる嬉しさは一入だが、しかし凄まじい不安と、恐怖と戦慄に苛まれながら、俺は帰路につくことになった。
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