現実感

     ★☆★☆★


 雨にぬれた窓のむこうでは、複数の赤と青のライトが明滅を繰りかえしていた。

 さまざまな人種の野次馬やじうまで騒然となった住宅街は、到着した鑑識の作業の進捗しんちょくと反比例して、落ちつきを取りもどしつつある。雨音のなかで騒動の余韻がくすぶりつづける外界から隔絶されたセダンの後部座席で、よこになってまぶたをとじていたクレアが吐息をもらした。

「なさけないものね」

「あれをみて平然としてる方がどうかしてるとおもうわよ?」

 運転席にすわったニーナが、振りかえって微笑ほほえむ。

「この仕事をしていればいつかは遭遇することになるけど、……まちがいなく最悪の部類だわ」

「……あのにおい、わすれられなそう」

「そうね。でも感覚がいきているのはわるくないわ」

 うなずいた彼女は、助手席のシュリがにぎったクレアの手に、さらに手のひらをかさねた。

「あたしの手がわかる?」

「ええ」

「シュリの手は?」

「わかるわ」

「上出来ね。感覚は現実と自分をつないでくれるわ。それが第一歩よ」

「どういうこと?」

「なんていえばいいかしら。……そうね、あの現場に入ったとき、どんな感じがした?」

「まるで現実味がなくって……、はなれたところから自分をながめてるみたいな……」

「もしあの場所に殺人犯がひそんでいたとしたら、どうなったとおもう?」

「……なにもできなかったわ、きっと」

「非日常的なことに遭遇すると現実感をうしなうでしょう? でも現実感を喪失すれば、自分や仲間、その場所にいる人間すべてを危険にさらすことになる。だからこそ、意識を現実につなぎとめておく必要があるの。五感を手放さないのが、その第一歩ってこと」

「肝に銘じておくわ」

「いいわよ、そのかお。さっきよりずっと」

 ニーナの笑みに応じたクレアは、窓のそとをみる。いつの間にか雨は小降りになっていた。視線をおったニーナとともに空をみあげると、拡張現実ARの共有レイヤーにダニエルの声がながれた。

『ベンソン氏のオフィスから防犯カメラがみつかった。その用心深さがあるなら警護も承諾してほしかったところだが、それはまあ今更どうにもならん。ひとまずこの場で映像を確認してみようとおもう。見ておきたいものは名乗りでてくれ』

『クレアよ、みるわ』

『大丈夫なのか? お嬢ちゃん』

『ええ、問題ないわ』

 クレアはニーナと視線をかわしてうなずく。間もなく派遣されたすべての捜査官が名乗りをあげ、準備がととのい次第、記録された映像がARにながされることになった。

 シュリに依頼して上体をおこしたクレアは、瞼をとじて自身を確認する。胃のむかつきはよくなったが、後頭部のあたりにしびれたような感覚があった。意識して呼吸をおそくしていく。

「シュリ、ほおにふれてもらっていいかしら」

「承知しました」

 聞きなれた返答の直後、やわらかなぬくもりを感じた。さらに呼気と吸気をふかくする。霧がはれるように五感が研ぎすまされていく。ふたたび目をひらいたとき、心は平静を取りもどしていた。機械の体になるまえは、もっと感情に振りまわされていた気がするが、いまとなってはその感覚を思いだすことの方がむずかしい。

 防犯カメラに記録された情報が共有される。ディラン・ベンソンのデスクの背後から撮影された映像には、前日の夜に不審な人物が事務所にあらわれ、手にした蛮刀ではたらいた凶行の一部始終がのこされていた。犯人のかぶった奇妙な仮面は、ピース・フォー・ファミリーズのノードをクラッキングした人物を追跡したクレアが目撃し、その後数日にわたって自宅付近で見かけたものと同一のものであった。

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