幽鬼

     ★☆★☆★


 シュリは、クレアを助手席にすわらせると、丁寧にドアをしめた。

 クレアは車内から彼女の姿をおう。降りやまぬ雨のなか、後部にまわって車椅子くるまいすを荷室にのせたシュリがバックドアをしめかけたとき、拡張現実にアラートが表示された。寝室の窓があけられたことをしらせるものだが、防犯カメラの映像ではとじたままだ。おなじ通知を受けとっているシュリとルームミラーごしに視線をかわした。

「誤報かしら」

「そうおもわれますが、念のため確認してきます」

 後部ドアをとじたシュリは、小走りに家へともどっていく。

 彼女がいなくなると、急に世界がよそよそしく感じられた。みじかく吐息をもらしたクレアは、今日おこなうべき捜査について考えをめぐらせる。午前中にはピース・フォー・ファミリーズの代表ディラン・ベンソンに聴取をおこなう予定があった。

 不意に、あの晩の光景がうかんだ。儀式をみせつけるために放置していたとしかおもえないタブレット・コンピューターからの眺めと、仮面の男がよわった山羊やぎ斬首ざんしゅする瞬間が。

 マハー・アヴァター・サマージの元信者たちがディヤーナ・マンディールとして再起をはかったことはしっていたが、自分を絶望のふちに追いやった人間の崇拝者が不意にあらわれたことは、墓場からいでてきた死者に遭遇するにひとしい気味のわるさがあった。

 つよまった雨音で我にかえった。気弱になっている自分にきづき、苦笑をもらす。そんなことだからあんな幻をみたりするのだ、と。水滴のたまったフロントガラスに向きなおったとき、視界に異様なものをとらえた。

 あおじろいかお、そしておおきくみひらかれた目、十メートルほどむこうから、幽鬼のごとき不気味な相貌そうぼうが、じっと彼女をみつめている。硬直しかかった思考を意志の力でうごかした。呼吸をととのえ、相手を観察する。

 武器は所持していない。仮面はアジアの民族工芸をおもわせる意匠だ。標準的な背格好で、しろいシャツにくろいパンツというありふれた服装は身元の特定にはつながりそうもなかった。

 シュリはもどってこない。視覚の記録を開始にするには視点移動のジェスチャーでは時間がかかりすぎる。声とコマンドのバインドを有効にしようとしかけたその時だった。

 仮面の人物が腕を持ちあげ、クレアをゆびさす。すべての通信が断絶されると同時に、車の電源がおちた。つづいてゆるやかな坂道に駐車した無人のピックアップトラックを指ししめす。つられて目をやると、車が斜面を下りはじめた。

 荷台に大量の金属製のパイプをつんだトラックがゆっくりと接近してくる。唐突に理解した。うしろにおおきくはみだしたパイプは、トラックがこの車にあたって停止するよりさきに、フロントガラスを突きやぶり、助手席と運転席を串刺くしざしにするだろう。

 音声通信でシュリに呼びかけようとしてきづく、ネットワーク接続は復旧していない。ぞわり、と戦慄せんりつが背筋をかけぬけた。すこしずつ、だが着実にトラックとの距離が縮まっていく。

「シュリっ!」

 大声をだした。だが彼女が家からでてくる気配けはいはない。焦りが倍増する。車を操作すればのがれられるのに、起動命令がとどかない。かれたようにおなじコマンドを送りつづける。繰りかえしシュリをよびながら、なにか手段はないかと懸命にかんがえた。車からでさえすれば、シートベルトをはずしてよこになりさえすれば、ただそれだけのことができない自分の体が腹立たしかった。

 窓のそばまでせまったパイプが、フロントガラスに亀裂をはしらせる。やすやすと穴をうがち、室内に侵入してくる。ゆっくりと、着実にちかづいてくる。シートベルトに固定された体をよじり、迫りくる凶器からすこしでも逃れようと足掻あがきつづける。あと数センチメートル、懸命に顔をそむける。つよくまぶたをとじたとき、聞きなれない声がした。

「クレア!」

 ひとみをひらく。パイプは目前でとまっていた。ひびわれたフロントガラスのむこうに、懸命にピックアップトラックをおす男性の背中があった。セシルだと理解した直後に、通信が復旧する。みじかいメロディーを口ずさみ、ピックアップトラックに侵入してパーキングブレーキをひいた。ため息をもらす。

 セシルに呼びかけようとしてせきこむ。降りこんだ雨のしずくが、ひどくつめたかった。

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