トワ

hiyu

トワ 01


 撃ち抜かれた。

 その視線に。

 あの日から、俺の胸には穴が開いている。そこから流れ出す血液は、まるで真紅の薔薇の花びらのように美しく、毎日はらはらと散っている。

 それをかき集めて、両手いっぱいにして、そのままその花びらとともに俺自身も散ってしまいたい。

 俺の身体から流れ出る血はすべてその姿を花びらに変え、彼に届くはずだろう。


 そんな想像をしながら毎日を送る。

 目の前で笑う友人たちに愛想よく相づちを打ちながら、俺は彼の姿を見つめる。

 教室の隅、今日も彼は一人、文庫本に視線を落としたままだ。

 あんなにきれいな目をしているのに、それが誰かに向けられることは、ほとんどない。長めの前髪と、眼鏡のレンズに隠れた、切れ長の少し鋭さを持つその目を、そしてその瞳の中に宿る漆黒の輝きを、俺は知っている。

 撃ち抜かれたこの胸から、本当に血が流れればいいのに。

 そうしたら彼は、俺を再び見てくれるだろうか?

 この傷は?

 彼が問う。

 撃ち抜かれました。

 俺が答える。

 誰に?

 君に。

 彼の伸びた手が俺の傷口を撫でる。指先に赤い花びら。

 俺の血液は、君を思う分だけ、その姿を花びらに変えます。

 だから、あの日から俺の胸からは花びらが溢れて止まらないのです。

 夢だ。

 ばかげた夢。恥ずかしくなるほど少女趣味な夢。

 吐息を白い薔薇の花に変えて、という歌があったな、と思い出す。

 俺はあの日から、彼の姿ばかりを目で追い続けている。きっと彼の吐息が白い薔薇になるならば、俺はそれを一本残らずかき集める。強く抱き締め、その棘で傷つこうとも、離しはしない。傷だらけの身体からは、きっと赤い花びらが散るだろう。

 なんだか花の香りで酔いそうな話だ。

 ばかみたいだな。

 自嘲するように笑ったら、友人がどうしたんだと訊ねてきた。それになんでもない、と答えて、俺は笑う。

 誰と何を話していても、いつも彼のことばかり考えている。彼の姿ばかりを目で追っている。

 実際、俺の胸にはどんなに探しても傷一つなくて、花びらなんてどこにも見当たらない。すべてが幻想。すべては俺の妄想。

 教室でいつも一人、黙々と本を読んでいる彼を、俺は今日も見つめる。

 その指先も、少し丸まった背中も、額に落ちる前髪も、横顔も、すべてを。

 花びら。

 彼の肩に落ちていた、一片の赤い花びら。

 話もしたことのない、印象の薄いクラスメイトが、そんなものをつけて歩いていた。もう昼休みになるというのに、今の今まで誰一人それを教えてくれる人はいなかったらしい。そういえば、いつも彼は一人だったな、と思い出す。

 何の前触れもなく、肩に色をつけていたその欠片をつまんだ。

 真っ赤な花びら。

「これ」

 俺がそれを彼に見せると、彼ははっとして俺を見た。突然すぎたからか、まるで威嚇するような目をしていた。俺の目に、それは突き刺すように向けられた。

「ついてた」

 彼は花びらに目をやり、それからいきなりうつむいてしまった。そして、どうも、と短く言った。

「これ、何の花びら?」

 真紅の花びら。それはまるでベルベットのように滑らかで、とてもきれいだと思った。

「多分、薔薇」

「薔薇」

「うち、花屋、で」

 ちゃんと答えてくれたことに、少し気分が良かった。俺を見てはくれないし、あまり楽しそうではないが、言葉少なに答えてくれている。

「花屋?」

「朝、店から出てくるとき、ついたん、だと……」

 伏し目がちに喋る彼の眼を、俺はもう一度見たいと思った。だから身をかがめてその顔を覗きこむ。眼鏡越しに視線がぶつかり、彼はぱっと顔を赤くした。

「な、何だよ?」

「いや、目を、ね」

「目って──」

「すげー、きれーな目」

 俺が答えると、彼は真っ赤になったまま俺をにらんだ。

 その瞬間、撃ち抜かれた。

「からかうなら、別のやつにしろ」

 彼はまるで身をかわすように俺から離れ、そのまま走っていってしまった。

 からかったつもりはなかった。純粋に、正直に、俺は彼の目をもう一度見たいと思っただけだ。

 まるで孤立するようにいつも一人で本を読むクラスメイトは、あまり人とのコミュニケーションをとるのが得意ではないようだった。あんなに鋭い目をされるとは思わなかった。

 おとなしく、長い前髪と眼鏡で防御するかのように一人でいる彼は、きっと穏やかな人間なのだろうと勝手に思っていたから。

 きれいな目。

 俺は胸を押さえる。

 完全に、あの視線に撃ち抜かれた。

 手の中に残った薔薇の花びらが、はらりと落ちた。まるで俺の胸からこぼれる血液のように。とめどなく溢れ出せばいいのに、と思った。


 彼が本に目を落とす。俺はそれを黙って見つめる。

 そんな毎日を、ただ続けている。

 あの日から止まらない俺の気持ちが、この視線に乗って彼にまで届けばいいのに。

 そんな風に思ってみる。

 彼は今日もいつもと同じ本を読み続けている。

 あの日から俺は、薔薇の花を目にするたびに足を止め、視界を奪われる。そして、あの時触れた柔らかで滑らかな感触を思い出す。

 薔薇の花の値段を、俺は初めて知った。

 両手いっぱいの花びらを用意するには、一体いくらかかるのだろう。手持ちのお金ではとても足りないと思った。けれど、彼にこの胸に開いた撃ち抜かれたあとを知ってもらうには、他に方法がない。

 あのときの花びらが、はらりと落ちる。

 真っ赤なそれを、胸の中に埋め込んでしまえばよかった。

 文庫本に目を落とす彼の前髪が、窓から入る風で揺れている。その頬は少し赤く、一体どんな本を読んでいるのか気になった。だから目を離さずにその姿を見ていた。

 ふわり、と吹く風。

 それは俺の席まで届いて、まるで彼の吐息が届いたかのようにぞくりとした。

 吐息が白い薔薇ならば、きっと甘い香りがする。

 そういえば、あのときの花びらは、一体どうしただろう。

 俺の手から落ちた、あの真紅の欠片。

 前髪が時々揺れる。彼の視線はまだ落ちたままだ。

 ずっと、文庫本を見つめている。

 ──ずっと。

 俺はがたんと突然席を立った。

 隣で楽しそうに馬鹿話をしていた友人たちが、うおっと驚いたように声を上げた。

「どーしたんだよ」

 その問いには答えなかった。俺はそのまま彼の席まで歩いていき、その手をつかんだ。

 彼はぎょっとしたように顔を上げた。

「な、何だよ」

 俺を見上げた顔は、まだ赤く染まっていた。その視線は強く、俺を突き刺す。

「本」

「え──?」

「ページ、全然めくらない」

 そう、ずっと見ていた。だから気付いてしまった。あんなに長い時間、彼は一度も文庫本のページをめくらなかった。そういえば、この本はもうかなり前から読んでいる。

「そ、れは」

 文庫本を慌てて閉じようとした彼の手から、それを取り上げた。本の間に挟まれたしおり。それは真ん中あたりで止まったままだ。開いていたページにこれがあるということは、読み進んでいないことを表している。

「返せ」

「いやだ」

「なん、で」

 彼はますます顔を赤くして、俺から本を取り上げようとする。俺はそれをよける。もみ合うようになって、俺の手から文庫本が落ちた。彼が慌ててしゃがみ込み、それを追った。カバーもしおりも外れて散った。

 俺は本を拾い上げようとしている彼の手よりも先に、足元に落ちたしおりを拾った。

 突然、彼がこちらを見て、それを奪おうとした。

「返せっ」

 俺は彼からそれを遠ざける。

 しおりは画用紙を切った手作りのものだった。そこには一枚の花びらが貼ってあった。

 色あせているが、あのときの花びらだと分かった。

「薔薇の花びら──」

 俺がつぶやくと、彼はその場に腰を落としてしまった。折れ曲がった文庫本と、広がったカバー。俺はしゃがみ込み、それを拾ってきれいに直し、彼に差し出した。

「お前の──」

 目の前の文庫本には手を伸ばさず、うつむいたまま彼が言った。

「お前の視線が、俺を放さないから……」

 顔を赤くして本から顔を上げなかったのは──

 本をめくれなくなるくらい、彼は俺を意識していてくれたということだろうか。

「俺のせい?」

 彼がゆっくりと顔を上げた。目つきは鋭い。けれどこれは、もともとの彼の目なのだと分かった。にらんでいるわけではない。

 俺を撃ち抜いた彼の視線は、今まさに俺にまっすぐ向けられていた。

 まるで泣きそうなくらい、目元を赤くし、潤むその瞳が、俺をまた撃ちぬく。

「薔薇──」

 俺は思わず口を開いた。

「あの薔薇を、君の家にあるだけ全部、俺に売って」

 彼が、訳が分からない、という顔をした。

 花びらをかき集め、両手いっぱいに抱えて、すべてを散らす。

 君のために。

 視線で俺を撃ち抜き、君がつけた傷口から溢れる血液が、君を想う気持ちの分だけその姿を花びらに変えたんだ。

 彼にそう言ってそれを捧げる。

 今も止まらず、それはこぼれ続けている。

 はらはらと、その花びらは散る。

 きっと、永遠に散り続ける。

 真紅の花びらを、俺は一枚たりとも逃がさぬよう、抱き締めた。


 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る