峡谷 下
唖然とする私達の前で、猫が戦場を縦横無尽に駆け、戦列を蹂躙していく。
その可愛らしい姿とは裏腹にやっている事はとんでもない。
これではまるで、病を得る前の姉上と同等――下手すると『戦争屋』がいうように、上回っている可能性も……。
ようやく、十分な聴力が回復。敵兵の悲鳴と怒号が聴こえてきた。
「弾幕だ! 弾幕を張れっ!! あの悪鬼を近寄らせるなっ!!!」
「駄目ですっ! 戦列が崩れ、火力集中が出来ませんっ!」
「糞っ! 糞っ!! 糞っ!!!」
「何だ、何なんだっ、こいつは!?」
「魔銃が効かない! 出鱈目な障壁過ぎるっ。あいつは鬼神か!?」
「はははっ! 愉快――愉快であるぞぉぉ。初手の一撃から、即座に立て直し、これ程の火力を叩きつけてくるとはっ! 吾輩、血が滾るのであるっ!! もっと、もっと、吾輩を楽しませてほしいのであるっ!!!」
次々と、敵兵を屠っている猫が愉悦の叫び声をあげている。
可愛らしい手足の一撃が振るわれる度、地形そのものが変化。肉片と大地が同化していく。身体が一切、血に染まっていないのは、余りにも拳打が早過ぎて、付着する間もないからか。それとも障壁の影響なのか。
……私は神を信じてなどいないが、アレは所謂戦神と呼ぶべきもののように見えてならない。それと、どうしてこいつは戦わないのか。
「あ、分かるっすよ。そう思うのも無理はないっす。ただまぁ……兄貴を呼んだのは御姫さんっすから、文句はなしっす。それと、今回の依頼内容、私が受けたのは『護衛』っす。あしからず」
「……っ。姉上。敵軍は混乱しています。我等も」
「待て、ルピア。今、突撃すれば我等も巻き込まれる。それに――この程度で終わるようならば、当の昔に私は勝っていただろう」
姉上が、槍を強く握り締められる。
確かにその通りだ。猫が振りまいている死の嵐は、得物こそ違えど『四剣四槍』がかつて多くの戦場で起こしてきたモノと同種。
だが……遭遇した時点で姉上はその全力を振るえなくなっていたとはいえ、我等をここまで窮地に追い込んでみせた、あの『国崩し』と『万鬼夜行』がこの程度で終わる筈がない。常に、何かしらの手を残している筈だ。
案の定、砲火の轟音に負けぬ大声が戦場に響き渡る。
「手前らっ! 気合ヲ入れやがレっ!! 俺が出張ルから、戦線を維持シろっ!!!」
「…………」
『国崩し』が自分の部下へ号令を発すると、火力が更に激しくなり、無数の盾魔法が展開。時間を稼ごうとする。
隣に立っていた『万鬼夜行』が右手を翳す。見たこともない魔法陣が形成され、文字が浮かび上がる。そして――やって来た。数百に及び歩く死者の軍隊が。
主だった種は、今回も骸骨兵や腐鬼兵と呼ばれる生きる死体のようだ。当然、全てが剣槍弓で武装している。
既に陽は落ちている。昼間よりも格段に魔力は強まっているだろう。
たった一人で一軍に匹敵する召喚士――それが『万鬼夜行』。
我等も何度煮え湯を飲まされた事か! ……咄嗟の召喚の為か、まだ数が少ない点は救いだが……。
猫はますます、楽しそうに叫び、跳び、粉砕する。
「おおうっ! 激しい砲火である。そして、死霊術か。短時間にこの数とは、素晴らしいのであるっ! だが、吾輩の敵では――むぅ!」
飛び蹴り一発で数十の骸骨兵が塵に返った直後、戦列を飛び越えて来たのは、全身金色をした異国の戦装束に身を包んだ男。巨大な戟を猫目掛け振り下ろす。これは――かわせないっ。危ないっ!
「——我が一撃受ける。ただの猫でない」
「うむ! 吾輩の名はラカン! 我が師より、『好機必戦』を許可されている八人の内の一人にして、『拳聖』であるっ! その煌びやかな戦装束といい、今の一撃といい――叡帝国の手練れだなっ!」
「我、
「ほぉ……その名、聞いた事があるのであるっ! 武祭の覇者とこのような場所で手合わせ出来ようとは――何たる幸運! いざ、尋常に勝負なのであるっ!」
戟を両手で挟み込み受け止めた猫が笑う。
『覇王武祭』もまた、にやり、と笑っている。
互いに距離を取り、構える。――戦場とは思えぬ数瞬の静寂。
それを切り裂く野太い声。
「油断シてんじゃねぇゾ!! この糞猫ガっ!!!!」
何時の間にか大楯を構え前衛を構築した『覇王武祭』の傭兵達。
その戦列奥から、『国崩し』が、百門を超えるだろう魔砲を構え、照準を合わせている。
突如――月が隠れた。いや、隠した。
「潰す」
上空から『万鬼夜行』の冷たい声。
王冠を被り肉断ち包丁を手にしている巨大な骸骨兵の肩に座り、猫を指さす。
……兵を犠牲に時間を稼いだか。
い、いかん、如何な戦神と言えど、一匹ではこれらに適うまい。
姉上へ目配せ。兵を指揮し我等も参戦せねば!
――『戦争屋』が呟いた。
「……嫌な風っす。兄貴!」
「むぅぅ! これ程の戦場だと言うのに……仕方なしっ! とうっ」
掛け声をあげ、猫が跳躍。ひらりと、『戦争屋』の隣へと着地する。
同時に長方形の紙片が、私達の四方へと展開し始めた。
「残念無念であるっ! だが、命有っての物種。ここは退かせてもらうのであるっ! 出来れば、生き残ってほしいのである」
「……『拳聖』どういう事だ? 約束が違うっ!」
「『四剣四槍』殿、吾輩、約束は守るのである――そうでなければ、あれ程、甘っちょろい戦い方などせぬよ」
「どういう」
「兄貴!」
「むぅ、早いのである」
「さっきかラ、ごちゃごちゃトうるせエ! 誰ガ逃す――ン?」
「っ!」
『国崩し』が峡谷上に視線を向け、『万鬼夜行』の左目が深紅に染まり、憎悪を宿す
——そこにいたのは翠色の装束に身を包み、虚空に浮かんでいる長い黒髪の少女だった。
足元に蠢いているのは……あれは? 何?? 植物なの???
「……やはり、来たのであるな。だが、早過ぎるのである」
「何ダ、手前は? 俺達は今、取リ込み中何ダが?」
「貴様貴様貴様貴様貴様」
「ラカン様、お久しぶりでございます。何やらお可愛いお姿でございますね。さて、御挨拶はこれ位に致しましょう。用がありますのは、そこの老婆ですので。まったく困った事でございます。
そう言うと微笑を浮かべた、少女が翡翠色の球を翳す。
足元の何かが蠢き――。
※※※
その峡谷には名がなかった。
だが、この晩起こった『十傑』同士が潰し合う戦いの結末が世界に知られた後、このように呼ばれることとなる。
――翠死の峡谷と。
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