第61話 カサンドラ・ロートリンゲン

 80を越すこの歳になっても――その日の事は鮮明に覚えている。

 私はまだ何も知らない少女で、世界は優しいと信じていた。

 突然の呼び出しを受け家庭教師の講義は中断。護衛の騎士に連れられて皇宮内を駆け、目的地へ。

 すぐに声がかかる。


「カサンドラ、こっちへ。お前達はよい。命令あるまで以後、内庭には何人たりとも近づけるな」

「はい、父上」

「はっ!」


 穏やかな日差しに包まれて、花々が咲き誇っている皇宮内庭。

 その中心に置かれた椅子に座っているのは、今は亡き父。

 ――若い。当然だ。この時、まだ30代半ばだった筈。

 置かれている椅子は二つ。

 一つには父――帝国第5代皇帝、ゲルハルト・ロートリンゲン。

 そして、もう一つに座っていたのは、帝国では珍しい黒髪の青年。

 小さな眼鏡をかけていて、その穏やかな眼差しは幼い私を無条件で安心させた。

 父が口を開く。


「娘です。今日で7歳になります」

「カサンドラ・ロートリンゲン、です」


 ドレスの両裾を持って、お辞儀をする。

 青年は満面の笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でてくれた。

 普段の私だったら「子供扱いしないでっ!」と撥ねつけていただろう。

 けれど、その人にされた時は、気恥ずかしく同時に嬉しかったのを覚えている。

 この人は私の味方だ、と幼心に分かったからだ。


「そうか、君にもこんな愛らしい娘さんが。この間まで、やんちゃだったのに」

「……その節はご迷惑を」

「ふふ、懐かしいね。僕の名前はハル。君のお父さんとは古い縁があるんだ」

「古い縁、ですか?」

「そうだよ。出来れば、君もその事を覚えておいてほしいな」


 青年――ハル様は、私の頭から手を放して立ち上がり、父と向きあう。

 父も立ち上がり、そして深々と頭を下げた。

 息を呑んだ。

 皇帝が、大陸最強を自負し、事実そうであった帝国の最高権力者が、1人の青年に対して、何ら躊躇なくそんな事をするなんて……。


「少し仰々しい。ほら、面食らっているよ」

「そういう訳にはまいりません。曾祖父からも、祖父からも、父からも言い含められております。『我がロートリンゲン家にとってあの御方は大恩人。決して我等の『大罪』を忘れることなかれ』と」

「僕が勝手にやったことさ。それと子孫の君が『大罪』だなんて思う必要もない」

「此度の一件もです。またしても、貴方様を頼る事になろうとは……」


 父の言葉には苦衷が滲んでいた。

 ハル様は首を振られる。気にするな、とでも言うように。


のは、今の帝国でも厳しいと思う。どうやら、普通の相手じゃないようだしね。うちの娘達も暴れたがっているから」

「……ありがとうございます。このような事が起きても対処出来るよう、今後は更に努力を」

「適度にね。そろそろ行くよ――カサンドラ」

「は、はいっ!」


 幼いなりに二人の会話を理解しようとしていた私へ優しい声。

 何かを放ってこられたので慌てて受け取る。

 恐る恐る、手の中を確認。そこにあったのは白い石がついているイヤリング。


「……綺麗……」

「誕生日の記念だよ。もし君が困った事に遭遇して、どうしても解決出来なかったら――その石に願うといい。すぐに、僕の所に飛ばしてくれる」

「ハル様!? そ、それは……もしや、あの……」

「ゲルハルト」

「は、はっ!」

「良い皇帝におなり」

「……我が名に賭けまして」

「良い返事だ。カサンドラ、君も元気でね」

「は、はいっ」


 そう言われると、ハル様の姿は消えた。まるで、夢であったかのように。

 けれど、その日、確かに私はあの御方と出会い言葉を交わしたのだ。 



※※※


 

 ――目が覚めた。

 ベッドから外を眺める。

 見えたのは、破壊された内庭と建物。 

 昨晩、『星落』様と、私が護衛を依頼した『風舞士』殿達とが、争われた結果だ。ここまでとは。

 思い出し……怒りに老いた身体が震える。

 傍に控えていたメイド――私の曾孫の1人でもあるテア――が心配そうに声をかけてきた。


「お身体に障ります。お怒りをお鎮めください」

「……落ち着いてなどいられるものですかっ! 『風舞士』殿達が死力を尽くされたからこそ、この程度の被害で済んだというのに、あの、あの、大馬鹿者はっ……!」


 ――『星落』様の御力は、伝説に違わぬものだった。

 

 大陸級の特階位二人と手練れが二人。全員がハル様の教え子。

 それでも……届かない。

 凄まじい攻防の末、倒れられた『風舞士』殿達。

 楽しそうに笑われる『星落』様。

 兵達が集結してきたのを確認した後、あの御方は此方を――否、皇帝を

見た。そして


『――へぇ。なら、今、ここで君達を殺すのは止めるよ。だけど、その子達に傷をつけたら即座に殺す』


 瞬間、姿は消える。あの日のハル様のように。

 その時、ガタガタと震え失禁までしていた皇帝があり得ない叫び声をあげた。



『そ、その者共を拘束せよっ!! あ、暗殺者の仲間であるっ!!! 大祖母様。叔父上も、衝撃を受けておられる。静かな所へお連れせよっ!』


 

 一瞬、唖然としていた私とディートヘルムは抗弁する間もなく、それぞれ一室へ押し込めれて夜が明けてしまった。

 どうしてあの子は……いや、恐らく『絶対的個』に対する凄まじい恐怖と、皇帝として、そのような存在を野放しに出来ない、という責任感。そして、自身が受けた恥辱とそれに対する怒り。取り巻きが良からぬ何かを吹き込んでいる可能性も……。

 

 ただ、私がすべき事はもう一つしかないだろう。

 

 を取り、テアへ渡す。



「……大祖母様?」

「願いなさい。飛べる筈よ、辺境都市へ。あの御方へ全てをお伝えして。それと……70余年に渡って私を守護してくれた物を、今日お返しします、と」 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る