火蓋切られる
第75話
この世界で初の毒ガス作戦の顛末は、すでに述べたとおりである。
「報告します!作戦は成功!敵は雪崩を打って引いていきます!」
作戦成功の第一報はザンパク砦からの観測班からもたらされた。
あちこちから歓声があがるが、幹部たちはまだ沈黙を崩さない。
「宰相閣下はご無事です!現在撤収中!」
この報告を受けて、ようやく幹部たちから安堵の声が漏れた。
無理もない。本来、戦場の矢表に立つべきでない宰相が、一歩間違えれば自分自身も命を落としかねない、極めて危険な作戦を陣頭に立って行ったのだ。
数刻後に見張りを残して、ソウタとメリーベルらの実行部隊が戻ってきた。
「作戦は成功。こちら側の被害は極めて軽微で死者は無し。猟兵団は山を越えて戻るから、明日には帰還する予定だ」
「みなさん、お疲れ様でした!」
報告を聞き終え、返答すると、感極まってヒトミが号泣しながら抱きしめてきた。
「ソウタくん!ソウタくん!」
やはり気が気ではなかったのだ。そしてその様子を咎める者は皆無である。
「トンネル内には、あのサラマンドの巨体が幾つも転がってるから、しばらく前進して来れないと思う」
「はい。これで貴重な時間が稼げました。より一層万全を期して、防衛体制を整えましょう!」
かくして実施された“どくどく作戦”は成功した。
こちらの損害は軽微であり、逆に敵の先発隊は多大な損害を被っただけでなく、トンネルを塞がれた上に、切り札だったサラマンドを全て喪失したのだ。
「体勢を立て直す!まずは先発隊を収容しろ!」
ゴ・ズマの司令官は、先発隊が只ならぬ反撃を受けて敗退したと知って、情報の収集と体勢の立て直しを命じたのだった。
それから三日が経過した。
クブルに夜間、一隻の小船が密かに到着していた。それはカ・ナンから脱出したクブルの一行だった。
バンドウ家の手配で、沖合いで小船に一行と最優先の機材を積み替えて、目立たないようにして帰国したのだ。
「ただいま戻りましたおじいさま」
「アンジュ、よく無事で戻ってきてくれた……」
抱擁し合うアンジュとリオウ。
アンジュは事の次第を、一切包み隠さず祖父に報告した。
「お前を無事に送り出してくれただけでなく、可能性まで……」
「はい……」
アンジュはソウタと一夜を共にしていた。つまりタツノ家の、ゴ・ズマの皇帝一族の血を引く子を宿した可能性があるのだ。
もし宿していたのなら、ゴ・ズマの遠征の成否に関わらずバンドウ家は、いやクブルは戦後、さらに発展する手がかりを得るだろう。
「アンジュ、しばらく窮屈な思いをさせる事になるが……」
「承知しておりますおじいさま」
そのアンジュの身に何かがあってはならないとリオウが考えるのは当然だったし、アンジュもそれを理解していた。
こうしてアンジュと技術者たちは、バンドウ家の屋敷内に幽閉される事になった。
しかし、アンジュたちはカ・ナンから無線通信の機材と発電機を受領していた。屋敷内の別棟に通信アンテナが立てられ、ほどなく起動にと通信に成功した。
「よかった……。トウザさまも、みなさまもご無事だった……」
カ・ナンが健在であると知ったアンジュたち。以降、彼女たちは幽閉状態にありながら、カ・ナン方面の最新の情報を居ながらに手に入れ、クブルで仕入れた他地域の情報をカ・ナンに送り続けたのだった。
一方、先遣隊の壊滅を受けて一時停止したゴ・ズマの中央方面軍だったが、大帝率いるこの地の征服軍本隊の到着を前に、再度侵攻を開始した。
「敵はあの地竜をまた投入してこないか?」
「それは無いようです。ゴ・ズマとはいえ、あの地竜の部隊はそう多くありませんから」
ソウタの懸念は頑強で動きが早い地竜だったが、これ以上の投入が無いと聞いて、ひとまず安堵した。
(もう、大量の塩素ガスを使う事はできないからな……)
ソウタが先遣隊に使用した塩素ガスは、リュウジが極めて危ない橋を渡って調達してくれた、工業用のものだった。
それ故に今後、大量に使用する事はできないが、敵がそれを感知している訳ではないので、抑止力になるだろう。
実際に先遣隊は、先の塩素ガス攻撃の記憶と惨状が残る中で進撃しているので、歩みが遅くなっていた。
特に隧道内には多数のサラマンドの死体が放置されているため、その撤去に時間が掛かっていた。
隧道内に横たわり、進撃の障害となっているサラマンドの死体は一頭で5トン以上。
その撤去は、移動させるだけでも難儀するものだったが、隧道内で再び毒ガスが使われる恐怖とも戦わねばならないため、作業は遅れに遅れていた。
「頃合を見て撤去作業の邪魔をしてください!」
ヒトミの命を受けて、隙を見て海兵団が作業中の撤去部隊に奇襲を仕掛ける。
『ど、毒霧だ!』
『逃げろ!!』
炸裂弾を投げ込むだけでなく、配合すると塩素ガスを発生させる薬剤が仕込まれた壷爆弾も使い、敵を恐慌状態に陥らせる。
やがてゴ・ズマは、坑道作業に長けた者たちを中心にした撤去作業部隊を編成し投入してきた。
ガスの発生と対処に慣れていた彼らには、妨害のための低濃度のガスはあまり効果が無く、昼夜を問わず撤去作業が進められてしまう。
だがそれでも撤去作業には10日以上が費やされた。
そして残るは出口まで100mほどに設置されたバリケードと隧道を封鎖する土嚢だけになってしまった。
「どうする?!残りは最後の鉄杭と土嚢の蓋だけになっちまったよ!」
「先ほど、敵が攻城用の大型大砲を運搬してきていると報告がありました。それを使われたら一たまりもありませんから、撤退の準備をしてください!」
ゴ・ズマが持ち出したのは青銅製の大型大砲だった。
これは攻城用に特注されたもので、石製の砲丸は30kg以上のものが使われ、長大な射程と、通常の城壁なら易々と粉砕してしまう威力を誇っていた。
「これ以上の遅れは看過できん!粉砕せよ!」
砦から、トンネル内部に、この大砲が設置されたことが告げられる。
トンネルは一直線であり、多少砲丸が跳ねても、勢いで出口まで到達するのは確実だった。
「兵員は直ちに撤退してください!」
海兵団は迅速に脱出。ほどなく隧道内で大砲が放たれた。
放たれた砲弾が直撃し、出口に積まれていた土嚢の山が勢い良く崩壊した。だが、穴はまだ小さい。
「お前ら、少しでも埋めな!」
隧道内にガスが充満してしまったために、砲丸が再装填されるまでには時間が掛かる。
その間にも少しでも突破を遅らせようと修復作業が行われたが、思っていた以上に装填が早く終わってしまった。
「再装填完了確認!」
「ちぃぃ!野郎ども、撤収だ!!」
撤退のため土嚢から離れた直後、土嚢の山が大爆発して崩落した。
「今だ、一気に突入しろ!」
濃密な硝煙が立ち込める中を、ゴ・ズマの突撃部隊が一直線に突っ走る。硝煙を抜け、明かりが、光が差す方向に向かって振り向きもせずに。
「一番乗りぃぃ!!」
ついにゴ・ズマの先兵が、隧道の出口に達した。兵たちが後から後から押し寄せて、波が浸食するように広がっていく。
「おい、何だあれは?!」
押しやられるように出口の外にでた彼らが目にしたのは、白亜の王都カナイ。そしてその前に何重にも構築された、白亜の堤防のような防衛線だった。
「皆さんががんばって時間を稼いでくれたお陰で、防衛線は完成しました!ありがとうございました!」
隧道を突破されたにも拘らず、士気高いカ・ナン軍。
「敵の数はおよそ五万。まだ大帝は来ていないようだ」
「まずはあの敵を撃退して、大帝を引っ張り出しましょう!」
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