5

 ドラゴン使いは、シラクサにも吸収盾の術を咄嗟にかけてやった。再び次々と術が飛んできて、彼はヒュムノドラゴンの小さな体をそれから守るように抱き、固く目をつぶる。盾は堅固だったが、それは怖かった。傷付きはしないが衝撃が伝わってくるのは気持ちの良いものではなかった。


「よせ、きっと無駄だ!」


 光術士はまた叫んだ。しかし、自分達二人を取り囲む相手は一向に攻撃の手を緩めようとはしない。その代わりに、炎の渦が突進してくる。


「こんなところでお前らなんかにやられてたまるか! 焼かれてしまえ!」


 しかし、炎は全て盾に吸収され、跡形もなく消え失せる。上空のドラゴン達はこちらを攻撃してこない。まるでトレアンが全てやっつけるとでも思っているかのようだった。凄まじい炎を放ったと自分で思っていた術士の瞳が、驚愕に見開かれる。


「畜生、やっぱりこいつ――」


「だから私は攻撃しに来たわけではないと言っている!」


 ドラゴン使いは顔を上げ、訴えた。しかし人間達は相変わらず自分を睨みじりじりと間合いを詰めてくる。至近距離だろうが離れていようが一緒だというのに彼らは大勢ならば勝てると思っているようだった。


「じゃあこっちの味方なのか、え? 違うだろう!」


 剣士の一人の嫌悪の眼差しを、まともに見てしまった。そしてその時、光術士はその剣士の後ろの空からとてつもない速さで一頭のくすんだ砂色のドラゴンが迫ってきているのが見えた――ルシアだ。


「危ない!」


 咄嗟に呪文を唱え、彼は後ろを振り返った剣士に盾の呪文をかけた。土のドラゴンが放った岩が撥ね返り、その次に見極めることが不可能なくらいの速さで繰り出された鉤爪と牙も、見えない障壁に阻まれ失敗に終わる。


「おいトレアン!」


 騎乗していたのはクラウス=リンドブルムだった。彼は怒りに燃えるその鳶色の目で容赦なく睨みつけてくる。


「人間に肩入れするつもりか、裏切り者!」


「違う、私はそなたらを裏切っているわけではない!」


 負けじとトレアンも叫び返した。しかし、リンドブルムのドラゴン使いは一歩も引かない。


「じゃあオーガスタはどうして俺らに向かってくるんだ! あの光のせいで落ちかけたんだぜ!」


「それはそなたらがこの町の人々を攻撃しようとしているからだ!」


「お前は、お前んちのドラゴンから聞いてないのか、ローザが石投げられたってこと! それとも、あれか? あいつに振られたことがあるからって、それで気に入らないから見捨てたってわけか? 無礼で非道な奴には制裁を、だ!」


 ふつふつと心の中に怒りが沸き上がってくる。レフィエールのドラゴン使いは、シラクサの体に回す両手に一層力を込めた。その間にも、自分達の上空にはワルトブルクのイザベラや、ローゲのラクス、リンデイのドラゴンやヌールベルクのドラゴン、人間とも親しかった筈のラインラントのテレジアやヴィッテンベルクのドラゴンが、他の仲間達が集まってきていた。ほぼ全ての家系の五十頭ほどのドラゴンが空に羽ばたき旋回していた。


 地上で自分達を取り囲む人間の数も増えてきていた。たった一人だけ、その体に狼のような耳と尻尾を持つ栗色の髪の若い女がいて、その隣にセスがいる。さらに見渡せば、イスティルもいた。見ているうちにだんだん腹が立ってきて、無意識に口の端が歪んでくる。


「……私が、そのようなことに、私情を挟むとでも?」


 勝手に声が震える。パートナーが癒しの光を放ち続け、攻撃されて傷だらけになっているのに気付く。上に、周囲にいるのは全て、互いに自身と相手を憎み合い、それを糧にして生きようとしている者達だった。


「裏切りだと? 私は、誰の味方になった覚えもない! 協力は味方でも何でもないし、私が守ると誓ったのはたった一人とその人の世界のみだ!」


 ヒュムノドラゴンの体に回していた手を解いた。シラクサはその剣幕に耐えられずレフィエールのドラゴン使いから逃げるように後ずさり、その両手で自らの体を抱く。


「アドルフとカイザーを殺したのはそなたらの汚れた心だ! そんなものを表に出すような者は仲間でも何でもない!」


「血迷ったかトレアン、お前は我々の一族の子だ! 忘れたのか!」


 イザベラの上からの声はマルティン=ワルトブルクのものだった。他ならぬローザの父のその声に、トレアンの中で何かが大きく膨らむ。


 と、その時、地上の人間の誰かが術を上空に向けて放つ声が聞こえ、ヌールベルクの炎のドラゴンの後ろの左足に命中した。耳障りでけたたましい苦痛の声に皆が反応して、ドラゴンの吐く炎や冷気が地上を襲い、再び目の前が混乱した時にその限界は来た。


「だから――」


 レフィエールのドラゴン使いは溢れる力と怒りを理性で抑え切ることが出来なかった。固く握り締めた拳から何かが漏れたのが自分でもわかった。


「――私はさっきから何度も、何度も言った筈だ――」


 彼が現れた時からそこにいた人間は、まだ二回だろうと言おうとして、そこに引っくり返ったまま動けなくなった。こちらを向いていない、いや何も見据えていない鳶色の瞳はとてつもない威力を秘めていて――


「一族、だから、どうしたああぁぁっ!」







 皆が気付いた時には、もう遅かった。


 ふっと上空に上がった小さな光の玉が、咄嗟に目をつぶる暇も与えずに、気絶するほどの凄まじい爆発音を立てて、ドラゴン使いもドラゴンも人間も町も何もかもを飲み込んで、何も見えなくなった。







「何事ですか!」


 血まみれの手でセナイが手当てを放置してすっ飛んできた時には、ドラゴンもドラゴン使いも術士も人間も皆が下に落ちていて、誰も重なることなく死人もなく、そこで呻いていた。エルフが目を見開いた瞬間、一人の若い男の怒鳴り声が静まり返ったぼろぼろの町に響き渡る。


「この馬鹿、阿呆! 滅ぼしたところで何が嬉しいんだ愚か者! 滅ぼすくらいなら自分で死んでしまえ、能無し共! 何がドラゴンだ、何が人よりも知識のある種族だ! 全員が死ぬまで僕が石を投げてやるから、死にたい奴からさあ、殺してやる、かかって来い!」


 トレアン=レフィエールのあり余る力は理性が吹っ飛んでもまだ残っていた。その両手に再び光が揺らめき、徐々に巨大化していく。セスがジャンヌをかばうように抱き、イスティルはタチアナの姿を呻きながら探した。オーガスタが向こうで癒しの光を相変わらず怪我人に向かって放ち続けていて、既に数人が起き上がっている。


 何処からかカレンが走ってきて、トレアン、と叫んだ。


「あなた、いつ帰ってきたの? ねえ、何をしたの!」


 レフィエールのドラゴン使いは彼女を見た。両手に抱えていた光が消え、その唇が動いて相手の名を紡ぐ。


「……カレン」


 中途半端に腕を持ち上げれば、火術士の手がすがってきた。その温もりに忘れかけていた感情が湧き上がってくるのがわかったが、しかし相手から発せられる言葉は全く別のものだった。


「もう少しあなたが早く帰って来てたら……あなたの力でこれを防ぐことが出来たかもしれなかったの。あなたしか止められる人がいなかったから、今は……止まったんだわ」


 体の中に小さく灯った温かい炎が消え、ひゅう、と冷たい風が吹いたような気がした。トレアンはどんどん自分の中が凍りついていくような感覚を覚えながら、目の前の人を見つめる。


 無表情になって、彼は口を開いた。


「……僕のせいなのか」


「えっ?」


「僕が遅いからこういうことになったのか」


 激しくなっていく口調にカレンがたじろいだ。そして自分が何を言ったのか悟ってはっとした顔になった彼女の腕を振りほどき、どんと突き飛ばす。


「ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃなかったの――」


 火術士は再びすがってこようとしたが、彼は伸びてくるその手を払って大声を出した。


「近付くな!」


 そして二人は、この時初めてまともに視線を合わせた。


 鳶色の瞳は深く傷付き、悲しみと怒りに満ち溢れていた。動かない周囲の人々の中で、ドラゴン使いの術士は唇を噛んでそこに立つ。ただ、わかっていた。彼女が意図的にあんなことを言ったのではないということぐらい、わかっていた。


 それでも怒りと悲しみを抑えることは出来なかった。だから、彼女の名を呼ぶ。


「……カレン」


 小さな声が自分の名を呼んだ。何度も何度も呼んで欲しかったが、トレアンは口を開く。


「……そなたの大切なものはここにあるのか?」


 彼は周囲を見回した。がれきの上やえぐれた石畳の上で呻きながらこちらを見ている人やドラゴン使いやドラゴンと次々に目が合ったが、そんなものはもうどうでもよかった。唯一健在だった光の門に目をやった時、それが大きく揺れて弟とヴァリアントが飛び出してきたのが見えた。すぐさま向こうに押し戻してやりたかったが、体も口もいうことを聞かない。


「大切な、もの……?」


 テレノスがこちらに向かってくる。カレンが呟いて、兄はそれに答えた。


「……憎悪の心をむき出しにして、汚い血を流しながら醜く争うこの者達の中に、守るべき大切なものがあるのか?」


 盾の術は全て破られ、何もかもが崩れているような状態でその世界は今ここに存在していた。何もよくわかっていないのはこちらへ向かってくる弟のみ。レフィエールの術士は、彼に目を移した。


 と、その表情が何かに気付いたように大きく揺れた。目を見開き息を飲む弟に向かってどうしたのかと問おうとした時、彼の口が大きく開き、声が聞こえた。


「危ない、兄さん!」


 咄嗟に盾の術を使おうとしたが、トレアンは全速力で走ってきた弟に肩と胸をどん、と突かれて体勢を崩した。一緒に倒れ込んでくるそのがっしりとした体を支えようとした時に、異様な衝撃がぐっ、と自分の体にまで伝わってきた。


 口はえっ、と言ったが、声が出なかった。テレノスの顔が奇妙にひきつり、その口から呻き声が漏れる。唇の端から、血が顎に向かってつい、と流れた。


「に……兄さ、ん」


 その後ろには一人の人間が、剣とともに驚いた顔で固まっていた。


「にい、さん……カレ、ン……の、こと……ごめ……」







 燃えるような鳶色の瞳と目が合った。誰よりも強くそれは輝き、こちらに伸ばしてくる震えたその手を兄が捕らえて肩を支えた瞬間、弟の首はがくんと垂れた。







「……テレノス?」


 彼は訊き返し、肩を揺すってその顔を覗き込んだ。だが、相手は何かを言うどころか、目を閉じたまま表情すら動かさない。腕から力が抜けてその体から手を離せば、弟は胸の中に倒れ込んでくる。


 背中に、深い傷が生まれてどくどくと鮮血を流していた。


 トレアンは無意識に光の術を唱えていた。その傷に右手をかざすとたちまち光が迸り、あたりまで飲み込んで見えなくする。誰も、何も動かずに、目を見開いて口を半開きにしたまま凍りついていた。世界が呼吸を忘れているかのように、風も吹いてこなかった。


 石畳の上に剣が落ちたような、金属の音がした。一人の人間が膝をついて、震える息を深く吸い込んで、止めた。兄は再び名を呼ぶ。


「テレノス……テレノス?」


 だが、傷は塞がらなかった。それどころか、血も止まらない。光術士はもう一度術を唱えたが、それはまたもや意味をなさずに終わった。


 何度も何度も繰り返した。だが、全て結果は同じだった。


「誰か……いないのか」


 兄は顔を上げた。上げて、言った。


「血が止まらない……傷が、塞がらないんだ! 僕の力が足りないのか? 誰か……」


 テレノスの、弟の肩を抱く。カレンがその場に崩れたのが見えた。


「どんどん……どんどん体が冷たくなっていくんだ、お願いだ、誰か……いるだろう? 一人ぐらいいるだろう!」


 信じたくなかった。信じられなかった。弟はさっきまで怒っていた筈なのに、今も怒っている筈なのに、そしてここにはいない筈なのに。誰も、何も答えないのが悔しかった。


 信じたくなくて、涙が流れた。トレアンは叫んでいた。


「お願いだ、助けてくれ……誰か、助けてくれ! 僕がずっと面倒を見てきた弟なんだ……僕が」


 目の前で火術士が泣いていた。ああ、その炎の術なら再びこの体を温かくしてくれるかもしれないのに、彼女は泣いていた。青い瞳を見開いたまま、泣いていた。


 嫌だ、と叫んだ。全てが信じられなくなった。


「――世界でたった一人の、僕の家族なんだ……ああ」


 それは夢ではなかった。弟の冷えていく体がそれを教えてくれていた。


 全てが自分の前から消えたようだった。何もかもが崩れ去り、そこにあるのはただ無の世界だった。何かにすがりたくて、トレアンは大声を上げた。何処が上で何処が下なのか、何処が右なのか左なのかさえわからなくなる。彼は何もかもを捨てた。


 そう、捨てた。捨てた瞬間だった。


 動かなかったドラゴン達が、ぴくりと体を震わせる。次に聞こえてきたのは、歌だった。







  ――混沌の中に眠るかの君の

    目覚めし時 今光が溢れ

    無限の風の彼方に

    彷徨いし民を呼び起こす――







 セナイは我に返った。二百年前のエルフの記憶は、この歌が何であるかを知っている。


 動かない弟を抱くあの兄の感情の消えた顔がかのジアロディス=クロウと重なり、彼は息を呑んで、気付けば叫んでいた。


「皆さん、逃げて下さい!」

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