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アドルフ=リーベルは囲まれていた。
敵? そうだ、今は敵と表現した方が妥当かもしれなかった。彼らは皆短槍を構え、その切っ先は自分の方に向けられている。
何が原因で何が問題だったかはわかっていた。自分の幼い息子、ユーリヒのことが頭をかすめる。ああ、あの子は大丈夫なのだろうか? 息子は非力で、面倒を見てやれるのは自分一人しかいないのに。
「……俺はあの集団を許せない。これ以上交易もしたくない。親密にするなどもっての他だ」
一人が言った。頭領は今、短槍を彼らと同じように構えていた。
「それでも友好を保ち続けようとしているお前は、どうかしている」
また別の一人が言った。予感していたことが起こったかもしれなかった。
「俺の娘が石を投げられた。侮辱されたんだ、殺してやるとあれからずっと言っている」
三人目は、マルティン=ワルトブルクだった。彼の瞳は悲しみと恨みに燃えており、また愛情もそこには宿っていた。
「……それで、一族の頭領を亡き者にしてどうするつもりだ?」
彼はわかっていた。しかし、あえて問うてみた。相手は目を細め、まるで今更かと嘲笑うかのような口調で言い放つ。
「レフィエールの青二才に邪魔された、人間の排除を」
「あいつらは良くないものも孕んでいる」
アドルフは自分の無力さに、短槍をきつく握り直した。リーベル家の武人は気高く、一族で最も優れていた。しかし、自分よりも劣っているとはいえ、若い頃から鍛えられてきた熟練の者達に囲まれることは終わりを意味していた。
説得する前に、彼らはきっと武器を突き出してくるだろう。そして、この囲いの中から脱出するのも不可能だろう。ここで終わるのかと思うと情けなく、悲しくて彼は諦めたように地に視線を落とした。息子が育つのを、この町が大きくなっていくのを、レフィエールの兄弟や他の家の変化を、皆がだんだんと心を開いていくのを、もっと見ていたかった。違う世界を、もっと見ていたかった。新しい風をもっと感じていたかった。
だから最初に、頭領は雄叫びと共に短槍を振るった。幼いユーリヒの姿、既にいない妻の姿が頭の中に浮かび上がり、無我夢中で攻撃を受け止め、手当たり次第に迫ってくるものを跳ね返す。マルティンが目を見開き、続いて悲しく歪んだ表情になったのが見えた。
そこに、己は存在していなかった。だから、腹に熱い衝撃が走った時、彼は一切の動きを止めた。
「――っう、あ」
呻き声と血の塊が自分の口から吐き出る。その場に膝をついたその時に、今度は背中から耐えられないほどの強い突きが、胸に広がった。
横ざまに倒れた。言いたいことがあるのに、口が動かない。急速に現実が蘇ってきて、目から涙が溢れていることに気付く。回らない舌で、言葉を紡いだ。
「……ユー、リヒ……どう、か、頼……む――」
そのまますうっと意識が遠のき、何もわからなくなった。
トレアンは、久し振りに故郷の地を踏みしめていた。
じめじめとした空気がいつの間にか乾いたそれに変わっていて、しかしそこは暑かった。上を仰げば青い空が広がり、北の方では聞けなかった馴染みの鳥の声がする。森の木々がざわざわと喋るようにざわめき、まるで帰還を出迎えているかのようだった。
だが、何かが違った。その考えを代弁するように、オーガスタが言う。
「……人が、いない?」
レフィエールの兄は、はっとそれに気付いてあたりを見回した。確かに、すぐ向こうで西の町への光る空間が輝いているだけで、それ以外の大きな気配が全くない。一体何があったのかと不審に思い、そしてラライの地での出来事を思い出した時だ。
オーガスタが、言った。
「……トレアン、本当におかしい。どうかしているわ、血の臭いがする!」
「血の臭い? まさかそんなことは――」
と、突然風と共に襲ってきた強烈な臭いが鼻を突いた。思わず鼻を手で覆い、彼は風上の方向を見る。その向こうは町のすぐ外の森だった。
即座に彼らはその方向へと走った。このような強烈な臭いは初めてだった。自分の留守の間に一体何が起こったのだろう? 西の町の様子も見に行きたかったが、この不可解で恐ろしいことの正体を見極める方が何よりも、テレノスやカレンに会うことよりも先だと思えてならなかった。パートナーに着いていく形で、トレアンは顔をしかめながら走る。
木々の向こうにオーガスタが消えた。次の瞬間、耳をつんざくような咆哮が森に響き渡り、ドラゴン使いは思わず両手で耳を塞いで立ち止まる。やっと止まったかと思えば、彼女が再び吼えた。
それは長く、カイザアァァと聞こえた。
「カイザー、だと?」
彼は一瞬動きを止め、そして再び走り出す。今度は全速力で、少しでも早くそこに辿り着かなければならないと確信していた。銀白色の癒し手は何度も何度もその間に吼えて、翼で木々を打ち、大量の枝葉を折って舞わせている。
「何で、どうして! 誰がこんなことを……何の為に!」
「どうしたんだ、オーガスタ――」
やっとその後ろ足に触れた時、レフィエールのドラゴン使いはそれを見た。
足が二本もがれ、赤金色の鱗が血にまみれて散乱していた。その金色の瞳は虚ろに見開かれたまま、最早焦点を結ぼうとはしていない。横ざまに倒れているその腹には大きな裂け目があり、そこから血がどくどくと溢れていた。首には、何か大きな生き物に噛まれた跡。翼は胴体には存在しておらず、顎の牙はほとんど折れていた。
そして、その周囲の植物が全て、枯れていた。
トレアンはその場に崩れた。呼吸が勝手に乱れ、乾いてしまった土を拳と共に握り締める。今見ているこの景色は、嘘ではない現実であり、それは地面に押し付けられたままで痛みを訴えている手が教えてくれていた。
「これは……カイザーなのか、オーガスタ」
力なく、彼は訊いた。彼女の慟哭はそれを肯定する。
「仲間にやられているわ……首が、絶対にこれはドラゴンの牙のものよ……カイザー、カイザー」
ドラゴン使いはあまりの衝撃に立ち上がることも出来ず、ただ黙ってそれを見た。それは紛れもなくアドルフのパートナーの亡骸であり、信じ難く受け入れ難いものだった。そして、呆然としたままアドルフはどうしているのか気になった。オーガスタのとてつもない声に誰も気付いて寄って来ないことにも疑問を覚えた。
何故、と呻いた瞬間、誰かが自分を呼んでいるのが聞こえたような気がした。
いや、それは確かに自分を呼んでいた。切実な叫び声はレフィエールの兄の愛する家族のもので、この世界にたった一人の血を分けた弟のそれだった。
「兄さん、兄さん!」
だんだんと近付いてくるそれに、しかし彼は何も返事をすることが出来ずその場にへたり込んでいた。息切れが次第にはっきりと聞こえるようになって、無理矢理足音のする方向を振り返った時に、がっしりとした体が胸の中に飛び込んできて、その衝撃が生きた重みを自身の体に伝えた。トレアンはその肩に思わずすがった。
「テ、テレノス――」
「兄さん、兄さん――」
同じようにすがってくるテレノスが、兄の背後を見て息を呑む。その頬には新しい涙の跡があり、そして弟はまた鳶色の瞳から雫を溢れさせた。
「テレノス、これは、一体どうなっているんだ? 何が起こっているんだ?」
「カ……カイザーまで、そんな」
「カイザーまでとは、どうした? リーベルの家に何かあったのか?」
ラライの地で感じた胸騒ぎの正体はこれだったのか? 彼は今、全てを恐れていた。次にどんな衝撃と絶望が襲ってくるのか考えたくもなかったが、悪いことに違いなかった。弟はたった今、その知らせを持ってここに来たのだ。
「兄さん、アドルフが――」
「どうした、アドルフは今何処にいる!」
ただならぬ予感に腰を浮かせ、レフィエールの兄は凄まじい形相で弟の両肩を掴んで前後に揺すった。今や相手は泣き叫んでおり、それが無駄に心を苛立たせて爆発しそうになる。
「早く言え、テレノス!」
「――アドルフが、向こうに……いるんだ!いるんだけど……いるんだけど」
テレノスが、走ってきた方向である、町の広場の向こう側を指差した。
「向こうに……いるのか?」
弟は頷いた。二人は何とか立ち上がり、そこにオーガスタを残して足をもつれさせながら走った。兄の走る速さに追い付けずに弟は地面につまずき、また互いに支えあいながら走っていたので兄も巻き添えになってこける。しかし悪態をついている暇はなかった。トレアンは自分より一回り大きな手をぎゅっと掴み、地面から引きはがして立たせる。
「――テレノス、しっかりしろ」
そう言うと、弟は急に首元にすがって大声を上げて泣き始めた。まるで昔に戻ったかのような気がして嫌になり、片腕を捕らえ、兄は訊く。
「他の者は? 何故こんなに大騒ぎしているのに誰も出て来ない?」
「わからないんだ……朝、外に出たらいつもそこら辺を歩いている筈の人がいなくて、引退した老使いの所に皆行っているのかと思って……そっちに行って訊いてみても、あそこのおじいちゃん達は知らないとか言うから……ユーリヒとか小さい子もそこに預けられていたけど、わからないんだ」
「でもアドルフは……いるのだろう」
そう言ってから兄は、はっと気が付いた。皆がいないのに、アドルフは向こうにいる。どうしてと思った瞬間、弟の鳶色の瞳が真っ直ぐこちらを向いていて、そして唇が動いた。
「兄さん……アドルフが、アドルフは」
「――嘘だ!」
彼はテレノスをそこに放置して、再び走り出した。今までにないくらいの速さで、自分の弟が示した場所に向かってただ走った。走りながら、全てをありえないことだと感じてそれを信じていたいと思った。これはただの夢かもしれなかった。
広場を抜けて、その向こうの道に出る。もっともっと速く走れないものかと自分を呪いたくなった。この距離がとても長く思えて、そして今彼はたった一人だった。
木立の向こうで鳥が騒いでいる。予感がして、トレアンは頭領の名を呼びながら木々の間を抜けた。
「アドルフ、アド――」
口が動かない。その代わりに奇妙な声が出て、彼はそこにぺたんと座り込んだ。
アドルフ=リーベルはそこにいた。しかし、目は固く閉じられたままで、這っていってその鍛え上げられた腕に触れても、ぴくりとも動かない。短槍の柄だけが赤く染め上げられていて、気付いてみればそこら一体が赤く染まっていた。自分の膝も、ふと見た自分の服もいつの間にか汚れている。動かない彼の腹に深い傷があって、同じようなものが背中の上の方にも存在していた。
ただ、頬に涙の跡があった。
「アドルフ……?」
この人は最期に、何を想って、誰のことを想って一筋の涙を流したのだろう? 震える手でその冷たい頬にそっと触れ、レフィエールの兄はこのリーベルのドラゴン使いのことを思い出す。若くして妻を失い、男手一つで息子を育てようとしていた。親を失った兄弟に時に厳しく、時に温かく接してくれた。人当たりがよく、カレンや西の町の人々とも仲が良かった。誰からも信頼されていた。
一族で最も気高き男は、何の意地を張っているのだろう、目を覚まさなかった。
コボルティアーナの都市国家からは数人の働き盛りの男が交渉の為にヒューロア・ラライナの町へ来ていた。町の人々は現在その石畳の町を守る為に高い壁を築き、黒髪で黒い瞳の少女が持ってきた悪い知らせの中にあったことに備えて準備していた。
ギルバートは真っ青な顔になって、そのドラゴンの呪いにかかっているらしい少女に訊き返した。
「彼らが攻めてくるだと? まさか、この前の子供達とその後の騒動のことを根に持って?」
「わたし、止められなかった。どうすることも出来なかったの! 前からここの人のことが嫌いだって言ってたレファントの人はいたんだけど、今回のことでそう思う人がもっと増えて……」
そこにいた大勢の人々はほとんどが雷に打たれたような表情になった。中に、見せしめにその子供達と石を投げた奴を殺せと叫ぶ者も、何人かいた。しかしギルバートは首を振り、その時は彼らにこう言った。
「話し合おう。向こうの町の頭領のアドルフと決着をつければどうにかなる」
「無理よ、そんなこと!」
と、その少女が叫んだので皆がそちらを向いた。
「話し合いなんて、無理よ! この何日か、レファントの人をなだめて和解しようとしていたアドルフは殺された、だからわたしがここにいるの! 来るわ、ドラゴンに乗って、鎧を着て槍を持っている皆が、光の門からじゃなくて、空から。魔法使いが嫌いだから」
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