5

 しかし、そこに立ち尽くすトレアンにとって、もはやそれはどうでもよいことに成り下がっていた。統治する者、つまりは人々を管理する王。目の前のエルフは一体何を目論んでいるのか、それが理解することの出来ない恐怖を彼に与えた。


「――そなたは、何を望んでいるのだ?」


 暑いのか、それとも交わされる言葉に寒気を感じたのか、どちらかなんてわからない。額に、首筋に汗が伝い、肌を湿らせる。また水の中に飛び込んで、誰も辿り着くことの出来ない深みへと何処までも潜っていきたい気分だった。


 ただ、セナイは言った。


「――程よい平穏を、です。昔から私達エルフが望み、私の妻も望み、そして今人間達も望んでいるものです。勿論、貴方も」


 ドラゴン使いは無言でエルフの深緑色の瞳を見つめ、そのまま何も言わずにそこを立ち去った。後に残されて、思わず彼は溜め息をつく。


「……諦めが悪いですねえ。やっぱり、アミリアそっくりです」







 次の日になった。昨日からタチアナの様子は暗い。ドラゴン使いも人間もそんな彼女をなぐさめたが、あまり意味をなしているようには思えなかった。


 水使いの少女は、後悔していた。自分に対して復讐を誓っていた南の村の男の名はイスティル、歳は彼女より九つも上だ。あなたの仲間をあの時殺したのはあたしで、それがなければトレアンさんはあなた達にまた氷の術をお見舞いすることはなかったの。彼女は、その時に言った。今にも飛びかかってきそうなイスティルに向かって、言った。


「――全部、あたしのせいなの。だから、復讐したかったら村の人を巻き込まないで、あたしに全部ぶつけて」


「タチアナ!」


 姉はその時叫んでいた。だけど、彼女は驚きが込められた男の視線に向かって続けた。


「死なない限り、何でもやるわ。あなたの大切な人達は帰って来ないけど、あなたが人を傷付けないのなら、何でも――」


「……言ったな」


 カレンが息を呑んでいた。タチアナはあえてそれを気にしなかった。母親にも父親にも、姉にも心配をかける。家族が悲しんで死んでしまうかもしれないなどと思えたが、彼女にとってそれよりも大切なことは、自分が責任を取らなかったことがもっと多くの人の名誉を傷付けるかもしれないということだった。


 その時イスティルはこう言った。


「じゃあ、俺と一緒に来い、小娘」


 向こうの方から、トレアンが歩いてきた。ドラゴン使いの町とこの村を繋いでいる空間はずっと開いたままにしてある。既に敵も味方も関係なく、村は石造りの家を建て始め、それはもはや町になろうとしていた。光術士はそんな土地の様子とタチアナとを見比べ、座っている彼女の隣に立つ。彼は昨日、泣きついてきたカレンから事情を聞いたのだという。どうであろうと、心配しているのは間違いないようだった。


「……本当にいいのか?」


「あたしが自分で選んだの。今さら何も言えない」


 ドラゴン使いは少女を見下ろした。


「カレンや両親のことは考えていなかったのか」


「考えたわよ。でも、ここで何もしてなかったら、あたしはもっと後悔するし、もっと多くの人の気持ちを無視することになるから」


「……そうなのか」


 トレアンは皮肉な調子を引っ込めて返事をした。


 視界の端にイスティルが現れた。どんどん近付いてきた彼は、タチアナと一緒に誰がいるのかに気がついて、歩いてくるのをやめた。薄い青緑色の瞳がこちらを睨みつける。声はおびえていた。


「……あんたは」


 震えた声に、ドラゴン使いは一瞬悲しそうな表情をして、言う。


「イスティル、か。私には何も言う資格がない……だが」


 彼の手が背に軽く触れて、少女は立ち上がった。不安を隠しもせず、水使いはうつむいたまま相手に近寄る。光術士は続けた。


「タチアナは私の大切な友人だ」


 それだけだ、と呟き、トレアンはくるりと背を向けて行ってしまった。姉は、来ていない。せめて姉はいてほしかったのに。


 イスティルは幾分穏やかにこう言う。


「タチアナ、か……行くぞ、俺の家へ」


 離れた所に両親がいた。二人とも寂しそうに笑ってタチアナに手を振る。自分の言った言葉の重みが、その足にへばりついていた。



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