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 それなのに、トレアンもテレノスも、自分自身が意味もわからずに歌った歌に誘われて、出てきたのだ。今度、意味を尋ねてみようか。


「私も、まだまだ知らないことばかりだわ」


 彼女はそう言って、茶を一口すすった。冷たいものがすっと喉を通って、腹の中に気持ちよく落ちていく。梁だけの天井を見上げれば、屋根のわずかな隙間から植物のツルが入り込んでいた。


「あれだけ本ばっかり読んでるのに? 姉さん」


「父さんが言ってた“海”だって、まだ見たことないもの」


 想像もつかないしね、水だけしかないなんて。カレンはそう言って笑った。


「西の、エルフが住むような所までずーっと行けば見られる、って聞いたことあるな、僕は」


「へえ、誰から?」


「物売りの短命エルフのおじさん。ちなみに、歩いて大体半年以上かかるってさ」


 タチアナの表情は驚きに変わった。セスの言葉は予想だに出来なかったらしい。


「そんなに! 辿り着く自信ないよ」


「ドラゴンに乗せていって貰えたら速いだろうけど」


 確かに、と同意して彼は言った。


 いい日だった。切り取られただけの四角い窓から爽やかな風がすうっと入ってきて、家のなかでくるり、くるりと回る。セスは壁にもたれて、カレンは楽な姿勢で座り、タチアナは板の床に寝転がる。主人のいない他人の家で三人は自由にくつろぎ、他愛ない話を続けた。


 気付いた時には、窓から差してくる光に、微かに紅の色が混じる頃になっていた。トレアンもテレノスもまだ帰ってきていない。


「どうするべき?」


 首を傾げて言ったタチアナに、カレンは言った。


「ここで転移の術を使っても大丈夫だと思うけど……二人が帰ってきて私達が消えてたら、びっくりするんじゃない?」


「だよね」


 三人がどうしようか悩んでいると、何やら戸口の方で物音がした。帰ってきたのかと皆顔を上げたが、それから入ってくる気配がない。


「何か――」


「しっ、静かに」


 言いかけた妹を、セスは制した。そのまま息を殺して耳をそば立てていると、話し声が微かに聞こえてくる。彼は急いで戸口の方に音を立てずににじり寄った。


「……留守だ、やっぱり今日は皆が頭領とやらの家に行っているらしい。ここの主人は音に敏感ですぐ飛んでくるんだが」


「ドラゴンも上手く出し抜けた、後は――」


 タチアナが、口の形だけで、ドロボウと言った。後の二人も頷き、互いに視線を交わす。きっと、レフィエールの兄弟を呼ぶ時間は訪れない。その前に自分達が見つかってしまう。


 セスが、戸の板の隙間から何かを見ていた。後ろにいる姉妹に、口の形だけで、トウゾクと言う。続けて、ニンゲンと言った。

 三人とも、ごくりと喉を鳴らす。自然と、この家を守らなければと思っていた。ナンニン? タクサン。ドウスル? そんな無音のやり取りの中で、戸がガタガタと揺れた。もう時間の問題だ。


 カレンは、気を高めて手の平に炎を集中させた。開け放たれた瞬間に相手方もろとも、外に出る。そう決めて、身を構えた。


 セスが闇の茨を纏う。


 タチアナは冷気を身体の周りにめぐらせた。







 一瞬で、炎が出されるより先にどす黒い茨が五人ほどいた男達を捉えた。闇使いはそのまま戸口から外に人間の塊を押し出し、自らも続いて外に躍り出る。火使いも水使いもその後を追って、トレアンの家を出た。


 カレンは、咄嗟に思い立って、背後の家に盾の術をかける。悪態とともに、また人数の増えた盗賊達が刃物を抜いたのがわかった。その数は軽く十人を超えている。


 どうする、と考える暇もなく、タチアナは氷の槍を集団に向かって幾本も突き立てた。詠唱の声は歌うように高らかに響き、容赦なく次の術が彼らを襲う。取り囲んだ氷の柱に、盗賊の集団は一歩後ずさって背中を互いにぶつけた。


 あまりにもすさまじい氷の音に、ドラゴン使い達が慌てて家から飛び出してくるのが見えた。ドラゴン達が矢のように飛んでくるのも見える。レフィエールの家の前で術が飛び交っているのを目の当たりにして、絶句していた。


 そんなことはどうでもいい、と言わんばかりに、カレンは炎を繰り出そうと、さらに気を集めて詠唱をしかけた時だった。


 目の前の氷柱が、大きな音とともに割れ、あっという間に蒸発した。続けて、セスとは違う男の声が戸惑う盗賊達に向かって飛ぶ。次の瞬間には、敵は皆一人ずつ縛られていた。


 一瞬何が起こったのか理解出来ずに、三人は互いを見て、次いで声のした方向を振り返った。そして同時に息を呑んだ。







 気の力と殺気を纏ったトレアンその人が、こちらを睨みつけていた。







「違う!」


 咄嗟にカレンは叫んでいた。何が違うと言いたかったのかはわからないが、気付いたらそれしか出てこなかったのだ。射殺しかねない鳶色の鋭い光が、自分を捉える。そして、彼は叫んだ。


「――何が違う、と言いたい!」


 叫びとともに、すさまじい突風が彼女を襲う。反射的に盾の呪文を唱えたが、打ち破られて風とともに消滅した。


「盗賊よ! あなたの家には、盾の術がかかってるわ。私がやったの」


 トレアンは自らの術が縛り上げた男達を睨み付けた。剣は全て彼らの手から離れており、その顔は恐怖に塗り替えられている。


「……で、術で始末しようとした、というわけか」


 ドラゴン使いの術士は叫びを抑えて言った。周囲のドラゴン使い達が、信じられないといった目つきで自分達を見ている。助け船を出すようにタチアナがよく通る声で、訴えた。


「お願い、信じて。あたし達、守りたかったの、皆を」


 テレノスが、兄のすぐ近くに立ち尽くしていた。盗賊に嫌悪の視線を投げかけ、友人達を見つめる。猜疑の念が入り交じっていた。アドルフもそこにいた。以前言葉を交わしたカレンがそこにいるのを見て、彼は思わず叫んだ。


「差し向けたのか、人間! 我々を傷つけるつもりだったのか!」


「だから、違う! 人間っていうだけでそんな風に言わないでくれ!」


 セスも負けじと叫び返した。呼応するかのように、今度は岩の塊が無数に飛んでくる。咄嗟にカレンが闇使いに向かって盾の呪文を再び唱えたが、またもそれは破られ、同時に何も飛んで来なくなった。


 トレアンが手をかざしている。術は全て彼が放ったものだったのだ。


「……わかった」


 タチアナが呟いた。その場の皆が、彼女を振り向く。姉が妹の放つ冷気に気付いて止めようとした時には、もう遅かった。


「タチアナ――」


「――エフロスタ オベルラ――氷の中に滅びよ」


 途端、縛られていた盗賊達が悲痛な叫びを上げた。皆がぎょっとしてその方向を見ると、そこには再び氷柱が十本以上立っていた。


「な、何てことを……」


 カレンはうめいた。氷柱は透き通り、それは全く先程と同じ盗賊の形をしていた。苦しみの表情までもが刻印されている。ドラゴン使い達も背筋を震わせた。


「……死んだのか」


 表情の消えた蒼白な顔でトレアンが言った。その後ろでテレノスがふらりとよろけ、地面に手を付く。駆け寄って支えてやりたかったが、今の自分達には無理だ、と三人とも感じた。


「――他にどうすれば、良かったの?」


 タチアナの言葉に、誰も返せない。トレアンが炎を放ち、氷柱をあっという間に溶かした。何事もなかったかのように、それは宙に蒸発して消えてしまった。彼は続けて氷の矢を自分の家めがけて放つ。何かが割れる音がして、シールドが破られたことを知らせた。


「あたしの、自分の術で、死ねばわかって貰えるの?」


「違う!」


 今度は彼が叫ぶ番だった。ふらりとよろけ、弟と同じように地面に崩れかけて、膝をついた。その顔には苦しみと疲れがはっきりと出ている。でも、瞳はしっかりと自分の友人達を見据えていた。


「……言った筈だ、外に出るなと……そのまま、中で転移していればよかったものを、わからないのか? そなたらが今、誰に見られているか」


 術で消耗した体を何とか支え、トレアンは言う。そうだ、人間を避けて生きてきた、偏見を持つ我々の仲間だ。それは喉を通り抜けずに、雑念として体の中に残る。何故か言うことが出来なかった。


 と、ドラゴンが唸るのが聞こえた。ドラゴン使い達が幾人かはっとした表情で三人のヒュムノメイジを見つめ、何処か申し訳なさそうな顔をする。


 ドラゴン達は、見ていたのだろうか。その中にはヴァリアントもオーガスタもいて、自分のパートナーや他の者に向かって何かを伝えていた。


「……そうか、見たのか」


 アドルフが呟いた。彼のパートナーが傍にいる。赤みがかった金色の鱗は夕日に映えて美しく、雲の多い空に似合っていた。おそらく、どのドラゴンよりも大きいだろう。


「忍び歩く十数人の人間を、見たそうだ。ドラゴンは我々よりも遥かに目が利く。襲ってはこないと思って、放っておいたそうだ……よもや、こんな」


 頭領は唇を噛んだ。先程三人をなじったことを早くも後悔しているらしい。彼は続ける。


「あのようなことを言って、すまなかった。君達は我々の大切な仲間を救ってくれたというのに……」


 息遣いが聴こえないほどにあたりは静まる。さらさらと木の葉が風とともに舞って音を立てた。


「――あたしはとんでもない術を使ったわ」


 タチアナが、その中で静かに言った。アドルフは首を振って再び口を開く。


「今のは……同じ、人間の仲間だった筈だ。それを倒して……我々を救ったのは、我々には理解し難い心なのか? 何故、そこまでして我々を守ろうとしたんだ?」


 その表情は、沈痛な声と同じ痛みを持っていた。他のドラゴン使い達も同じ顔で三人を見つめている。瞳に宿っていた驚きと憤りは消え、哀しみの光があった。何か、内にあった別のものを呼び起こしたのだろうか。


「決まってるじゃない」


 カレンが言って、皆が彼女を見た。困ったように微笑んで、紅色の光を反射する青の瞳が優しく瞬く。


「……あなた達が、好きだからよ」


 ドラゴン使い達は皆、雷に打たれたような表情になった。彼らは、今初めて誤解を知った。心の隅でくすぶっていた疑いを、レフィエールの兄弟は知った。結局、自分達は――


 トレアンは無理矢理立ち上がった。足元がふらついたが歯を食いしばって踏み留まり、ただ一人だけ視界に入る人のもとへと一歩、足を出した。


 疑っていたのだ、まだ、心の何処かで。自分達と違う彼らのことを、ちゃんと受け入れ切っていなかったのだ。一歩一歩が長く、遠く感じられた。最初に会った時から、距離はちっとも縮まっていなかったのかもしれない。ドラゴン使いと、人間として。


「今なら――」


 うめくように言って、カレンを見る。あと少し、あと少しで届くような気がするのではなくて、届くんだという確信が持てる。

 手を伸ばせば触れられるのだ。心だけではなく、その身体にも。


 目の前に、肩があった。ふらりとまたよろけて、トレアンは倒れ込むように彼女を抱き締めた。


「――と、トレアン?」


 慌てた声が本当にすぐ近くで聞こえる。彼はその肩に顔をうずめるようにして、長い長い溜め息をついた。今、周りがどんな表情をしていてどんな感情を持っているかなんて、正直どうでもよかった。


 そして、耳元で囁いてやる。


「――許してくれ、愚かな私達を。受け入れようとしなかった未熟な術士を……逃げていた私を。手を伸ばせば、受け入れられる距離に皆がいたのに」


「ねえ、トレアン……」


 優しい彼女の手。さっき炎を放とうとした手が、自分の体を引き離そうと脇腹に触れる。でも、離れたくなかった。離れる前に、言っておかなければならないことがある。漠然とそれだけはわかっていた。


 だから、トレアンは口を開く。声が震えても、喉の奥から言葉を絞り出した。


「今こうしてなかったら、絶対にわからなかった。理屈だけじゃ意味がなかったんだ、外見なんてどうでもよくて、心が通じあっていればいい、って……それは間違いだった」


 カレンには、テレノスが再び立ち上がったのが見えた。喋っているうちにどんどん大きくなってきたドラゴン使いの術士の声は湿り気を帯びていて、回された腕は重く、そして温かかった。この手は、今自分の背に回されている人を癒す手は、火も水も風も土も、全ての力を操るのだ。


「見ない振りしてたんだ……カレン」


 広い背中が小刻みに震え始める。彼女はそれをなだめるかのように、置き場所がわからなくて宙をさ迷っていた右手でそこに触れた。


「いつか仲間に紹介出来たら、って甘いことしか考えていなかった。怖かったんだ……不安だった、信じて貰えるかどうか! そなたの言った通り、言わなければ伝わらないのに……」


 彼は泣いている。心が痛かった。だから、精一杯ぎゅっとその体を抱き締めて、肩に手を置いて泣き顔と向かい合う。泣き顔も泣き顔で、男前だと言えば彼は怒るだろうか、それとも苦笑するだろうか? カレンは微笑んで、言った。


「でも、たった今……伝わったじゃない。それで十分」


 テレノスがこちらに向かって歩いてきた。表情は何だか切なげで、でも微笑んでいて、兄の右肩に右腕をしっかり回す。


「だから、あの時いつでも何でも言って、って言ったのに。意固地になるなよ、大切なことなんだから……兄さん」


「――テレノス」

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