2
しばし無言が続いたが、トレアンが静寂を破って言った。
「……すまなかったな、あのようなことを言って」
カレンは、汚れを落とす手を止めずに、左に立つ人を見た。彼は目を合わせようとはしなかったが、その表情からはまだ後悔がにじみ出ている。彼女は少しだけ鼻の奥で笑って、再び手元を見て言った。
「……もういいのよ、気にしないで」
ふわっと空気が変わった。多分、相手も表情を緩めたのだろう。
「……なら、よかった」
「私の方こそごめんなさい」
トレアンはゆっくりとかぶりを振った。
「いいや、私にとっては言われて当然のことだった」
「でもね……あっ、洗い終わったならこれで拭いて」
布巾を手渡しながら彼女は言った。
「わからないのなら少しでも考えればよかったのよね、そう思えた」
しばらく間を置いて、彼は言う。
「――それは私にも言えることだな」
そうして、カレンの方に改めて向き直った。自然な笑みが漏れ、ためらいのない言葉が口から出た。
「ありがとう、カレン」
彼女の頬に、すうっと赤みが差した。数回瞬きをして、何処か恥ずかしそうにうつむき、言う。
「そ、そんな……お礼言われるようなこと、してない……けど」
「いいや、私は色々なことに気付かされた」
トレアンは真っ直ぐ相手の瞳を見た。
「私は――」
言いかけた瞬間、家の戸口の方でバタンと大きな音がして、二人とも咄嗟に戸のない部屋の向こうを振り返る。エミリアの声が聞こえて、赤毛の中年の男が見えた。セスよりも少しがっしりとした体格の、背の高い人間だ――その人が、こっちに気付いて、はっとした表情になった。
「ああ、うちにお客さんよ。姉さんとあたしの、友達」
まだ椅子に座っていたタチアナがすかさず言った。それに少し感謝しつつ、二人は元いた部屋に戻る。ロウソクの揺れる光に照らされて、小さな本棚の中に数冊の本が見えた。それが術士の引導書であることにトレアンは何となく気付いた。
「……ドラゴン使い、だったのか」
「……トレアン=レフィエール、光術士兼医者です」
固い表情で呟いた赤毛の男に、彼は頭だけで礼をして名乗った。視線を会わせると、瞳の色が二人の娘と同じだということに気付く。よく見ると髪色は大分くすんだ赤色だった。
男は眉を上げて首を傾げ、言った。
「俺はギルバート=ミストラル、言うまでもなくそこのじゃじゃ馬二人の父親だ。そして、風使いでもある……ふむ、しかしドラゴン使いにも力を使える者がいるのか」
ドラゴン使いの術士は、少し口の端を緩めて答える。
「ええ、レフィエールの最初の子にしか顕れない力です」
「ふむ、よくその血が絶えなかったものだな……娘達がどうやら世話になっているようで。いつの日かは薬も頂いてしまったな」
ギルバートは勝手にシチューを取り分け、自分の椅子に座った。その顔からは固い表情が消え、鋭さのなくなった瞳が小さな本棚に向く。トレアンは立ったまま言った。
「いえ、人を助けるのは私の仕事であり、願い……その私でさえ、彼女らに色々と助けられた身です」
言いながら、彼は思い出したようにふっと笑った。思わぬ出会いが、日々の生活に何かを与えてくれたのだ。それは、変えようのない事実だった。
タチアナが、ぼそっと言った。
「あたし、特に何もやってないけど……」
その呟きを流して、柔らかい表情で客を油断なく観察していたギルバートだったが、顔立ちの良いトレアンの笑みに彼自身も頬を緩め、こんなことを口にする。
「ずっと、思っていたよりも素晴らしい人々のようだな、君達の一族は。本当に申し訳ない気持ちで一杯だ」
それから彼はドラゴン使いに座れと合図した。カレンもほっとした顔でトレアンの隣に座り、自分の父親を見る。
「私こそ、人間はドラゴンを見ただけで逃げ出す者や誤解をする者の多い、臆病者だと思っていた節もあったので……でも、今は全くそうだとは思っていません」
「……お互い様のようだな」
「そのようですね」
ギルバートが少し笑って、また小さな本棚の方を見た。トレアンもその視線を追ってその本棚に目をやる。光と闇の引導書がないのに気付いた。
「……君は、術の書なんかは持っていたりするのか?」
「いえ、あのような引導書は一つもありませんよ」
そう答えれば、青い瞳が再びこちらに向いた。
「なら、どうやって術を……習ったんだ?」
「ちょっと違う類の書物があるんです。因みに、ドラゴン使い一族しか読めません」
是非読んでみたいと言い出しかねない顔つきを父親がしたので、彼はすかさず釘を刺しておいた。読み聞かせも禁じられています、とさらに付け加えておく。
「……秘密主義なのか、そんなに」
「……まあ、一応家宝ですから」
トレアンは口の端を少しだけ吊り上げてみせた。それから話は飛び、皆でよく笑って、勝手に出されたカレンの縁談で赤くなって慌てたりしながら、夜は更けていった。この土地に、たまに短命エルフの商人が来ることも知った。数千年を生きる普通のエルフと違って、人間やドラゴン使い、ヒュムノメイジと同じような長さの寿命であることも聞いた。
「……やはり、大地は広いのだな」
そうこぼすと、ギルバートが笑いながら言う。
「俺は、海を見たことがあるぞ。何のことだって言うと、何処までもずうっと水ばっかりが見えるんだ。初めて見た時は、感動した」
すっかり遅くなってしまった。カレンと話せたならそれでいいと思っていたこの小さな旅が、よもや家族まで巻き込んだ談話にまでなってしまうとは、夢にも思っていなかった。トレアンが礼を言って帰ろうと戸口を開けて外に出れば、すっかり仲直りをした彼女が一緒に出てきた。
「丘の向こうまで、見送るわ」
「……夜は危ないだろう、暗いし」
村を振り返って見れば、明かりが灯っているのは既にミストラルの家だけになっていた。
「大丈夫よ、夜の敵は明かりとか火が嫌いだから」
「――また強気な。初めて会った時のようだ」
彼は歩きながらくすくす笑った。
そして、同時に考えていた。こんなに暖かい気持ちになれる家族が、もし自分にもっといたならば、また色々違っていただろうか。
「本当に、よく笑うようになったわよね、トレアン。初めて会った時に比べると」
カレンが言った。半年以上前でも、普段からもっと笑うような人になっていただろうか。もう少し、素直になっていただろうか。
「そうだな……許せる者が、増えたからだろうな」
「何だか喋り方も柔らかくなったわよね。成長したわ、ほんと」
「……母親みたいなことを言うな。母君とそっくりだ」
トレアンは笑いながら抗議して、手の中に光の小さな玉を作った。これで、地面にあまり関心を払わずに済むだろう。彼は、星空を見上げて呟いた。
「家族……か」
「テレノスがいるじゃない」
「まあ、そうだが……星は綺麗だな、レファントもここも」
丘の上に、二人は辿り着いた。オーガスタはおらず、見回しても影すら見えない。彼は光の玉を巨大化させたが、パートナーの姿は見えなかった。
「……オーガスタに悪いことをした」
「確かに、流石にドラゴンは村には連れて来られないわよね……待たせておいたの?」
「草原の動物を食べる、とか言っていたのだが。まあいい、指笛でしばらくすれば来る」
そう言って、トレアンは口に指を当て、鋭い音を二、三回出した。これでよし、という風に腰に手を当てて、そのまま彼は地面にあぐらをかいて座った。
「……確かに」
カレンは隣を見下ろした。横顔が、ずっと遠くの地平線を見つめている。
「気に入らないことだって、腹立つことだって、沢山ある。あるけど……ある意味で一番理解してくれるのは、紛れもなくあいつだけだ」
この人は、テレノスのことを言っている。紛れもない、彼の弟。彼女も、左隣に腰を降ろした。夜は昼間と違って涼しく、音のない風が丈の短い草を揺らす。
「それに、喧嘩した時よりも一緒に笑ってた時の方が多かった」
そこでトレアンは優しく笑った。言葉から、普段の口調が消えかけて、数年前の彼の声を聞いているような気がする。彼自身は、それに気付いているだろうか?
「誇りに思える、いい兄弟だ。もう、世界で一人だけの家族だから」
「……そうね」
カレンも、微笑んだ。微笑んで、彼の背中に右腕を回して、軽く叩いてやった。また体がぴくりと震えたが、振り向いた顔は穏やかだ。
「な……どうした」
でも、動揺はしているようだ。
「そうね、そういう風に喋ってる方がずっといいわ」
顔を覗き込むと、彼は一瞬だけ目を合わせてから、照れ臭いのかあさっての方向に視線をやってしまった。
「……不自然、だと思うが」
「そんなことないわよ」
カレンは立ち上がった。遠くから微かに羽ばたきの音がして、トレアンも迎えが来たことを悟って立ち上がる。
「私が知らなかった、あなたの素敵なところよ。おかげで、もっとあなたが好きになれた」
思わず、彼女を振り返った。左隣のヒュムノメイジは柔らかな微笑みを口元に浮かべて、星空を見上げている。自分の顔がどんどん火照ってくるのがわかって、また彼は向こうを向いた。
――思い出した、このくすぐったい感情。
「……う、嬉しいことを言ってくれるのだな、その……」
カレンの方が今度はくすくす笑った。星空に、黒い影が一つ上がって、だんだんと大きくなってくる。微かだったそれははっきりとした羽ばたきの音となって、二人の耳に届いた。
「……私の方こそ、ありがとう、トレアン」
彼女が、振り返ったトレアンに笑いかけた。ドラゴンの羽ばたきの起こす風が髪を舞い上がらせる。
「ちょっとー、遅すぎるわよ、トレアン」
村の皆が起きるのではないかというぐらいの地響きを立てて、オーガスタが不平を言いながら二人の傍に着陸した。しかし、ドラゴンの口調には何処か面白がっているような節がある。ドラゴン使いは、別の言葉で語りかけた。
「本当にすまない、オーガスタ。私もここまで遅くなるとは思っていなかった」
「ふうん……まあ、うまくいったみたいだから、いいけどさ」
「……何故、わかる」
「だって、顔が赤いからね」
トレアンは憤慨しかけたが、やめた。わからない言葉の言い合いなど見たって、カレンは面白くないだろう。それに、さっき受け取った言葉の持つ幸福感の方が、大きかった。
「……まあいい」
彼は呟いて、パートナーの首を軽く叩いてやる。そして、彼女の方を振り返った。
「じゃあ」
それに対して、微笑みが返ってくる。この短い刻に何回もカレンが笑うのを見られる自分は、幸せ者だと思えた。
「お休みなさい、トレアン」
だから、こっちも微笑みを返した。
「――ああ、お休み」
「最近、トレアンさんってよく笑うようになったと思わない?」
まだ涼しい、朝のことだった。収穫祭は過ぎ、幾人かが違う家の血統の者と結ばれたりして共に暮らすようになった。小さな町の男も女も新しい家を数件建てる為に大忙しで、レフィエールの兄弟も例外ではなかった。新しい夫婦の家は、皆で作るものだからだ。
そう言った女は、共同で使っている大きな井戸の所で、何人かの町の娘と一緒に木材運びの途中で休憩を取っている。湿気をおびた季節は過ぎたが、暑い地方のレファントなだけあって、彼女らは皆、胸と腰に布をぐるぐると巻いた格好でそこにいた。大きな木の下だ。
「確かに、私もそう思ってたかも」
もう一人が、それに賛同する。トレアン本人と同じくらいか、あるいは下くらいの年頃に見えた。全体的にほっそりとしている。
「前はもっと無愛想だったと思うんだけど、変わったよね」
また違う娘が言った。目がくりっと大きくて、森の中にいる小動物を思わせるような顔立ちだ。
つまり、と三人は同時に考えて、同時に言った。
「――素敵になった」
そして、三人とも妙な頷き方をして妙な笑いを顔に浮かべる。年頃の娘とはこういうものだと年長者のドラゴン使いはよく言うのだ。
「やっぱり? 皆そう思ってたのね」
「黙っててもついつい見ちゃうけど、笑ったらそれ以上だしね」
「何かあったのかな?」
そこで、最初に口火を切った娘はあちこちに目をやった――彼を探しているのだ。髪は短く、木材運びのおかげか腕の筋肉がしなやかに浮き上がっている。
「あーあ、いないや」
「直接訊くつもりだったの、カタリーナ?」
カタリーナと呼ばれた彼女はうん、と頷いた。
「だって、本当に人間とお友達なのかも確かめたいしね」
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