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 一人の男が、人間の村を見渡すことが出来るなだらかな丘の上に立っていた。横には、もう畑仕事が出来るぐらいの少女を連れている。


 西の空を覆っている夕暮れの光は、まだはっきりと残ってはいるが、徐々に消えつつあった。東の空には既に星が瞬いていて、家々がやせた大地に落としている影は濃い。それでも、この景色はなかなか美しいものだ、と彼は思った。後ろを振り返れば、大分遠くに森が、遥か向こうに山が見える。


「さあて、こんな子供だましの魔法で簡単にいけるかしらね」


「……子供の姿でそれは言えないだろう」


 皮肉な笑みを浮かべながら言った彼女に、男は水を差した。


「よく言うわよ、百何十歳も年下のあなたが。まあ、この姿も悪くはないと思うけど。ちょっと落ち着かないわ」


「だから、丘の向こうで待っていろと言ったのに。一体何と張り合うつもりだ、オーガスタ」


 少し呆れたような表情で、男は自分がオーガスタと呼んだ少女を見下ろした。彼の瞳は深い緑で、栗色の髪は癖がかかっており、眉と耳を覆っていた。容姿が、いつもと違う。


「あら、ただ様子を見に来ただけよ、あなたの仲直りの仕方の、ね。それにしても、トレアン=レフィエール、面白い魔法を使うのねあなた」


「……基礎だ」


 トレアンは言って、端正な口元を緩めた。服が、いつもと違う。


「姿変えの魔法なんて、メイジとかヒュムノメイジはすぐにばれるって言ってあまり使わないみたいだけど」


「……何となく、試してみたかっただけだ」


 オーガスタの長い銀色の髪に目をやりながら、彼は答えた。ここに来たのは彼が一刻も早くカレンと話をしたかったからだ。ひどいことを言ってしまったという後悔が長く残るのは、楽しいことではない。


「にしても、魔法の前も魔法の後も、あなたの美男子っぷりに変わりはないわね」


「……顔が変わっていないか? 失敗したか……」


「そうじゃないわよ」


 ちゃんと変わっているから、とオーガスタはパートナーに向かって言い、一歩前に進み出た。柔らかで美しい銀髪が濃い紅の微かな光を受け、風にふわりと舞う。


「さあ、行きましょ」


「……それはいいのだが」


 トレアンはまだそこに立ったまま、一歩も動こうとせずに顎に手をやった……形が変わっている。何とも奇妙なものだ、と思いながら、考える。


「……一体、どの家が“当たり”なのだろうな」


「わからないの?」


「人がいないような真夜中に、上空から見たことがあるだけだ。村全体だった」


 二人ともしばし無言になった。オーガスタが、口を開く。


「もう、しょうがないから一軒ずつ回るしかないんじゃない?」


「――正体がばれるのだろう――」


「どっちにしろあまり関係ないわよ。余所者に変わりはないんだから」


 さて、どうしよう。二人が顔を見合わせた時だった。


「あら、もしかして、もしかすると、旅人さんかい?」


 気さくな女性の声がして、トレアンとオーガスタはその声のした方を振り返った。薄い色の癖のある長い髪を頭の後ろで一つにまとめ、手の中の籠には芋がいくつか入っている。いい年になる子供がいそうな、柔らかな表情の人だ。


「ええ、人を探していまして……この村にいると伝え聞いたのですが」


 丁寧な口調でトレアンが言った。女性は、二人をじっと見つめて、一瞬だけ目を丸くする。彼は怪訝な表情を浮かべて、訊いた。


「……何か?」


 すると、女性は意味ありげな笑みを浮かべ、言った。


「なるほどね。アンデリーの息子よりも、確かに男前だあね」


「――えっ?」


 女性が、すっと手を上げた。そのままその人は口の中で何かをぶつぶつと呟き、上げた手を握って、笑みを浮かべたまま二人に向けた。隣の気配がとてつもなく大きくなって、トレアンはまさかと思って慌ててオーガスタの方を見た……自分にしかわからない言葉が、聞こえた。


「やっぱりばれたわね。あなたも黒髪に鳶色の目に戻っているわ」


 一頭の大きな銀白色の鱗のドラゴンが、油断なく女性を見ながらそこに堂々と佇んでいる。その隣で、自分の髪の毛を引っ張って目の前に持ってきてみる。普段の黒さと何ら変わりのない、元の長めの髪に戻っていた。手に括っておいた紐をほどいて、彼はうなじのあたりで自分の髪を諦めたような表情でまとめ始めた。


「やっぱり、元の格好の方が男前だあね、あんた」


 トレアンは黙っていたが、髪をまとめ終えると言った。


「珍しい、ドラゴンを見ても逃げ出さない人間がいるとは……私の正体も知っているでしょうに」


「やだねえ、そこらのヒュムノメイジや人間連中と一緒にしないでおくれ! こんなに人の良さそうなドラゴン使いを見て、とやかく言う方がおかしいのさ。エミリア=ミストラルって言うんだよ、昔は村一番の男を落としたこともあるのさ」


 まるで太陽のような笑顔で、エミリアと名乗った人は言った。少しだけ当惑した表情をトレアンも出したが、何だか体の奥が温かくなったような気がして、口元を緩めて少し笑った。


「トレアン=レフィエール、このドラゴンはオーガスタ。私の大切なパートナーですよ」


 そう紹介してちらりとオーガスタを振り返れば、エミリアは怖気づくこともせずにドラゴンに向かって手を差し出す。銀色の鼻先の鱗が指に触れて、前髪が鼻息で舞い上がった。


「全く、綺麗だねえ、ドラゴンは。まだ娘っこの時に一回だけ、空を飛んでるところを見たねえ……あれはくすんだ青で、昼間のことだったね。でも、銀もどうだい、夕日の色によく映えて幻想的じゃないか」


 くすんだ青のドラゴンと聞いて、きっと弟のパートナーだと思いながら、トレアンは静かに頷いて太い首を撫でた。


「ヒーラー種……癒しの力と浄化の力を司るドラゴンです」


「そんで、あんたも同じような力を使えるんだよねえ、トレアン。そうだ、今からうちに来るといいよ、食事もたっぷりあるしねえ」


 エミリアの言葉に違和感を覚えつつも、彼は後について歩き出した。流石にオーガスタは無理があるので、そこに留まっていてもらいたいという意を伝えると、草原の動物でも食べる、とドラゴンはパートナーに向かって伝えた。


「……すまないな、オーガスタ」


 自分達にしかわからない言葉を、トレアンは大声で言った。


 二人は丘を降りていった。周りに木はほとんど見当たらず、畑や草原が多い。ずっと向こうまで踏み固められた茶色の道が筋となって通っていて、これを辿ればもっと人間を見ることが出来るのか、と思わせた。


「やっぱあれだね、うちの子達が新しく出来た友達の正体をなかなか言わなかったんだけどね、これでようやくその理由がわかったね」


「……それは、どういう……?」


 トレアンが尋ね返そうとした時には、相手は既に戸口の前にいて、音を立てて片手で引きながら、大声を出した。


「カレン、タチアナ。降りておいで、あんたらにお客さんだよ!」


 今聞いた二人の名前に、エミリアの後ろにいた彼は思わず目を見開いた。すると、家の奥の上の方から足音がして、他でもないカレンとタチアナが顔を出した。


「母さん、お帰り。お客さんって――」


 カレンが言いかけて、言葉を失った。母親の後ろには、同じく言葉を失って口が半開きのトレアンがいたからだ。タチアナも、素っ頓狂な声を上げた。


「えーっ、トレアンさん、何で母さんと一緒なの?」


「あたしが、丘の上で引っかけてきたのさ。聞いてた通りのすっごい男前だあねえ、何だか得した気分だよ」


 エミリアがにやにや笑いながら言った。後ろに立っている彼は、その言葉に我に返ったらしく、半開きの口を閉じて相手をまじまじと見るのをやめた。その頬が少しだけ紅潮している。


「さあて、ギルバートはまだだけど、食事にするかね。昼間っから煮込んでたシチューがあるからね……カレン」


 椅子を一つ増やしながら、母親は娘に指示を出す。


「いつもより多めに底の深い皿と、スプーンを出しとくれ」


 三人が素早く食事の席を整えるのを、トレアンはそこに立って見ていた。異様に一つひとつの動作が迅速で、無駄がない。


 だけど、何故こんなにも急いでいて、慌ただしいのだろう? 落とすことはないのだろうか、と無駄なことを心配しながら、彼は何をしていいのか分からずに声が掛けられるまで待っていた。


「さあ、出来たよ。あんたも好きな所にお座りなさいな、トレアン」


「……あ、ありがとうございます」


 成り行きにまかせて、ここまで来てしまった。カレンを探すつもりだったので、彼女本人に会えたのはいい。だが、この状態で何時二人きりになれるのだろうか? 彼は大きめの長方形のテーブルの、端っこに置かれた椅子を引きながら思った。


「そういえば、何でここに来たの、トレアンさん?」


 食事が始まって、さっそくトレアンは我が目を疑った。タチアナがものを食べながら話しかけてきたからだ。内心の驚きを悟られぬよう、彼は顔の筋肉を引き締める。口の中のものを、ごくりと飲み込んだ。


「……ああ、少しオーガスタと遠乗りをしていた」


 これも、あながち嘘ではない。エミリアのシチューは、ここの土地が森よりもやせていることなど関係ないと思わせるほど具沢山で、とても美味しい。


 ちらりとカレンを見た。あさっての方向を見ている。


「ねえ、空を飛ぶのってどんな感じ?」


 姉と同じ色の瞳が興味津々に輝いている。彼は青空を思い出して言ってやった。


「……実際に飛んだ者にしかわからない。言い表すのは困難だからな」


「うーん……乗らなきゃわからないか」


 そこで会話が中途半端に途切れる。何となく、トレアンはエミリアに向かってシチューを褒めた。


「あら、ありがとねえ。あたしの大地の力と森に近いこの土地が育ててくれた野菜のおかげだよ。あと、タチアナが日照り続きの時にまいてくれる水だねえ。カレンの雑草焼きももちろんだね」


 母親はそう言って、二杯目をおかわりした。再び無言が訪れ、聞こえるのはスプーンと皿がぶつかり合うカチャカチャという音だけになる。


 そんな中で、また母親が言った。


「……ねえ、トレアン。あんた、カレンを貰ってくれる気はないかねえ?」


 聞いた瞬間、トレアンは思わず口の中のものを皿に向かって吹き出しそうになり、慌てて無理矢理飲み下す。そのせいか、違う所に食べ物が入って、彼は思いっきり横を向いてむせ込んだ。


「――母さん! 何考えてるの!」


 こちらも思わず立ち上がったカレンが、顔を真っ赤にして叫んだ。タチアナは何が可笑しいのか大笑いをし始め、エミリア自身は少しだけ笑ってから、こう言う。


「あたしはね、何だかね、あのアンデリーの家の次男坊は好きなんだけどね……いい子なんだけどね、何か足りないような気がするんだよね」


 だからあんたも応えたりしてないんだろう、カレン。母親は娘に座るよう手で合図をしながら、そう付け加えた。


「……アンデリーの、息子?」


 トレアンがようやくそう呟くと、座ったカレンが初めてまともに目を合わせ、答えた。


「……セスのことよ」


 その表情にはある種の苦々しさが混じっていたが、自分に対するものではないことは確実だ、と彼は思った。とりあえず視線と頷きを返しておく。多分、もう大丈夫だ。


「トレアンの方が、きっと素敵だあねえ。何か一本だけ、違うものが芯に入ってるって感じがするしねえ」


「わ、私はそこまで――」


「あたしの見る目は外れたことがなかったよ。だから、あんたらが生まれたのさ、カレン、タチアナ」


 姉妹が微笑んで、トレアンはまた赤くなった。


「い、いくら何でも買いかぶりすぎでは……」


 皿を見つめながら言うと、エミリアは豪快に笑う。


「あたしは、男前には目がないのさ」


 何だか色々と見透かされたような気がして、腹が減っていたにもかかわらず彼は結局一杯しかシチューを食べることが出来なかった。他人の家に行くのは、こうも緊張するものだっただろうか?


 カレンが立ち上がって、自分とタチアナの分の空の皿を持った。エミリアはまだ食べている。片付けるのか、と気付き、自分ももういいかと思ってトレアンも立ち上がった。向こうに見える別の部屋に水が溜めてあって、そこで洗うらしい。


「あら、別にゆっくりしてもらっててよかったのに」


 後ろから付いていくと、彼女はそう言った。


「いや、食事を戴いたのだからせめてこれぐらいさせてほしい」


「ありがとう、ちょっと助かる」


 ふっと柔らかく笑った顔に、しばし見とれる。それから慌てて我に返って、彼女の左隣に並んだ。もやもやとした気持ちは、もうない。皿の洗い方を彼は観察した。真似して、自分も洗い始める。

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