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 わかっている。あの葉の形は、あの病気に効く薬草のものだ。やっと見つけた、と嬉しさの余り手を伸ばした。だが、手は虚しく空を切っただけで何も掴んではいなかった。嘘だ、と思ってもう一度、しかし結果はさっきと同じ。


 せっかく見つけたのに。薬草はどんどん遠ざかっていく。どうして何も掴めないのだろう? 足が前に進まない。待って、行かないで――気付けば大声で叫んでいた。


「待って、行かないで!」


「どっ、どうしたんだっ?」


 はっと目を開けると、誰かが急いで枕元へ飛んでくるのが見えた。慌てて起き上がろうとすると、右肩のあたりに激痛が走り、声にならない悲鳴を上げたところをその“誰か”に背中を支えられた。


「あと少しで傷が塞がるから、起き上がっちゃ駄目だ」


「……や、薬草が」


 体重をその腕に預けながら、思い出した。そうだ、薬草を探して、道に迷ってドラゴンと鉢合わせて、右肩をやられたのだ……ここは何処だろう?


「ひどい熱だ、化膿止めの薬と解熱の薬がまたいるな……絶対に起き上がらずに、そのままじっとしていてくれ。医者の兄さんとドラゴンを呼んでくるから、そうしたらずっと楽になる」


 視界が少しはっきりしてきた。自分を覗き込んでいるのは、見たこともない黒い髪の男だ。顔立ちはまだはっきりとわからないがその声は若々しい。肌の感触から、自分の傷口には綿の布が当てられていて、木の家の中で麻布の上に横たえられていることがわかった。体の上からは毛織物……毛布だろうか?


 すっと立ち上がって何処かへ行こうとするその男に、カレンは出せる限りの掠れた声で訊いた。


「あ……あなたは」


 おぼろげな視界の中で、男は立ち止まる。彼は振り返って言った。


「テレノス=レフィエール、ドラゴン使いさ」


 そうしてカレンは一人になった。自分はどれだけここにいるのだろうか? 病に倒れたままの両親は大丈夫なのだろうか。村の人も色々と手伝ってくれているのに、肝心の娘がいないとなると、今までよりももっと迷惑をかけてしまうことになる。彼女は考えた。ただでさえ、家も他の家も貧乏なのに。


 天井をずっと見ていると、木の梁がだんだんとはっきりしてきた。きっと力いっぱい飛び上がっても届かないだろう。まだ切ったばかりの木材の匂いもする。この家は建てたばかりなのだろう、そっと頭を動かして別の方向を見ると、木屑が少しだけ落ちていた。大きな金属製の鍋や壁に直接取り付けられた棚の上の壺など色々物が置いてあるが、大人の男四人が雑魚寝出来るぐらいの広さだ。悪くないな、と思った。


 しばらくすると、テレノスと名乗った彼が戻ってきた。何やら大きめの壺を二つ抱え、新しい綿布も持ってきている。


「傷を見させてもらうよ、かなりひどい状態だろうから……うわあ」


 躊躇うような手つきで布を捲った彼は顔をしかめ、喉の奥から奇妙な声を絞り出す。されるがまま手当てを受けながら、鈍い痛みの中でカレンは目の前の男を観察した。空を舞う鳶のような色の瞳に、短めの黒い髪。身に付けている服は麻で、じめじめとしたここらの地にあうように首元が大きく開いている。自分の肩、閉じかけの傷口に薬が塗り込まれていくのが鋭い痛みと共に伝わってきて彼女は呻いた。決してぽっちゃりはしていないが、かといってごつごつし過ぎてもいない大きな手だ。


「私は――」


「どうしたんだ?」


 カレンが呟けば、その鳶色の瞳は真っ直ぐと自分を覗き込む。


「――いつから、ここに?」


 テレノスは少し口元を緩めて、言った。


「昨日からだよ。やってくれたね、君は。俺のパートナーにあんな深い傷を負わせるなんて」


「……あ、あなたの」


 何ということだ、とカレンは後悔した。あの青灰色のドラゴンは、このドラゴン使いのドラゴンだったのだ。彼女はかすれた声を出した。


「ごめんなさい、私――」


「いやいや、ヴァリアントも悪かったのさ。こんな所まで人が来るなんて珍しいからって近寄って行ったら、火魔法を食らって思わず噛みついてしまった、って言ってた。彼も後悔の海の中だよ」


 テレノスは苦笑しながら、薬壺の蓋を閉める。そして、ふと気が付いたように言った。


「でも、君はあんな所で何をしていたんだい?」


「私は……急な高熱と吐き気によく効く薬草があの森にあるって聞いて採りに来たんだけど……迷っちゃって」


「葉の形は知っているのかい?」


 肩の傷は再び綿布で巻かれ、作業中の痛みは和らいだ。カレンは少しだけ考えて言う。


「全体的にギザギザで、触ったらその裏に小さな毛が沢山あるの。早くしないと、村の人にも迷惑だし、両親も……」


 動けたらいいのに。彼女は唇を噛んだ。


「エル=シエル・ハーブのことか……兄さんに頼んでみれば、分けてくれるかもしれない。この薬も兄さんが分けてくれたしね」


 と、入り口の方で何やら大きな音がした。テレノスがあっ、と言って、カレンの方を向いて言った。


「ちょっと待ってて。多分兄さんだ」


 彼女はまた考えた。薬が手に入ったら、もし分けて貰えたら、傷をそのままにしてでも家へ戻ろう。戻って、薬を両親に飲ませよう……そして、ドラゴン使いはいい人だったと言おう。そこまで考えて、私は帰り方を知らないじゃないの、と気付いた。


「兄さんだ。君を連れて来い、って言っているんだけど……抱え上げられるのには慣れているかい?」


 テレノスが戻ってきて言った。カレンはこくりと頷き、またされるがまま頑丈な腕に抱え上げられる。彼は右肩の傷を気遣うように色々と手の位置を変え、下手でごめんと言って少し顔を赤くした。


「そなたが言っていたのはその娘か、テレノス」


 家の外へ出ると、銀白色のドラゴンと共に二人目の黒髪の男が手に何やら色々な物を持って立っていた。瞳の色も、テレノスと同じだ。


「薬草探しをしてて、迷っちまったらしいんだ。で、俺のヴァリアントの阿呆が、近付いて行っておどかして火魔法食らってやがんの。俺が止めた時には、右肩に牙がぐっさり」


「そうか……すまぬな、愚弟のせいで。私の名はトレアン=レフィエールというが、そなたの名は?」


 テレノスとは逆に、トレアンの髪は肩にかかるぐらいで、それを後ろで束ねてひとまとめにしている。カレンはあまり喋りたくなかったが、無理矢理口を開いてさっきよりも掠れた声で言った。


「カレン=ミストラル、これでも人間の火術士です。お薬、ありがとうございます」


「いや何、人を助けるのが私の仕事でもあるからな。ドラゴン使いだとか人間だとかは関係なく」


 トレアンは少し傷を見るぞと言って、今しがたテレノスが巻き直したばかりの綿布を取るために、カレンをそうっと地面に下ろさせるように指図した。普段からこういうことをしているのだろう、その人が慣れた手つきで傷口を覆う布を解けば、銀白色のドラゴンが唸る。


「……これはひどい」


 顔をしかめると同時に彼の手から光が放たれ、薬が塗り込まれた右肩を覆う。かざしていた手を退ければ、大きな傷口は太く赤い線を残して完全に塞がっていた。


「オーガスタが出る幕でもなかったみたいだな」


 銀白色のドラゴンをちらりと見て、テレノスが呟く。開いたままだった傷の痛みが取れて、カレンはすう、と大きく息を吸った。


「もう楽になった」


 自然と口元が綻んで、嬉しくなってそのままトレアンを見る。どういう訳か彼は顔をそらした。


「ありがとう、これで動ける」


「礼なぞ、必要ない」


 ドラゴン使いの兄はそっけなく言って、立ち上がってオーガスタというらしい銀白色のドラゴンの方を向いた。その振舞いに顔の笑顔が落ちかけたカレンを見て、弟がにやりと笑いながら小声で言う。


「大丈夫さ、ありゃ兄さんの照れ隠しだから」


「――テレノス」


 と、振り返ったトレアンが左手を払ったかと思うと、テレノスの額に何かが嫌な音を立ててぶつかった。地面に転がったものを見れば、片手で握れるほどの石ころだ。


「な……何すんだよ兄さん!」


 弟が頭を押さえてそう叫べば、苦々しい返答が返ってくる。


「やかましい、阿呆。いらんことを喋るな! あと、カレン」


 向き直った顔も苦々しい表情なのだろうかと思いきや、兄の頬には僅かに朱が差していて、形の良い唇は真一文字に結ばれていた。この人、今自分の弟に向かって石を投げたよねとカレンは口に出したかったが、やめた。


「傷口は塞がっても、最低三日はあまり動かない方がいい。しばらくここから出ないことだ」


「えっ、三日も……?」


 ああそうだ、とテレノスが言った。


「あのさ兄さん、カレンの家さ、親が熱病かなんかで大変なんだって。エル=シエル・ハーブの薬、あったよな? 二人分ほど分けてやってくれないかな。急ぎの用らしいんだ」


 トレアンは黙って聴いていたが、やがてこう言った。


「……誰が、この娘の家まで運ぶのだ」


 大体、と彼は続けて言った。カレン、そなた、自分がどの方角から来たのかわかっていないだろう。その言葉にテレノスは口を閉ざし、黙りこくった。しかし、カレン自身はすっと顔を上げてよく通る澄んだ声で、言う。


「いいえ、多分大丈夫よ。この森の近くになんて、私達人間や術士や、私達と同じような寿命の短命エルフだって、純エルフだって住まないから。本当に近くにある村なんて、私の住んでいる所ぐらいよ。それに、今回のことといい、私は運がいいみたいだし」


「そう簡単に二度目があると思うのか?」


 トレアンは腕組みをして言った。


「私達術士をなめてもらっちゃ困るわ」


 カレンが口の端を少しだけつり上げて返すと、相手は溜め息をついた。


「……どうやら縛りつけておく必要がありそうだ。テレノス、その娘を固定し終えたらすぐに私の所に来い。患者に死なれるとこっちの格も下がるからな」


 そう言い残して、トレアンは二人を振り返らずにオーガスタと共に行ってしまった。テレノスがまた苦笑して、カレンは座ったまま不安になって彼を見上げる。

「大丈夫、あれも照れ隠しの一種だから。兄さん、素直じゃないんだよ……きっと、何とかしてくれるさ」


 さあ中に入ろう、と言われ、カレンも少しだけ笑ってその場で立ち上がった。踏みしめた土の感触は固くて、久し振りに歩いたような気がした。







「ここ最近、森の際の空からよく人間や短命エルフの姿をよく見るようになった。昔はどこまでも広い森だったのだが」


 壮年のドラゴン使いが物憂げにぼやいた。髪には白いものがちらほら混じっている。


「薬草を探してこのイリス……レファントの地に迷い込む者まで出てきた。トレアン、あの娘の容態はどうだ?」


 中年の一人がそう言って、トレアンの方を見た。小さな息子を抱えた他の男も、その方向を見る。


「傷口は塞いだので、後三日もすれば大丈夫でしょう。しかし、彼女の家の親が熱病らしく、本人は早く帰りたがっている」


 その場はしんと静まり返った。皆が渋い表情をしている。


「……この豊かな土地に住んでいることを悟られぬようにせねばならんな。近頃は西で大凶作だったとか聞いたが」


 また他の誰かが口を開く。トレアンは少し後悔し始めていた。あの娘がもし自分の家に帰れば、迷わず自分達のことを命の恩人として伝えるだろう。カレンは善意からそのことを喋るだろうが、それを聞いた別の人間がこれをどう思うだろうか。


 と、膝の上に息子を乗せた男がふっと顔を上げて提案した。


「そうだトレアン、君は転移と忘却の術を使えた筈だ。あのカレンという娘を安全に送り届けて、我らも安全に暮らすことが出来るには、それがいいんじゃないか?」


「それは妙案だな、アドルフ」


 壮年のドラゴン使いは感心した、というように頷きながらそれに賛同する。だが、このレファントの地が他の種族に知られるのはもう時間の問題だ、とトレアンは思った。しかし、これから三日もカレンをここに留めておくよりかはずっとましに違いない。彼自身もそうだな、と呟いて、すっと立ち上がった。


「その村を空から探して来ることにします。そうと決まれば、私は急ぐ性質なので、これで」


 息子の小さな手を操って振らせながら、アドルフが言った。


「気を付けて、トレアン=レフィエール……アミリアの血を受け継ぎし者よ」


「アドルフ=リーベル、一族で最も気高き者よ。そなたにも光の加護があらんことを」


 場所さえ知れば、転移の道を開くことが出来る。トレアンはその場を離れ、オーガスタの元へと向かった。







 目の前には、自分の村があった。だが、それは大きな空間の歪みの中にあって、横にはトレアンとテレノスが立っている。兄がカレンに向かって何かを差し出した。


「早く病気を治してやれ」

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