姉の心境


 私はその日、朝目覚めてから約束の時間が来るそのときまで、一人鏡の前でにらめっこをしていた。




「夏希ー、そろそろ時間だから降りてきなさい」

「はーい」


 家の一階から聞こえた父の声に、ついにそのときがやってきたと深呼吸する。

 母と別れた父が、再婚したいと私に切り出してきたのは1ヶ月ほど前だろうか。

 男手一つで育ててくれた父には幸せになってもらいたかったので、私はふたつ返事で頷いた。


 それに、本当は父にそう言われる前から、実は私は知っていたのだ。父が再婚したがっているということを。

 いつ話してくれるのかと、それはそれは待ちわびてしまうくらい前から。


 そうしてやってきたこの日。私は新しい家族ができるという以外にも、別の意味で緊張していた。


(やっと会える。"ゆうじ"くんに)


 今日から義弟おとうととなる彼、神谷侑二くんと初めて出会ったのは、実は1年も前のことになる。

 そのとき彼はまだ中学3年生で、私もまだ高校1年生。

 もともと私の通う高校の附属中学に通っていた侑二くんとは、朝の電車で一緒になることがたまにあった。

 けど私がまだ侑二くんを認識していなかったころは、もちろんそれすら知らなかったけれど。

 

 忘れもしない。初めて侑二くんを認識したのは、衝撃的な愛の告白現場でだった――。






「好きです。私と付き合ってくださいっ」


 梅の花も咲き始めた、浅春。

 でも寒さがまだ残る、そんな日に。

 短い言葉の中に、そう告白した女の子の必死さが窺えた。だって声が上ずっていたから。微笑ましいなぁと、通常なら思えていたかもしれない。

 

 しかし如何せん、場所が悪かった。ここをどこだとお思いですか女の子。の家の前ですよ。

 学校から帰ってきていざバイトに行かんと玄関ドアを開けた瞬間に聞こえてきた告白に、私は唖然と固まってしまった。

 幸いなことに、ドアをガチャ……と少し開けたところでその声に気づけたからよかったものの、これが全開なんてしていた日にはきっと私のほうが恥ずかしくていたたまれなかったに違いない。本当によかった。


「……ごめん。悪いけど俺、誰かと付き合うとか無理だから」


 駄目だと思いつつも、隙間から聞き耳を立てる私の耳に、冷たいとも取れるほどばっさりと女の子を振る男の子の声が聞こえた。

 この振り方はあれだね。絶対相手の子、モテる子だよ。女の子を振るの、慣れてる感じが出ちゃってるよね。

 

 気になった私はドアの隙間からそーっと外を覗いてみる。

 すると、ちょうどいい感じに、告白されている男の子の姿が見えた。彼は黒の学ランに身を包んでいて、その制服はこの近所の中学のものだから、見慣れている私にはすぐに彼が中学生なのだと判別できる。

 適当に巻かれた薄めの黒のマフラーから覗く鼻頭は残寒に赤らんでいたけど、でも女の子の告白を受けておいて、全くと言っていいほどその瞳や頬には照れや羞恥といったものは見受けられない。


(信じられないぞ中学生。告白されてその態度なの。今時の子はみんなあんな感じなのかなぁ)


 短く無造作なショートヘアは、今風にセットされているというよりは、ただ本当に無造作なだけなのだろう。寝癖なのか、後ろ髪がぴょこんと跳ねている。

 そこに中学生らしいあどけなさを感じるものの、その表情や佇まいはどこか大人びても見えた。

 

 なるほど、確かにモテそうな顔立ちだ。

 女のカンが正しければ、目立つタイプのモテ男ではなく、地味な隠れモテ男タイプだろう。最初はパッとしなかったけど、意外にあいつかっこよくない? みたいな。

 ちなみに、残念ながら女の子のほうは全く姿が見えていない。


「じ、じゃあ、噂になってる立花さんとは、なんでもないの……?」


 おずおずとそう尋ねる女の子に、私はおおーと変な感慨にふける。


(ここで噂の真相を確かめようとするとか、最近の中学生は勇気あるなぁ。凄い凄い)


 でもやっぱり、そうなってくるとなおさら人の家の前で告白するのはやめてほしかった。


(これ長くなる? 私バイトが……。いやでも、若者の勇気ある告白を遮るのも……)


 自分だってまだ高校生なんだけど、自分より年下を見るとそういう心境になる私は、きっと精神年齢がおばあちゃんなんだと思う。

 でも本当に、そろそろバイトの時間がやばくなってきた――そのときだ。

 ちらり、と一瞬だけ、彼と目が合った。ような気がした。


(やっば……気づかれた!?)


 別に悪いことはしてないのに、なぜか心の中は汗だくだ。


「……立花さんとは委員会が一緒なだけだから。つか、もういい? 一応ここ人んの前だから恥ずかしいんだけど」

「えっ、あ、うん。そうだよねっ。なんかごめんね、長々と。じゃあその……バイバイっ」


 女の子が走り去っていく足音が聞こえる。どうやらこれで告白タイムは終了したらしい。後に残るのは、しんと静かな空間だけだ。


(びっ……くりしたぁ〜。目が合ったと思ったのは、ウチを確認したからか。でもありがとう少年! おかげでバイトに行ける。そしてごめんね女の子。次の恋を応援するよ)


 他人の告白現場なんて初めてだった私は、女の子のどきどきが自分にも移ったんじゃないかと錯覚させられるほど、変な高揚感に囚われていた。

 もう一度、外の様子を窺うようにドアをそっと開ける。すると、そこにはもう、男の子の姿さえ消えていて。


(あらら。男の子ももういないや。いつのまにいなくなったんだろ)


 それでもやっぱり顔を合わせるのは気まずかったので、我知らずほっとしながら外の門扉を開ける。ガチャンと確実に閉めたのを確認すると、最寄り駅までの道を進もうとした。

 が、いざ歩き出そうとしたそのとき。道の端っこで学ランがうずくまっているのを見つけてしまう。


「ちょ、大丈夫!?」


 その学ランが先ほどの男の子だとはすぐに気づいたが、今は気まずさよりも心配のほうが上回った。

 だって、ウチの2メートルくらいある塀にもたれかかるようにして、彼はしゃがみこんでいたから。


「どうしたの、気分でも悪い?」


 もしかして、告白の返事が異様に冷たかったのは、彼自身体調が優れなかったせいだろうか。そんなことを頭の片隅で考える。

 誰しも不調のときは普段より気分が落ちている。そう思うと、まだ風が冷たいこの時期に、なんだかお疲れ様ですと彼に言いたくなった。

 ましてや彼の場合、壁に寄りかからないと今にも倒れてしまいそうな様子だったから。


(これ、思ったよりもやばい感じ? 顔色が明らかに悪い。救急車? それともウチで休ませる? あ、でも。背負え……ないな)


 たとえ年下でも、やはり男の子。155センチしかない私よりも背が高いだろうことは、彼がしゃがみこんでいても分かってしまった。

 さて、どうしよう。


「自分で歩ける? 肩なら貸すから」

「……平気。少し酔っただけなんで」

「酔った? ……ちょっと失礼するね」


 私は眉間にしわを寄せてかまうなオーラを出してくる男の子を無視して、問答無用でその額に自分の手を当てた。

 これはもちろん、彼の熱を測るため。ではなくて。

 それはカモフラージュで、そして私には別の意図があった。


(……あったけぇ手。赤ん坊並みの体温じゃね、この人。つーか、バイトはいいのかよ。ずっとそれで内心焦ってたくせに)

「!?」


 聞こえてきた彼のに、私はごくりと息を呑む。

 そう、私こと、坂本夏希は。自分が触れた人の心の聲が聞こえてしまうという、不思議な力を持っているのだ。

 

 私自身、この力に気づいたのは小学校低学年くらいだったと思う。

 その人が身につけているものに触れても何も聞こえてこないが――たとえば服だったり――しかし直に触れると、私の意思なんて関係なしに心の聲が聞こえてしまう。

 おかげで私はひと肌が恋しいという言葉を、おそらく世界で一番理解できない人間になってしまったことだろう。


 まあそれは置いておいて。


 触れた男の子から聞こえた聲に、私は少し驚いた。いや、少しどころではない。じわじわとその驚愕が胸の内を支配してくる。

 だって、どうして彼は、私がバイトに行きたくて焦っていたことを知っているのだろうか。


(え、なに。なんで? どういうこと?)

(何を驚いてんだ……? いや、それよりも、やばい。全校集会のせいで、気持ちわる……)


 いまだ触れているところから、彼の聲が伝わってくる。

 全校集会? それの気持ち悪い、と言われて思い浮かぶ原因なら。


(もしかして、人酔いでもしたのかな)

「え、」


 今度は彼のほうが驚いたように目を見開いた。


(凄ぇなこの人。酔ったって言っただけで『人酔いした』って分かるのか。乗り物酔いだってあるのに)


 そう言った彼に――正しくはそう思った彼に――私は本日最大の驚愕ぶりを発揮した。

 ひゅっと息を呑み、血の気が引いていくような感覚。背中にはよく分からない冷や汗が滑り落ちる。


(ま、て……ちょっと、待って……)


 成り立ち過ぎる会話が、私の脳に警報を鳴らす。

 会話のキャッチボールができなくて困るみたいなことはよく聞くが、その逆は聞いたことがない。

 だって私は、一度も『人酔い』なんて言葉を口にした覚えはないのだから。


(おち、落ち着け……。いやでも待って。待って、ほんとにまっ――――)

(あーそろそろ回復してきたか? ああうん、立てそうだな。ったく、ただでさえ全校集会で誰のか分かんねぇ聲聞かされて辟易してたっつのに、最後のあいつ、人に告白しておきながら内心では『神谷くんなら友達にも自慢できるし、チョロそう』とか、失礼極まりないんだけど。さすがの俺も心折れるぞ)


 また聞こえてきた彼の胸中に、私はついに確信した。

 思わず彼の額に当てていた手を離し、ずり、と一歩後ずさる。

 それからの行動は早かった。


「ちょっと……一回タンマで!」

「は?」


 すでに駆け出しながら吐いたセリフに、彼の虚をつかれたような声が聞こえる。

 けど私は振り返らない。その勢いのまま乱暴に門扉を開けてドアを開けてリビングのドアまで壊しそうな勢いで開けると。


「う、う、嘘でしょおぉぉぉ!?」


 ソファにあったクッションめがけて、ありったけの声量で叫んでやった。

 

 

 私、坂本夏希16歳。

 生まれて初めて、自分と同じ、いやもしかしたらそれ以上の力を持つ人と、どうやら出会ってしまったようです。


(なんか複雑!)





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