第六章 (5) 聖ウルスラ
翌日三善が溜まりに溜まった書類整理をしていると、執務室になにやら難しい顔をしたリーナがやってきた。
三善はちらりとその姿を見やり、すぐに書面へ目を落とす。静かに判を捺しながら、
「どうした、リーナ」
と声をかけてみた。
彼女は「ちょっとね」と苦笑しつつ、三善の横まで来て背もたれのない椅子にそっと腰掛けた。彼女がこの場所に座るとき、たいていは三善に対して何か言いたいことがあるのである。それをよく知っている三善は、きりのいいところまで判を捺したところで手を止めた。記入済みの書類を専用のトレーに放り込むとリーナへ目を向ける。
「ああ、サボりか。受けて立とう。お茶でも飲んでいくか? それともホットケーキでも焼く? お前、あれ好きだろ」
「違う。……でも、三善君のホットケーキは食べたいかな」
リーナは照れくさそうに笑った。正直で結構、と三善が席を立とうとしたとき、ぐんと肩帯が引かれた感触があった。――リーナが肩帯を掴んでいる。
うん? と首を傾げた三善に、彼女はおずおずと声をかけた。
「あのね、三善君。今朝言っていたことなんだけど」
「ああ、それのことか」
今朝の礼拝は三善が受け持ったのだが、その終盤、彼は説教のついでと言わんばかりに「午後に各部門長を集めて話をしたい」と切り出したのである。少し大切な話をしたいということだったのだが、三善が何やら思案顔のままで言うものだから、支部の一同が「何か悪い知らせを聞かされるのだろうか」とざわついたのは記憶にも新しい。
ただでさえ、いま本部からホセが出張してきているのだ。この状況を見て何もないと思うほうが難しい。
彼女の問いを耳にし、三善はようやく理解した。つまり、リーナはその件について探りを入れに来たのだろう。
例えば、三善が支部を離れることになる、とか。例えば、支部そのものが廃止になる、とか。彼女が考えそうなことはおおかた想像がつくが、いずれも三善が話したい内容とは合致しない。
ふむ、と三善は小さく呟く。
「大丈夫、それほど悪い話じゃないよ」
「本当?」
「ああ、でも……そうだな。いい話と悪い話がある、くらいに考えてもらえるとありがたいかな。おれとしてはそれほど悪い話だとは思っていないけど、おれ個人の話でなく支部に関わる話でもあるからね。ちょっとみんなの話を聞きたいと思っただけ」
ところで、と三善はリーナに尋ねる。「リーナ、『釈義』の検査を受けた時に何か紙をもらわなかったか。多分、こう……ちょっといい紙にラテン語がみっちり書き連ねてあるやつ」
え、とリーナが惚けた声を上げた。今の話からは想像もできないことを聞かれたからだ。
「あるにはあるけど……それがどうしたの」
「嫌でなければ見せて」
なんだか腑に落ちない、という顔をしつつも、リーナは一旦自室に戻る。数分後、彼女は一通の封筒を持って戻ってきた。
「これのこと?」
「ああ、それだ」
リーナからそれを受け取った三善は、封筒の中から書面を取り出した。確かにびっちりと細かい文字が書かれている。彼はそのまま書面を上から下までじっくりと眺め、それからこのように尋ねた。
「リーナって、ラテン語は読めないんだよな」
「うん、読めない」
「つまりここに書かれていることは読んでいない、と」
なるほどねぇ、と三善は微かに唸った。彼が何を思い悩んでいるのかさっぱり分からず、思わずきょとんとしてしまうリーナである。そのままじっと口を閉ざした三善だが、数拍置いて書面を畳み始めた。丁寧に封筒に入れ直すと、そのまま封筒をリーナへ返却する。
「ありがとう、大体分かった。ちなみにリーナ、お前、守護聖女になってみる気はある?」
沈黙。
「――はっ?」
なにかものすごく変なことを言われた気がする。自分の耳がおかしくなったのかとも思ったが、三善の目は真剣そのものだ。その並々ならぬ気迫に気圧されつつ、リーナはその真意を問う。
「なにそれ、どういうこと?」
「ああ、いや……。悪い、驚かせるつもりはなかったんだけど」
三善はばつが悪そうに言った。
なんでも、守護聖女がひとり、体力的な都合から引退を申し出たのだそうだ。欠員補充のために該当しそうなプロフェットを探したところ、リーナに白羽の矢が立ったという訳だ。
リーナは現在箱館支部所属であるため、上長にあたる三善に彼女の昇格の打診があったのだが、肝心の三善がたまたま入院中だったために確認が遅れたのである。今朝方メーラーを立ち上げた際にその内容に関する問い合わせが入っていることに気が付き、三善は思わず悲鳴を上げてしまった。慌てて本部に確認を入れたところ、その話はまだ有効だと言うので、一度本人と面談を行うということで話をつけた。
――そして現在に至る。
「という訳で、今週のどこかで時間をもらえないか。ちなみに、欠員が出たのは聖ウルスラの枠だ。どうよ」
聖ウルスラはケルンの守護聖人だ。多くの乙女たちを率いたその能力から、女子教育の守護聖人となったと伝えられている。彼女の存在は創作である可能性が高いと言われているが、大聖教における守護聖人の枠からは今のところ外さない方針となっていた。
先ほど三善が見ていた書面は『釈義』の検査結果で、釈義能力者がプロフェットとして自身を登録する際に必須となる書類の一つだ。もしも検査を受けた段階で守護聖人にあたる能力があると判定された場合、現在就任している守護聖人の補欠要員として書面に記載されることとなる。三善が書面を見て唸ったのは、リーナの検査結果に「聖ウルスラの次席として扱う」旨が明記されていたからだった。
「どうよ、って言われても……。今初めて聞いたし、すぐには決められないよ」
「うん、お前の反応を見てなんとなくそう思った。お前の
「そりゃあもう。全く」
だろうね、と三善は肩を落とした。
「雨ちゃんを見れば分かると思うけど、守護聖人の位はあくまで称号だから、それほど難しいことはしないよ。強いて言うなら、未来のプロフェットを弟子として従えることができるようになるくらいかな……。要するに後輩を育てる権限が与えられると思ってもらえれば。確かリーナはプロフェット養成校出身でなく、守護聖人の付き人をしていたんだよね? ちょうどそんな感じだ」
そこまで言ったところで、三善はリーナの様子を伺うことにした。
普段強気のリーナが珍しくたじろいでいる。三善が至極真面目な口調で言うものだから、余計に戸惑っているようだ。
今の彼女にこれ以上情報を詰め込むのは酷だろう。
三善は「まあ、今すぐ決めろなんて言わないから。ちょっと考えてみてよ」と、この話について一旦ここで区切りをつけることとした。
リーナは短く頷き、それからもう一度三善の肩帯を引く。
「どうした」
「……うん」
三善君、とリーナが言った。「ちゃんと考えるから、ホットケーキ焼いてくれる? 焼いてくれたら、割と早く返事できる気がするの」
その言い方があまりに面白かったので、三善は思わず噴き出してしまった。
「それくらいのお願いであれば、いくらでも焼きますとも」
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