第四章 (5) 南イタリアにて

 南イタリアとはいえ、寒いものは寒い。


 彼・帯刀たてわき壬生みぶは息を吐き出しながら、秋用のコートを首元にぎゅっと手繰り寄せる。この時期は日本と似た気候だとは聞いていたものの、日が落ちると――とはいえ、まだぎりぎりサマータイムが適用される時期ではあるのだが――相当寒い。日本にある自宅はこの土地よりもかなり寒い場所にあるけれど、あそこにはしばらく帰っていないから、己の身体はすっかり寒さの耐性を失っているようだった。


 幸い後継ぎには恵まれた。彼は今、どうやら友人である『次期教皇』の元に身を寄せているようなので、それほど心配していない。少なくとも、ひとり――否。ふたり、か――ならば危険な真似はしないだろうし、なにより黙っていてもその行動がこちらに逐一伝わってくる。


 息子の心配をしない親がいるものか。見よ、父はこれほどまでに息子を愛しているぞ。胸を張ってそんなことを言ってしまえば、きっとまた冷めた目でこちらを見つめてくるのだろうから言わないが。


 家を出た娘二人も、それぞれアメリカとスウェーデンから動いている気配はない。父親がどこにいるのか探している素振りは辛うじて見せているけれど、今のところ発見された様子もない。まぁ、気付かれたと思った時点で逃げ出すけれど。


 うちの子供たちは、揃いも揃って優秀だから。


 壬生は唇の端を吊り上げながら、とある建物に入って行った。

 この街ならどこにでもあるような普通の民家である。現在の彼はこの部屋を借りている。勿論、適当に付けた偽名を使っているので、誰もこの男が世界を揺るがす天下の情報屋の元・当主だとは気がつかないだろう。


「たっだいまー、っと」


 唇からぽろりとこぼれ落ちた日本語。案の定、帰ってきたばかりの部屋はしんと静まり返っている。簡素なテーブルの上には今朝の食べかけがそのまま残っていた。


 コートを椅子の背もたれにかけると、その足で二階へと上がってゆく。二階に上がると、微かに軋む扉がひとつ。それを開けると首だけを中に突っ込み、その部屋の「主」の生存を確認した。


「ただいま帰りました、げーか」


 文字通りの、生存確認である。


 静寂に満ちた部屋の中にはひとつ、ベッドがある。それに横たわるのは初老の男性だ。

 肌は本当に生きているのか疑問に思うほどに白い。微かに胸のあたりが上下しており、それでようやく生きていることを確認できる程度だ。


 彼は一日のうちに数時間程度しか目を覚まさない。それを知っている壬生なので、最低限の生存確認さえすればそれ以上は干渉しようと思わない。だがこの日は違った。なにかを思い立ったように別の部屋に向かったかと思えば、新しい衣服とタオルを持って戻ってきた。


 なんとなく、彼が目を覚ますような気がしたからだ。

 部屋に戻ると、彼の予想通り、ベッドの中の男性はぼんやりと瞳を開けていた。暗い色をした瞳は、天井を見つめたままぴたりと静止している。


「おや、起きましたか。着替えは置いておきますから、どーぞのんびり着替えてください。食べられそうでしたら、階下へ」


 壬生の能天気な声色に、彼はピクリと瞼を震わせる。


「……あの子は?」


 そしておもむろに口を開く。掠れた声は、ざらりと背筋を撫ぜ上げるようだ。


「今も変わらず、のんびりと司教をやっているようです。『契約の箱』もきちんと動作しているらしい。いやぁ、ハラハラするねぇ。一時はどうなることかと思った」


 手近の椅子を引っ張り出し、壬生は彼の横に腰かける。そして、いつものざっくばらんな口調で話しかけるのだった。壬生の最後の一言に反応し、ベッドの彼はさらに追及する。


「“七つの大罪DeadlySins”が悪さでもしたのか?」

「いいや、ただの昔話です」


 壬生は肩を竦める。


「せっかく『契約の箱』の在りかを隠匿して岩の子に引き継がせたというのに。その人物が死亡するだなんて、あなたもさぞご心労が絶えなかったでしょうに」


 男は渇いた笑いを浮かべ、「そうだな」と返答した。


「ところで、猊下」


 壬生が問いかけたのに反応し、男は右手を持ち上げ、否定の意を込めて横に振る。


「今は猊下じゃない」

「そうでした。……ヨハネス、あなたはいつまで逃亡生活を続ける気ですか?」


 その問いに、彼――ヨハネスは堅く口を閉ざしてしまった。つまりは、まだ隠れているべきだと彼は考えているらしかった。確かに、と壬生も肩を落とす。


「いや、ね。『聖戦』からもう何十年と経っていて、あなたもこれ以上ないほどに上手に隠れている。まぁ、連れ出したのは私だし? あなたがそのように望むなら、これからも隠蔽できる自信はある」

 だが、と壬生の口調はこれまでにないほど真剣さが増した。「あなたの御子息――姫良三善が今も教皇の地位を目指しているということは、『終末の日』は絶対に避けられないものになったということ。あの子供は前回『契約の箱』を開匣させ、そして今回も同じ轍を踏もうとしている。Doubting Thomasを利用して岩の子を遣わせたと言っても、所詮どちらも一度地に堕ちた者同士。抑止にはならないでしょう」


「……なぁ、ミブ」

 のろのろとヨハネスが口を開いた。「大聖教も、“七つの大罪DeadlySins”も、元々は同じものだ。私のこの発言、何回目だろう?」

「三回目です。でも私はそれに対し『知るか』と三回答えたはずだ」

「じゃあ、あとは鶏を鳴かせてくれよ。それで君は真実と認めてくれるだろ」

 ふ、とヨハネスは話し疲れたらしく、ゆっくりと息を吐き出した。「少し眠る。今日中にはもう一度起きるから」

「はいはい。今度こそ何か食べてくださいね。げーか」


 善処する、という返答ののち、彼は再び目を閉じてしまった。微かに胸のあたりが上下している。

 壬生は呆れたように立ち上がり、眠り始めた彼の部屋を後にした。

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