第二章 (7) それはまるで呪いのように

 帝都が言うとおり、どうも疲れてはいたらしい。

 熱で火照る身体を数日ぶりの布団に沈めると、ふわふわとした眠気が三善に襲いかかる。


 しかし、眠りたくなかった。

 眠れば、また夢に『あのひと』が出てくるからだ。


 枕の端をぎゅっと掴み、ぐちゃぐちゃとしたまま整理の付かない思考を何とか断ち切ろうとした。


 昨夜もこんな感じであまり眠れておらず、明け方近くなってようやく寝ついたところだった。先程リーナが起こしに来たときは完全に爆睡していただけだったのだが、『あのひと』の夢を見ていたので寝起き一発目に思わずその名を呟いてしまったのである。


 掴んだ枕により一層深いしわが寄せられる。


 昨日会ったばかりのヨハン・シャルベルという神父――否、神父かどうかも甚だ疑問だが、まさか自分があんなに強い拒絶を示すとは思ってもみなかった。それに自分自身が驚いている。


 ――その顔で、そんなこと言うな。


 自分が言い放った言葉に、罪悪感と迷い、それから羞恥に似た感情がこみあげてくる。しかし、あのときは確かにそう思ったのだ。人間頭が混乱していると訳のわからないことを口走るものだ。


「その顔で、か……」


 『あのひと』の影響がこんなにも根深いものだとは。我ながら呆れてしまう。まるでのろいのようだとも思った。


 三善は枕元に置いていた銀のイヤー・カフをつまみ上げた。窓から差し込む光を反射して、きらりと瞬いている。しかしそれは鋭い光などではなく、どこか柔らかいものでもあった。


 もしもあのひとが生きていたとしたら。

 あり得ないことだと分かってはいる。だけど。

 もしも本当に生きていたら。


 その時、戸をノックする音が聞こえた。三善はイヤー・カフを再び枕元に置き、「どうぞ」と短く返事した。


 顔を覗かせたのはロンだった。


「どうよ、調子は。あ、起きなくていい。そのままそのまま」

「ああ、悪い。――まだ頭は重いけど、だいぶいいよ」


 その辺から椅子を引っ張り出し、ロンはベッドの横に腰かけた。そして、じっと三善の赤の瞳を射るように見つめる。


「なによ」

「……みよさま。何かあったでしょ」


 肉を抉り取るような、直球の質問だった。三善は瞠目しつつ、はぐらかすようにして目を背ける。おどけるような口調で口の端を吊り上げていたが、明後日の方向を見つめる目は全く笑っていなかった。


「別に、なにもないけど」

「何もない人が朝・昼と食事を抜きますか? インフルエンザをもらって来た時に野菜カレー大盛三杯食ったのはどこの誰だったかな」


 痛いところを突かれ、うぐ、と言葉を詰まらせた。


「……ごめんなさい、おれが悪かったです」

「食べられないってことは、余程なんだろうとは思うけどさ。何でもひとりで抱えるのはよくないよ。そこまで君が図太い人間じゃないってことを、俺は知ってる」


 うん、うん……と三善は何度か反芻するように頷き、ようやく決心した。このことを一番初めに相談したのが彼だということに対し少し微妙な気持ちになったものの、支部にいる人物の中では彼が適任だということもよく知っている。


「――あの、さあ。ちょっと変なこと聞くけど、いい?」

「いいよ」

「もしも、ケファが生きていたとしたら。お前ならどうする?」


 ロンの思考が一瞬停止した。三善はそれに気が付き、内心「やっぱりね」と嘆息を洩らす。

 今このひとは何を言っただろうかと、何度もその言葉を反芻する。字面は理解した、だがしかし、その真意がよく分からない。


 彼が言うケファとは、あの事故で殉教した「ケファ・ストルメント」のことだろうか。しかし彼は死んだ。死体は見つかっていないけれど、確かに葬儀も済ませたし母国に墓標も立ててきた。

 まさかこのひとは、それすらも納得していなかったのだろうか。


 ――ロンはおおよそこんなことを考えているのだろう。そう三善が考えていると、彼は予想通りの反応をしてみせた。


「みよさま。それ、どういうことだ」

「たとえばの話だよ。本気にしないでほしい。『あのひと』は確かに死んだ。それはおれだって理解できている。だけど、だけどさ。もしも死んだとみんなが思っているけれど、実は何かの手違いで、別の人間として生きていたら。そしてそんな人間が実際に今、近くにいたとしたら。おれは一体どうするべきだろう」


 ロンは言葉を失った。

 ここまで細かいたとえ話が出てくるということは、おそらく彼の体調不良の原因は『それ』だ。


 昨日、何かの拍子に『あのひと』に似た人物と出会い、三善はそれをではないかと錯乱しているだけのことだ。たった一日の間に予想外の出来事が起こり過ぎた。きっとそれが錯乱の大きな原因となっている。しかし、そんなことを言って彼をがっかりさせたくない。下手したらとんでもない事故が起こる可能性もある。


 ロンは慎重に言葉を選び、結論を出した。


「俺は直接彼と交流があった訳じゃないから、そういう意味だとどうも思わないな。そうだなぁ、とりあえず事情を聞き出すだろうね」

「事情?」

「今までどうしていたのか、とか。今後どうするつもりか、とか。でもそれは、俺が異端審問官いたんしんもんかんとしての役目を果たすことを第一優先にしているからだ。みよさまには当てはまらない論理展開だろう。そうだよね?」


 三善は促されるように、ゆっくりと頷いた。


「多分、みよさまが言いたいのはこういうことだ。本心としてはおかえりなさいと言ってやりたい。言って、自分が司教になったことを伝えたい。しかし、その仮の人物がケファ・ストルメントであるかは分からない。もしも彼の身に何か複雑なことが起こっていて、別の誰かとして平和に生きていたのだとしたらなおさら、――彼の今の生活を尊重すべきだと。あなたはそう考えるから行動にも起こせない」


 三善は頷きながらも、まだ何か抱え込んだ表情でじっとロンの緑の目を見つめる。


 しばらくの間の後、ためらいがちに「それだけじゃないんだ」と三善が言った。ようやく自分から何かを話したいと思ったらしい。その目は熱のせいか潤んで見える。感情がそれに比例して、過剰に高ぶっているのもよく分かる。


「上手く言えないんだけど」

「うん。ゆっくりでいいよ」

「本当にみんなが必要としているのは『あのひと』で、おれじゃない。おれは今でもそう思っている。だから、あの日以来おれは努めて『あのひと』になろうとした。『あのひと』になれるのはおれしかいないから。そうなるために膨大な時間を費やした。ようやく『あのひと』の代わりになれそうなところまで来た。代わりに、なれそうなんだ」


 本当に訳の分からない言い分だが、これがおそらく今の彼の限界だろう。むしろそこまで言葉に置き換えることができたことを褒めてやりたい。


 どう代弁しようか、とロンは悩む。


「つまり、アレか。『あのひと』になろうとして今まで取り繕っていたのに、いきなり本人が帰ってきた。そうしたら自分を帰結する場所が見いだせなくなって苦しい。どうすればいいのか分からなくて、路頭に迷ってしまったと。そういうこと?」

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