八月七日 4 (1) 生物らしく在るように

「おまたせ! ヨハネス君」


 勢いよく開いた扉から登場したのは、白衣を身に纏った女性だった。

 髪は短い赤毛で、左側を黒いヘアピンで留めている。瞳は褐色がかった灰色。かなり慌てていたらしく、両手に抱えた紙束はぐちゃぐちゃのままだ。机上に適当に積んでいたものをそのまま持ってきた、といった風にも見えた。


 彼女を見るなり、ジョンは左手を挙げ軽く挨拶し、ホセはその顔に笑みを湛えながらゆっくりと会釈した。三善もそれを見て、慌てて頭を下げる。


 彼女は困ったように肩を竦め、深々と首を垂れた三善に目をやる。


「ああ、頭は下げなくていいよ。ボクはそんなに偉い人じゃないしね」


 それで、ええと、と彼女は言葉を濁しつつ、とりあえず近場にいたホセに尋ねる。


「彼がミヨシ君?」


 ええ、とホセが返した。そして、肩を叩き三善に顔を上げるよう優しい声色で言った。


「ヒメ君。彼女はジェイ・ティアシェです。エクレシア科学研の所長で、A-Pプロジェクトの責任者でもあります。しばらくはあなたの上司ということになりますね」


 ジョン付きの司教ということは、しばらくは彼と同じ科学研所属になる。したがって、三善の指揮命令者は彼女、という訳だ。


 三善は赤い瞳を彼女へと向け、「あ」と声を漏らした。

 彼女には言わなくてはならないことがあったのだ。それは礼儀としてではなく、そうしたいと思っての行動だ。


「『あのひと』の葬儀のときは、大変お世話になりました」


 そして再び、先程よりも深く頭を下げた。ジェイはへらっと笑い、頭を上げるように促す。


「そうだったね、ボクたちは初対面じゃなかった。改めてよろしく。それと、司教試験合格おめでとう。いい司教になれるといいね」


 そうか、あのときの子が……とジェイはゆっくりと頷き、三善の肩を叩いた。

 今でも彼女の思考のどこかには、葬儀の日に影でひっそり泣いていた三善がいるらしい。そのときに比べればはるかに立派になっただろうと三善本人は思うのだが、彼女が三善のことを今どのように考えているのかは、その灰の瞳からは読み取ることができなかった。


「さて、と。ヨハネス君、彼にはどこまで教えたの?」

「人間が歩く仕組みまでだ。それと、研修内容の冒頭をちょっとだけ」


 ジョンが素っ気ない口調で答える。彼の目は手元のディスプレイに向けられたままだ。今も何やらキーボードで何かを打ちこんでいるが、三善がいる場所からは何をやっているのかはさっぱり分からない。


「分かった。それだけ伝えれば充分でしょう」


 早速だけど、とジェイは抱えてきた紙束の中から一枚の書類を取り出し、三善にぽいっと渡した。否、放ったのが正解なので、渡したと表現するには些か乱暴である。ぴらぴらと宙を舞う紙切れを三善は急いで拾い、その中身を確認した。


 ――そこには、何やら不穏な文字が書かれていた。


「手術の、同意書……?」

「そう。それにサインしてくれるかな。それがないとお話にならないんだ」

「ちょっと待った。なんで手術? 今のおれ……いや、私には手術する要素なんかどこにも」


 そこまで言いかけて、三善ははっとして口をつぐんだ。ホセに肩を叩かれ、それ以上言ってはならないと首を横に振られたからである。


 理由は分かる。「手術を受ける必要がない」ことを話すのは、三善の場合内に秘める『契約の箱』の存在を明確化することと同義なのだ。それだけは、例え相手が上司になる彼女であっても言ってはならない。それをホセに無言で諭されたのだ。


「ジェイ。彼に『A-P』の基礎理論は教えていません。そのあたりから話さないと、手術の必要性を理解してくれることはまずないでしょう」

「それもそうか」

 でもそれはアンディの専門分野だから、とジェイは肩を竦める。「じゃあそれ以外の話をしよう。君の本来のお仕事の話だ」


 にこりと彼女が笑った刹那、三善は場の雰囲気が急激に変化したことに気が付いた。否、変化なんて生ぬるい言い方ではこれは説明できない。まるで、全てを『上書き』してしまったかのような。初めからこの雰囲気が部屋中に充満していたかのような。そんな不思議な感覚に身を委ねながらも、三善は臆することなく彼女の瞳をその赤で射抜いた。根源は彼女なのだ。ならば彼女同様、毅然とした態度で向かうべきだ。


 その堂々とした素振りに、ジェイは満足したらしい。


「やっぱり、いい素質を持っている。件のペテロに劣らないくらいだ。ああ勿論、ホセくんも良いものを持っているけれど」


 そうですか、とホセは複雑そうな顔で頷いた。


「君にはね、ココロを作ってほしいんだ」


 彼女の指先は、三善の胸を突いた。とん、と軽いタッチで。まるでピアノの鍵盤を弾くかのような軽やかさで。

 目を瞠ったままの三善に微笑みかけるジェイは、今もまだその緊張を解いてはくれない。


「ボクたちは正しいものを作ってほしい訳じゃない。君の作るココロが、善でも悪でも構わない。ただひとつの条件は『それが生物らしく在るように』、だ。それさえ満たしてくれれば、少々屈折したものを作ってくれても構わない。なにか質問は?」

「意味が分かりません」

「意味? 文章的な意味?」

「いや、内在的な意味です。深層significanceとでも言うべきでしょうか。私がそれを作り……、一般的に言うところの悪を作ってもいい、と?」

「そういうこと」

「どうして? ここは善を作るべきだとか、そういうことを言うのが普通ではないですか?」


 だから、とジェイは言う。


「だから『それが生物らしく在るように』、の本質だ」


 三善はまだ理解できずに眉間に皺を寄せていた。どうして彼女が不可解なことを言うのか、その理解ができない。一瞬からかわれたかとも思った。だが、彼女はきっとそういったことをする人間ではない。そうなると、彼女の言ったことは全て『真』、だ。理解できない自分の方が悪いのだ。


 それっきり口を閉ざしてしまった三善をよそに、大人たちは既に別の相談を始めていた。時折聞こえる「検邪聖省けんじゃせいしょうが」「十戒が」というなにやら不穏な単語が飛び交っている。そんな中ただひとり無表情でいるのがマリアである。彼女だけは考え込む三善の横でじっとしていた。


「――教皇」

「なに」


 もう否定する気も起きなかったので、三善はそっけない返事をマリアに返した。


「わたし、はね」


 マリアが珍しく、自主的に話している。気がついて、三善はそっとマリアへと視線を移した。自分のものととてもよく似ている、ルビーの瞳が僅かに揺れた。


「わるいこ、だから」


 その一言が、鋭利な刃物となり三善の心を抉り取る。


「だから、主人マスターと一緒にいられるの」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る