第二章 (6) ターニングポイント

***


 三善は早足で廊下を突き進む。その並々ならぬ様子に、すれ違う他の聖職者は何事かと彼の背中を振り返るほどだ。否、決して彼の気迫だけが原因ではない。彼らはその小さな体から発せられる強大な聖気に驚いていた。


 通常、助祭があれほどまでの聖気を纏うなどとは考えられない。だからこそ三善が一体何者なのかと好奇の目線を向けられるに至ったのだが、本人はそんなことはおかまいなしの様子である。


 彼は大きな白い扉の前に立ち、躊躇いなく力強くそれを押した。無駄に大きな扉はずっしりと重く、少しでも気を抜くと弾き飛ばされてしまいそうだ。しかし、彼はそれを実に慣れた手つきで押し開ける。


「いるのだろう? ジェームズ!」


 三善が声を上げた。

 この部屋は元々大司教が執務用に使用していた部屋であったが、今は枢機卿であるジェームズが使用している。


 部屋の奥までゆっくりと見渡すと、最奥に配置された一番大きな机の前に白い聖職衣姿の男が立っていた。白髪交じりの男は、ゆっくりと振り返りこちらを見つめる。逆光で表情はよく分からなかった。


 扉が派手な音を立てて閉まると、一気に室内は暗くなった。


「お久しぶりです、大司教。あなたは私の前になかなか姿を現してくれないから」


 彼――ジェームズはゆったりとした口調で尋ねる。まるで愛しい我が子に向ける言葉のように、その声色は優しい。しかし、三善はすぐに鋭い言葉を投げかけた。


「御託はいい。それより、あれはなんだ」

「あれ、とは?」

「帯刀のことだ」


 聖職衣を翻し、三善はジェームズの眼前に躍り出る。鋭い瞳で射るように見詰めたのち、彼の胸ぐらに勢いよくつかみかかった。


「お前、なぜ美袋に楔を与えた」


 ジェームズは怒りに震える三善をじっと見下ろしていた。あまりに無表情すぎて、彼が何を考えているのかが全く読み取ることができない。三善は臆することなく彼に食らいついた。


「帯刀に位階を与えることは許可したが、美袋を人質にしろなどと私は一言も言っていない」


 そう、先程二人に対面したときに気づいてしまったのだ。


 美袋慶馬の心臓に、あろうことか『楔』が打たれていた。大司教は、三善ただ一人の例外を除いてはこれを一度も使ったことがない。使う必要があるとも思っていなかった。


 人の信仰は、個々の自由にしよう――生前、そう言ったのを今でもよく覚えている。


 なのになぜ、今このようなことが起こっているのか。帯刀が位階を得たのは彼が十五歳の頃だが、その時の美袋には何もなかったはずだ。


 三善の体を介して『楔』を打つのは負担が大きすぎることから、大司教はやむを得ずジェームズに『楔』の秘蹟を使う権能を与えたが、まさかこんな風に使われるとは思ってもみなかった。


「お前は一体なにを考えているんだ。やっていいことと悪いことが――」


 そこまで言いかけたところで、ジェームズが三善の唇に人差し指を当て、彼の言葉を制止した。


 困惑しながら見上げると、急にその腕を掴まれた。視界がぐるんと反転し、背に何かがぶち当たる。三善の瞳はなぜか天井を向いていた。彼がジェームズによって押し倒されたと気づくのには、そう時間はかからなかった。強かに背を打ったらしく、吐き気が襲う。


「猊下、少しお黙りなさいな」


 ジェームズの青い瞳に獰猛な炎が宿る。まるで獲物を仕留めたハイエナのようだ。


 しかし、三善は彼から一切視線を逸らさなかった。ルビーを連想させる深紅の瞳は彼をはっきりと映し、その輪郭の全てを受け入れていた。


 ぐ、と握る掌に力が加わる。


「あなたがこの少年に行っている仕打ちの方が、よっぽど残酷に思います」

「『喪神』か、ジェームズ」

「安心してください、猊下。今後のエクレシアは私がすべて引き受ける。あなたの御子息よりも、ずっとずっと優秀な大司教になりましょう」


 でもその前に、と彼はにっこりと笑った。それがなんとも言えず不気味で、思わず三善の顔色が青くなる。血の気が引くとはまさにこのことであった。


「あれをどこにやったのですか?」


 襟ぐりにその手が触れる。


 ジェームズが言う『あれ』の真意を、三善にはすぐに理解した。それと同時に、彼が進めようとするエクレシアの未来もまた容易く読み取れた。


「あれはお前には過ぎた代物だ」

「あなたが教えてさえくれれば、少なくとも、神の寵愛を受けた娘は自由になれますよ」

「やはりか……」


 体格差がここで大きな障害となってしまった。元々三善の“身体”は強くない上、まだまだ伸び盛りの発展途上。大の大人に勝てるはずがないのである。


 しまった、と三善はここで初めて焦りを覚えた。足で乱暴に蹴りを入れるものの、ほんの少し顔をしかめただけであまり効果はなかった。


「この体も、少しは痛めつけて黙らせた方がいいでしょうか。この子供には騎士が二人もいてやりにくいことこの上ないですが」


 聖職衣のボタンが上からひとつずつゆっくりと外されていく。

 乾いた唾液が喉にはり付いて、痛い。


「っ、お前なんかに殺されてたまるか!」


 刹那、“釈義”が暴発した。


 聖火が激しい音を立てジェームズに襲い掛かる。その炎の勢いは通常のものの比ではない。勢いが強すぎて、酸素が足りずに思わず眩暈がした。


 それにひるんだ隙に三善は起き上がり、体勢を立て直す。

 スプリンクラーの作動する大きな音とともに、水しぶきが二人を襲う。そのおかげで視力が完全に奪われ、互いに姿を見失っていた。手探りで扉を探り当てると、三善は渾身の力をふりしぼり、その重い扉を開け放った。水が廊下にまで流れ出し、しかし三善は気にすることなく、転がるように部屋を飛び出した。


 派手に水しぶきが上がる。


「三善!」


 倒れこむ前に、誰かがその身体を受け止めた。うつろな視線でそれが誰なのか確認しようと瞳を開けると、どうやらそれはケファらしかった。肩で息を吐き出し、小さな掌でゆっくりと彼の腕をつかむ。


「ペテロ、よく聞け」


 ケファは一度目を伏せ、落ち着け、と呟いた。


「まずは逃げるぞ」


 三善の細い体を抱き上げ、ケファは踵を返した。そろそろ騒ぎを聞きつけて他の聖職者がやってくる。彼らからしてみれば、今の状況は大司教補佐に謀反を起こした助祭にしか見えないだろう。それは非常にまずいのだ。


 しかし、三善はまだ何か何かを言おうとし、喘鳴交じりに言葉を吐き捨てる。


「あいつに、あいつには、悟られるな」


 何を、とケファが聞き返そうとした時、『彼』の気配がぷっつりと途絶えた。それと同時に、三善の体が驚くほど熱くなる。


 これはまずいのではないか。ケファは三善の額に手をやり、やはり発熱しているのだと気づく。


 のろのろと三善が瞼をこじ開け、さらに何かを言おうとした。


「いい、何も言うな」


 これ以上は何も言う必要はない。これ以上何かを言われれば、自分がジェームズを殴りそうだった。ケファは怒鳴りたい衝動を抑えながら、彼を医務室まで運んでいった。

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