嫉妬の蒼き弾丸
序章 夢
生ぬるい風が、べったりと肌にまとわりついていた。
その感触はするりと滑り落ちていくようなものなどではなく、全身を見えない何かで包み込んだかのような、そう、例えばオブラートのような、溶けそうで溶けないもどかしいものだった。そのオブラートを自ら破ることはなく、彼はただそこに立っていた。
しんとした一瞬の凪。彼はふと目を細め、長く息を吐き出した。息が新たな風の流れを生み出し、濁る空気を揺らす。首を左右に振り身体に付着しようとする空気の濁りの正体を払った後、ぼんやりと彼は考えた。
――ひとつの街の終焉。己が呼び寄せた終末の日。後悔はしていないが、後味が悪いのは事実である。
一歩足を進めると、きらきらと乾いた音がする。これは骨の音だ。肉体を燃やし、骨だけとなったそれが擦れ合うと、このような軽やかな音がするのである。
真っ白に染まる一面の大地は、まるで雪原のように太陽の光を反射し、目に眩しい。人間の形をしていたものが徐々に風化し、細かな破片となり、そしてそれが幾重にも重なっている。それがこの雪原の正体だ。風がふわりと舞い上がると、その白も踊るように視界を泳ぐ。
乾いた喉に張り付いた唾液の感触。痛い。締め付けられそうな感覚。いつからここは感覚だけの世界になった?
そう、世界は発狂していた。いっそこの骨の破片に抱かれて、安らかに眠ってしまえばいい。そうして、また新しく始めればいい。そう思うのに、歯止めが効かない。
いつの世も、一旦加速するとなかなか止まれないものだ。
「ここはもう、おしまいですね。ブラザー・トマス」
ぽつりと呟くと、破片の煙の向こうにいる人物を見やる。
その人物は随分背が高かった。短い白金の髪が揺れ、同時に黒の聖職衣も、緋色の肩帯も、全てがふんわりと舞い上がる。この男は風に愛されているのであった。
男は今まで口に咥えていた煙草を右手でつまみ、ふ、と白い息を吐き出した。赤い火が生みだしたその灰もまた、こぼれ落ちて白く視界を濁らせる。
「ああ……。次は、どこだ?」
「死海のほうです」
「死海か。嫌だな、まったく」
「本当に」
ふふ、と笑うと、彼は少しだけ伸びてしまった髪をかきあげ、ゆっくりと空を仰いだ。
空だけは、この地面と対象的にどこまでも澄み渡るコバルト・ブルーであった。真っ白い世界はその蒼空を切り取り、全てを無に帰そうとしているのだろう。それはそれで、いい。
どうせ自分は、この世界を見捨ててしまっているのだから。
頬に滴る真っ赤な血液を親指で拭いとり、甘い痛みに少しだけ上機嫌になった。唇の端を吊り上げ、未だ無表情の男に声をかける。
「ねえ、ブラザー。歌ってもいいですか」
「構わねえよ」
男の方は少しだけ、機嫌が悪かったようだ。この濁った空、真のコバルト・ブルーはすぐそこにあるのに、地上から立ち上る『それ』のせいでよく見えないからだろう。良くも悪くも分かりやすい性格をしている。……本当に。
彼はにこりと笑い、破片により屈折した光を全身で享受する。冷たい光は汚れた肌をきれいに洗い流してくれる。とても気持ちがいい。こんなにも熱い空気がまとわりついているのに、心は躍るようだった。
唇に、終末を告げる歌が紡がれる。空気を揺らすは、優しいテノール・ヴォイス。
歌声は祝詞となり、消えていく。そして、
「――」
そこで彼、ホセ・カークランドは目を覚ました。
耳に残る空気の溜まる感覚がひどく気持ち悪い。それで唐突に思い出した。自分は今、日本行きの飛行機に乗っているのだと。この感覚は何度体験しても慣れない。
気を紛らわせようと、視線を逸らした。目を向けた窓の外は、夢の中で見た空と見紛うようである。あの日と同じコバルト・ブルー。雲の上は、こんなにも美しい蒼で。それを見て、ホセは目を細めて笑う。
ああ、あの日もこんな風にきれいな空だった。
それから席の隣に目を移すと、少女が自分の肩にもたれかかり眠っていた。
長い髪は亜麻色で、その柔らかいウェーブが胸元を隠していた。白磁のように美しいなめらかな肌は、若干人間離れしている。瞳を閉じる彼女は、ホセの視線にすら気付かないようでぴくりとも動かない。
本当によく眠っている。これから、どんなことが起こるのか――安らかに眠る彼女には、まだ想像もつかないだろう。だから、もう少しこのままで。もう少しだけ、夢を見させてやろう。
現実は夢のように、甘くも優しくもない。ただそこにあるのは、ナイフの切っ先のような鋭い冷たさと闇より深い絶望のみ。だから今のうちに、優しい夢を見せてやろう。
ホセはそう思いながら、彼女に自分の上着をかけてやった。
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