第四章 (9) フラッシュバック

「――まったく、」

 そしてぽつりと呟く。「あなたたちは。学習能力がないですねぇ」


 刹那。


 頭上から黒い巨大な塊が高速落下し、コンクリートの地面をいとも容易く打ち砕いた。ばらばらと破片が放射状に飛び散り、砂礫が空気を汚した。ホセ自身はと言うと、左腕のワイヤを一時的に校舎に引っ掛け、それよりも高い所に避難していたため、ほとんど実害はなかった。


 煙が風に流され、ようやくその塊の正体が明らかになる。


 黒い塊は昆虫のような姿の化け物であった。口だと思われる箇所からは黄色い液体が垂れ流されている。そしてそれがかかった地面のコンクリートは、しゅうしゅうと音を立てながら白い煙を噴き出していた。強い酸がコンクリートをも溶かしているのだ。


「ふむ、“傲慢Superbia”第三階層、ですか」


 ホセはワイヤを外し、昆虫の脳天に一発蹴りをお見舞いした。ごふっ、と妙な音がした。昆虫が前方へと傾く動作と、ホセがそれの背後に着地するのはほぼ同時。

着地するや否や、ホセの右ワイヤが昆虫の長い触角を捉える。そしてリールを起動させワイヤを無理やり回収すると、ぶつっ、と嫌な音を立て触覚が引き抜かれた。頭の頂点からは大量の血漿が溢れだしたが、赤のプラズマが発生するのと同時にそれは収まる。


 自己再生しようとしているのだ。


 ホセは引っこ抜いた触覚を打ち捨て、極めつけに足でそれを踏み潰した。ぐじゃ、と粘性の音がする。


 その音で、ホセの脳裏に突然脳裏にある記憶が蘇った。


 地面は真っ白な灰と塩に覆われていた。空だけは抜けるような青で、眩しさのあまり思わず目を細めてしまうほどだった。己が手にしているのは、細い剣。刃が太陽の光を反射して、きらりと瞬いた。それを見て、きれいだな、と純粋に思った。

どうして、と呟いた気がする。


 一番に信じていた人が、「己」に対して黙祷を捧げたから。神と聖霊と、そして今から天に召される新たな天使たちに対して。その人は、戦いに赴く際決まって黙祷を捧げていた。その対象がよもや自分になるなどとは、考えたこともなかった。


 黙祷する暇だけは、与えてやった。


 飛び散る血液。真っ白に染まった大地は、その瞬間赤黒く変色してしまった。その手に残るは、肉を斬るぬらぬらとした重みだ。


 抱きしめられた際に感じた体温は、今もその肌に残っている。


 ポケットに、なにかを入れられた。


 己は、わざとそれに気付かないふりをした。それを指摘すれば、きっとこの刃は躊躇ってしまう。殺したくない、という本音を漏らしてしまう。


 もう迷いたくなどなかった。


 さようなら、と己は言葉を吐き出した。


 焦点の合わぬ海色の瞳が、こちらを見つめる。肉を裂く濁音に混じる声。それはまさしく、呪いと同じくらいに禍々しいものだった。



 ――ホセはふ、と息を吐き出す。淀んだ空気が肺を満たしたことで、ようやく現実に戻ることが出来た。


「God damnit……!」


 まただ。

 PTSDであることはすぐに理解できた。音の記憶というものは意外と残りやすい。職業柄戦闘に赴くことはよくあるが、こうも毎回音により動きを止められるのでは話にならない。


 ホセは微かに震えた唇を、きゅっと噛みしめた。


 己にとっては、「あの出来事」はまだ消化し切れていないのである。それを改めて突きつけられてしまった。それだけ、心は深く抉られている。


 諦めと開き直りと、それから己に残る使命と。


 それらを順に確認していくことで、ホセはようやく冷静になっていった。


 昆虫の自己再生が終了する少し前、頭の中が突然すっと冷え、思考が明瞭になった。傷の痛みが嘘のように引いたからかもしれない。


 校舎へと飛ばしたワイヤを巻き取り、身体を浮かせる。狙うは、頭部に複数存在する黒い色をした瞳にあたる部分。


 もう片方のワイヤの先には、ナイフがくくりつけられていた。


 いい加減、フラッシュ・バックに振り回されるのをやめなくては。分かっているはずだろう、とホセは自分に言い聞かせる。


「あれはもう終わったことだ」


 一瞬の気の迷いが手元を狂わせた。ナイフがぶれ、予想外の方向に飛んでいく。しまった、と慌てて回収しようとするが、それを回復した昆虫が見逃すはずがない。


 強烈な体当たり。


 ホセの身体が宙を舞った。受け身を取ろうと手を伸ばし、地面に触れようとする。しかし寸でのところで手を引いた。そこには昆虫が吐き出した強い酸が撒かれ、妙な煙が立ち上っていたのである。代わりにワイヤを伸ばそうとするが、それはどうしても間に合わない。

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