第十六章 その5 おっさん、命を救う

「ハイン様!」


 ゼファーソンの屋敷に飛んで帰ったハインを最初に出迎えたのは、眼鏡をかけたメイドのキーマだった。さすがの彼女もこの慌ただしさに憔悴を隠しきれていないものの、気丈にもピンと背を伸ばし厳粛さを保っている。


「キーマ、ありがとう。みんなは?」


「奥の部屋に」


 そう言って道を開けるキーマ。ハインは無言で頷くと廊下を駆け抜けた。


 そして言われた通り奥の部屋の扉を開ける。


「ハインさん……」


 力加減など一切考えもしなかったおかげで、随分と大きな音を立ててしまった。だが部屋の中にいた全員そんなことを咎める様子もなく、ずんと沈んだ顔のまま立ち尽くしていることにハインはうすら寒いものを感じた。


 マリーナも、ハーマニーも、パーカース先生も、アルフレドも。そして遅れて駆けつけたナディアも、全員が全員、ハインの到着を喜ぼうともせずベッドを囲んだまま、ただ打ちひしがれたように立っていたのだ。


「みんな、ベル様は!?」


「それが……」


「ほんの、ついさっきですが」


 恐る恐るベッドを見る。そこに横たわるのは病的なまでに蒼白い肌の美女。その眼は完全に閉じられており、陶磁器のように繊細で、そして脆そうな指先はぴくりとも動く気配も無かった。


 そしてその指先を両手でつかみ、ふるふると震えたまま床にうずくまる男。放浪の貴族にしてこの混乱の立役者、レフ・ヴィゴットだった。


 間に合わなかったのか!?


 足腰の力が抜けてしまいそうだったが、なんとか体勢を立て直す。


 そこにパーカース先生が身を寄せ、嗚咽を漏らすレフ・ヴィゴットに聞こえぬようそっとハインに伝えた。


「もう呼吸をされていません。心音も……」


「ははは、終わった……終わったよ」


 だがレフ・ヴィゴットにはパーカース先生が何を言ったのかわかっていたようだ。ずっと弱々しく泣いていたかと思うと、突如狂ったように笑いだし、周囲をびくりと震え上がらせる。


「こんな結末を迎えるのなら、私は何のために祖国や家族を捨てたのだろう。ベルを連れ出せばこうなることはわかっていたはずなのに……ははは、私は道化だよ。あれだけ大逸れたことをしながら、結局何も成し遂げていないじゃないか!」


 屋敷中に響くはレフ・ヴィゴットの高笑い。だがその眼は赤く腫れ、大粒の涙が止めどなく溢れ出ていた。


 狂気という言葉では括るに括れない自滅願望に、理解の範疇を超えておぞましさを感じるマリーナたち。だが同時に彼女らはヴィゴットのことをひどく憐れに思えていた。ただ愛する一人の女性のためにその命をも投げ出す覚悟に、同情していた。


「まだだ!」


 そんな諦めの最中にあった一同をすくみ上らせたのはハインの一声だった。


「呼吸していないなら、呼吸をさせればいい!」


 ハインがベッド脇に駆けつけ、堅く閉ざされたベルの顎をわっしと掴む。


「何をする!」


 ヴィゴットが取り乱したように叫ぶが、ハインは聞く耳も持たず指でベルの口を丁寧に開ける。


「無茶ですよ!」


 ハーマニーも飛びついてハインの服の裾を引っ張る。それでもハインは「いいや」と首を横に振ると、乱暴ともいえる手つきでハーマニーを振り払ったのだった。


「僕は最後の一瞬まで、いや誰が諦めても諦めない。救える命は全て救う、それが僕の決めたことだから!」


 あまりの剣幕にハーマニーが手を離し、ヴィゴットも唸り声さえ上げられない。力強く言い切るハインの言葉には、周囲を黙らせるだけの異様な圧力がこもっていた。


 ハインは改めて蒼白のベルの顔をじっと見る。命の灯火が消え失せ、今まさに生命活動を終えんとし、生と死のはざまにある状態。


 その時、彼の目にははっきりと映っていた。静かに眠るベルのすぐ隣に、幼くして溺死したエマニュエル公子の姿が。


 あの時救えなかった命。ここで救えなければ、僕は回復術師を目指す資格はない。


「パーカース先生、生体魔術反応の知見では、停止した臓器を再び動かす方法は無いのですか!?」


「可能性はありますが……まだ実証はされていません」


 不意に聞かれたパーカース先生だが、これまで得た知識と自分の研究成果とを思い出してすぐさま答える。


「その方法でかまいません、どうか力を貸してください!」


 ハインはベルの口に手を突っ込み、喉の角度を整えながら懇願した。


 目の前の命をただ救おうという愚直なまでに必死な姿。パーカース先生は迷うことなく「はい、わかりました」と答えてハインの隣に立つ。


 だが周囲はどよめきを隠せなかった。


「先生、でもそれって……」


 口にしたくとも言葉にできず、イヴが口を押さえる。


 治療に関する魔術は回復術師でない者の使用は認められていない。慣れないものが誤った魔術を施して、人体に悪影響が出るのを予防するためだ。特に効果の実証されていない未知の魔術など、許されるはずもない。


 つまりパーカース先生のこれから取ろうとしている行動は完全にアウトだ。魔術師の資格を剥奪されるどころか、罪人として収監されても文句は言えない。


「先生!?」


 マリーナやナディアらの声が震えている。だが先生はにこりと微笑んで振り向くと、優しく諭したのだった。


「ご安心ください。私は教員として、皆さんの模範となるべきです。残念ながら回復術師の資格は持っていませんが、せめて心の持ちようだけでも示せるならそれで十分です。目の前の命を救うこと、回復術師の養成に携わる者として、その使命を全うするまでですよ」


 パーカース先生の表情は随分と爽やかだった。つい数ヶ月前の彼女ならここまで思い切った行動に出られただろうか。


 生徒たちはただ黙ったまま、ハインとパーカース先生を見守る。自分たちに今できること、それはふたりの処置を信じることだと口にせずとも自然と理解していた。


「心臓に電気ショックを加えます。ハインさん、離れてください」


「はい!」


 ベルの胸にパーカース先生が掌を押し当て、ハインが一歩退く。


 途端、凄まじい衝撃が走りベルの身体が跳ね上がる。


「心臓をマッサージし続けてください!」


 先生の指示にハインがベルの胸に重ねた掌を置き、全身の力を込めて一定のリズムで圧迫を続ける。


 人形のように一向に目覚めぬベルと、ハインの規則正しい息遣い、再び掌に電気ショックを起こすための魔力を蓄えるパーカース先生。


 今まで誰も目にしたことの無い医療風景を、一同は無言で見守っていた。それはレフ・ヴィゴットも同じだった。


「もう一度!」


 再び先生が電気ショックを施し、イヴの身体がまたも跳ね上がる。直後ハインが心臓マッサージを再開し、イヴの細い身体がへし折れんばかりに上下する。


 その時だった。イヴの眉がぴくりと動いたのを、パーカース先生が視認したのだ。


「止めて!」


 ハインを制止したパーカース先生が、そっとイヴの胸に手をかざす。


 連続で電気ショック魔法を使ったおかげで疲労は相当たまっているが、心音を聞くための感覚増幅魔法は易々と使えるようだ。


 そして直後、緊張にこわばっていた表情がようやく緩む。


「拍動が戻ってる!」


 すかさずハインがベルの口元に顔を近づける。


「呼吸も戻ってるぞ!」


 一同が歓声をあげた。マリーナが目頭を押さえ、ナディアがほっと胸を押さえ、イヴは椅子にへたり込む。


「ベル! ベル!」


 そんな一同を掻き分けたヴィゴットが慌てて駆けつける。だがベッドの上に放り出されたベルの手を優しく握ると、その温もりを感じ取ったのか眠っていたベルはゆっくりと目を開き、震える口だけを動かして「ヴィゴット様」と言ったのだった。


 再び顔を埋めるヴィゴット。その背後にアルフレドがそっと近寄ると、先ほど出来上がったばかりの粉薬と水の入ったガラスコップを手に伝えた。


「さあ、これを飲ませて」


 思い出したように頭を上げたヴィゴットは、それらをアルフレドの手から奪うように受け取った。

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