第十四章 その6 おっさん、決意する

「ベル! ベル!」


 血相を変えたヴィゴットが客室に駆け込む。ベッドの上に寝かされていた皇女ベルは激しく動悸し、白い顔からはおびただしい汗が噴き出していた。


「やはりお前の身体には負担がかかりすぎたか」


 とびついて抱きしめたくとも、それはベルの身体に障ることを承知しているヴィゴットは、骨に薄い皮だけが貼り付いたようなベルの手をそっと握りしめ、じわりと涙を溢れさせる。


 そんなふたりをハインたち一行は静かに見守っていた。ヘルベールは今しがたヴィゴットから外した手枷を手に携えながらも、沈む彼の背中をじっと見つめている。


「ヴィゴット様……」


 その温もりを感じてか、息を切らしながらもじっと瞼を開く皇女に、ヴィゴットはすかさず「ベル!」と名を叫んで顔を上げた。


「ありがとう……私をここまで連れ出してくれて……楽しかったわ」


「ベル、そんなこと言うな! まだろくに王国を見て回ってすらいないじゃないか!」


 唾を飛ばし、涙を散らし。顔がどれほどくしゃくしゃになろうとも、おかまいなしに叫ぶヴィゴット。その脇からそっと手を伸ばし、パーカース先生はベルの額に手を添えて診断魔術を唱える。


 先生の手が淡く光る。そしてベルの体内の状態を把握していくにつれ、パーカース先生は驚きに目を開きたらりと汗を垂らすのだった。


「ひどい……生きているのが不思議なくらい……」


 先生はそっと手を離し、二歩下がると横に首を振る。それ以上話すのを憚られたのは、部屋にいた全員が察していた。


 だがそんな危機的な状況にありながらも、ベルはにこりとヴィゴットに微笑みかけるとなおも話し続けたのだった。


「あなたと出会えてから……私は生きる楽しみを初めて知ったような気がする。何も見たことも無い私に、外のことをたくさん話してくれるあの時、私はベッドの上にいながら世界中を冒険しているみたいだった」


「そうだ、これからふたりで見に行くんだ、まだ誰も行ったことがないほど遠くまで。そう約束しただろう!」


 ヴィゴットがベルの両手を取り、自分の手で優しく包む。だがベルは苦笑いを浮かべ、汗に混じってその眼から一筋の涙をこぼして答えた。


「ごめんなさい……その約束は果たせそうに……」


 途端、ベルの全身から力が抜ける。ヴィゴットの手からベルの手が滑り落ち、そのまま布団の上に力無く落ちる。


「ベル!」


 泣き叫ぶヴィゴット。ベルは目を閉じたまま、寝息のひとつすら立てない。


 すかさずパーカース先生が診断魔術を唱えるが、その表情は重苦しいものだった。


「まだ息はあります。ですが……」


 部屋にいた誰もが言葉を失っていた。少女たちは目を押さえ、ヘルバールでさえもヴィゴットから目を逸らしている。


「悲しすぎる……」


 マリーナがぼそっと呟く。静まり返っていた全員の視線が注がれると、マリーナの目からは静かにおお通の涙があふれ落ちていた。


「地位も家族も王国さえも捨てて選んだのに、こんな最期なんて……悲しすぎるわ」


「マリーナ……」


 ヘルバール先生が静かに、しかし咎めるような口調で呼ぶ。


「わかってる。軽薄だなんて痛いほどわかってます!」


 つい感傷的に、声を張り上げる。ここまで王国の崩壊を手招きしていたヴィゴットに同情する余地はない。


「ですがそれでも一途にベル様を愛し続けたヴィゴット様を見て、私は心を動かされざるを得ないのです。正義とか損得とか抜きに、ただ愛する人の幸せだけを願ってすべてを賭けてきたのだから、せめてその愛が報われてもよいのではないかと、そう思うのです」


 嗚咽混じりにぼろぼろと涙をこぼすマリーナに、全員が口を閉ざしてじっと聞き入る。


「僕もだよ、マリーナ」


 最初に口を開いたのはハインだった。 


「目の前に救いを求める命がある。それは貴族でも平民でも敵でも味方でも変わらない、同じひとつの命だ。見捨てることはできない」


「ですがこれほどの状況では、いかなる回復術でも手の施しようが」


 パーカース先生が弱々しく言う。だがハインは手を突き出すと、「いいや、まだなんとかなるかもしれない」と断る。


「彼女はたしか言っていた。この病気はワトキン家に代々伝わるもので、症状を抑える薬も存在すると」


 にわかに一同がどよめく。まさかこんな病状に効く薬が?


「ふふふ、たしかにそのお話は聞いたことがあります」


 そう言ってふらふらと立ち上がったのはヴィゴットだった。すべてが投げやりで、この世の何もかもを諦めたように目から光が失われていた。


「あれでしょう、『クラーケンの涙』と『天馬のたてがみ』を調合して作るという。ですが残念、製法は既に失伝しています。それどころか材料のふたつも、何を意味しているのか全くの不明。こんなの何のアテにもなりませんよ」


 かつて王国が行ったように、北方帝国においても王侯貴族らによる魔術の占有と科学技術の禁令によって、数多の科学技術が失われた。以降、体系的な科学技術はその歩みを止めている。その影響で秘伝の薬の製法も忘れられたであろうことは、誰しも察しがついていた。


 だがハインはまっすぐヴィゴットを睨むと、「いいや」と首を振ったのだった。


「その『天馬のたてがみ』について、心当たりがある」


「な……本当か!?」


 ヴィゴットがびくりと震え上がった。その眼にもわずかながら輝きが戻る。


「山で暮らす民が『天馬草』と呼ぶ植物がある。その根を乾燥させたものは民間療法では薬として使われているんだ。見た目も馬のたてがみのようで、『天馬のたてがみ』と言えばまさにしっくりくる」


「じゃあ、『クラーケンの涙』というのは!?」


 頬を紅潮させ、ナディアが尋ねる。だがさすがにそれについては心当たりも無く、ハインはうーんと唸り始めた。


「クラーケン……海の怪物」


 イヴがぼそりと呟くと、全員各々が考えを巡らして腕を組む。


「海でとれる生薬の原料か……何だろう」


「海藻かしら?」


 あれでもないこれでもないと憶測が飛び交う。だがその時、パーカース先生の脳裏にひとつのアイデアが浮かびはっと伏せた顔を上げる。


「もしかして……龍涎香りゅうぜんこう?」


 しっくりくる答えに、一同が目を大きく開いて「そうだ!」と声をそろえた。


「龍涎香って何ですか?」


 聞き慣れない名にハーマニーが首を傾げる。


「たまに海岸に流れ着いてくる、不思議な香りを出す塊だよ。クジラの体内で見つかると言われているけど、正体はよくわかっていない」


「治るのか!? それがあればベルは救えるのか!?」


 思わぬ突破口を見つけ、ヴィゴットがハインにしがみつく。ヘルバールが引き剥がそうとするも、ハインはそっと手を挙げてヘルバールを制した。


「保証はできない。けど、試す価値はある」


 黙り込んだヴィゴットの眼から静かに涙がどくどくと流れ落ちる。ようやく正気を取り戻した彼は、その涙をゆっくりと拭い小さく「よかった」と呟いたのだった。


「それにしてもそんな植物の根っこと龍涎香なんて、どこにあるものやら……」


 うずくまったヴィゴットを監視しながら、ヘルバールが頭を掻く。直後「そう言えば」と口を開いたのは隣で考え込んでいたゼファーソン氏だった。


「王城の中には各地からの献上品を納めた部屋があります。そこに龍涎香があったはずです」


「そうか、あそこなら!」


 思い出したようにアルフレドも手を打った。


「城の庭園に国内外の植物を集めた植物園がある。もしかしたら天馬草もあるかもしれません」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る