第十章 その6 おっさん、襲われる
「ハイン・ぺスタロット……あの男を絶対に回復術師にさせてはならない。わかるか?」
書斎の執務机に座るゼファーソン氏。彼の話にじっと聞き入るメイドの女はその一言一句を全て覚え込まんばかりに、眼鏡越しに主の顔を見つめていた。
以前ハインが訪ねてきた時にお茶を用意したのもこのメイドだった。普段、彼女はキッチンメイドとして屋敷の厨房を任されている。
「明後日、魔術師養成学園では進級試験が行われる。ここで落第点を取った者は否が応でも退学させられる。お前の役割はハインにこの試験を受けさせないよう、死なない程度に痛めつけることだ」
「はい、旦那様の命令は王命も同然です。初めての命令がこのようなものであることは意外ですが、必ずや成し遂げてみせます」
メイドの女は優雅な仕草でロングスカートの裾を摘み上げる。
「頼んだぞ」
ゼファーソン氏は立ち上がると、皺だらけの手でメイドの頭をそっと撫でる。まるで父親が幼い愛娘に向けるような優しさに溢れていた。
「ところでご主人様、なぜそのハインという男を妨害するのでしょうか?」
「……すまないが話すことはできない。ただ王家のためだ、呑み込んでくれ」
「承知しました」
メイドは再び主に頭を下げて書斎を退出した。
ひとり残されたゼファーソン氏は深く息を吐くと、誰もいないのを見計らって部屋の真ん中の何も置かれていないスペースまで移動する。そしてゆっくりと床に跪き、天井を見上げて涙ながらに祈りをささげたのだった。
「お許しください神様。お許しくださいぺスタロット司祭。王家の存続のためには、彼が王立魔術師養成学園を卒業するのはどうしても避けねばならないのです。そして彼にもまた、別の道で安らかな人生をお導きください」
何度も何度も、身を投げ出すように頭を擦りつける。貴族とは思えぬ一心不乱に懇願するその姿は非常に痛々しかった。
何十回も、何百回も、必死に祈り続けるゼファーソン氏。そのせいか、彼はすぐ近くに先ほどのメイドが立っていることに全く気付いていなかった。
「旦那様、お客様です」
背後から声をかけられ、ようやく祈りを中断する。すでに服はぼろぼろで、側頭部に残った髪の毛もひどく乱れていた。
「こんな時に……どなたかな?」
息を切らしながら訊く主の姿を見慣れているのか、メイドは眉一つ動かさず淡々と答えた。
「はい、ブルーナ伯爵夫人と仰っておられます」
「突然押し掛けて申し訳ありません」
書斎に通されたブルーナ伯爵夫人エレンとその乳母はソファに座り、にこやかに紅茶のカップをつかみながら苦笑いを向ける。
急いで服を着替えて頭髪を整えたゼファーソン氏だが、そんな取り繕いなどまるで無かったかのように振る舞う彼は見事であった。
「いえいえ、奥様のようなお美しい方がおいでになされてどうして断ることができましょうか」
「あら、ゼファーソン様ってば口がうまいんだから」
少しばかり顔を赤らめる伯爵夫人に、ゼファーソン氏もつい頬が緩む。
「しかしどういったご用事で?」
「はい、実は……」
その時だった。伯爵夫人の指先が傾き、カップからお茶がこぼれたのだった。
「あら、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がるエレン。だが白い絹のスカートには、茶色の汚れが沁み込んでいた。
「今メイドを呼びます、お待ちください」
すかさずゼファーソン氏が部屋から飛び出す。
書斎の扉がバタンと閉じられ、今まで取り乱していた伯爵夫人と乳母は無言で視線を交え、そしてこくりと頷いた。
「奥様、今の内に!」
「ええ、急いで!」
乳母が駆け出し、書棚の引き出しを開ける。伯爵夫人も執務机に駆け寄ると、無造作に置かれていた封筒から中の文書を引っ張り出して目を通した。
「こっちはだめだわ、そっちはどう?」
「ありません。やはり証拠を書き残すようなことはしないでしょう」
彼女たちの狙いはゼファーソン氏が何を企んでいるのか、探ることだった。無断で書斎を調べるのは気が引けたが、レフ・ヴィゴットに教えられ、さらに王妃にまで半ば強要されたとなれば動かないという選択肢は無い。領地と領民を守るためにも、伯爵夫人は事実を確かめる必要があった。
「そうね、じゃあこれの出番だわ」
エレンは袖に隠し持っていた小さな何かを取り出す。小さなガラス玉のような見た目の、最新式の通信用魔道具だ。
この魔道具は使用する際に術者が魔力を送り込む必要は無く、短時間ながら魔力を溜め込める特殊な術式が施されている。その時間は持って半日。その間リアルタイムで受信用の通信用魔道具に通信を送り続けるよう仕組まれている。
強く念じて魔力を充填すると、エレンは執務机の下に潜り込んでその魔道具を天板の裏側にそっと忍ばせる。
そして足早に元のソファまで戻ると再び座り込んだのだった。
「奥様、今お拭きいたします」
眼鏡のメイドを引き連れて戻ってきたゼファーソン氏。エレンは「ありがとう、ごめんなさい」と照れ笑いしながら、汚れたスカートの裾を手で示したのだった。
王城で世話してくれたことの感謝を伝え、他に世間話を交わした後、伯爵夫人と乳母は急いで別荘に帰る。そして部屋の鍵を固く閉め、受信用の大型の水晶玉を取り出し机の上に置いたのだった。
「いくわよ」
魔道具にそっと手をかざして乳母と目を合わせるエレン。そして強く念じると、ちょうど水晶玉から話し声が聞こえ始めたのだった。
「旦那様、計画についてですが」
若い女の声だ。
「調べたところ対象は休日になると決まって『赤の魔術師の館』という店に来ているそうです。明日もおそらくはそこを訪ねるでしょう。ひとりになったところを全員でかかれば、いくら屈強な大男といえど手の出しようはありません」
「そうか、ではその方法で任せたぞ」
ゼファーソン氏の声だ。誰かを襲うなど物騒な話、やはりこの男には何かしら裏があったようだ。
「ところでご主人様、なぜこの男にそれほどこだわるのでしょう? 魔術師でもないただの平民ですし、私にはこの男が王家の危機になり得るようには思えないのですが」
「……お前の知るところではない。言われた通り、この男が進級試験を受けられない程度に痛め付けてくれればそれでいいんだ」
「承知しました」
最後に女が告げ、足音とともに部屋を去る。
「進級試験……大男……王家の危機?」
首を傾げる伯爵夫人。何の話やらさっぱりだ。
だがその時、一抹の考えが脳裏を過り、さっと顔が蒼白となる。その驚き様は、送り込んでいた魔力さえ途切れてしまうほどだった。
「まさかそんな……!」
あまりに荒唐無稽で出来すぎた話。だがそうと仮定すれば、何もかもうまく説明がつく。
国王陛下に対して覚えた不思議な懐かしさも、王家のためとゼファーソン氏が秘密裏に動き回るのも。
そして何より、初めて出会った時からずっと抱き続けているハイン・ペスタロットに対する親しみさえも。
「急いで準備して、ハインを守らなきゃ!」
その日の夜、『赤の魔術師の館』から出てきたばかりの5人の学生が店の前で賑やかに話し込んでいた。
「じゃあハインさん、また明日ね」
マリーナとナディアが手を振って別れを惜しむ。そんな彼女たちを家まで送るのはヘルマンの役目だ。
「ああ、試験は明後日だからもう夜更かしはしないで明日はリラックスして過ごそう」
ハインとハーマニーが並んで手を振り、仕事帰りの人混みに消えていく3人を見送るとゆっくりと手を下ろした。
「さあハインさん、帰りましょう」
そしてふたりはコメニス書店へと向かう。この辺りは人通りも多く治安も比較的良いが、それでもひったくりは絶えないので夜女の子がひとりで歩くのは不安が残る。
「ハーマニーももうすぐだね。前よりだいぶ良くなってる、あとは数学が安定すれば合格も堅いよ」
「皆さんの教え方が丁寧だからですよ。それよりもハインさんたちの方が明後日なのですから、私よりもまずはご自分のことを考えてくださいよ」
微笑ましく話しながら歩くふたりだが、角を曲がり人通りの少なくなったその時だった。
今しがた通り過ぎたばかりの細い路地から人影が飛び出し、先を行く二人へと駆け寄ったのだった。
急な足音の接近にハインはとっさに身を震わせる。だが隣のハーマニーはおしゃべりに夢中で、まるで気付いていない。
「危ない!」
相手の顔を見る暇もなく、ハインはハーマニーの手を引っ張って抱え込んだ。
突然の事態に「へ?」と思考が追いついていないハーマニー。だが次の瞬間、ハインの背後から近づいた人影が、夜の灯りを白く照り返した小さなナイフを手にしているのが目に飛び込む。
「き、きゃあああああ!」
ハーマニーを庇うハインは為す術もなく、突き立てられたナイフが深々と背中に突き刺さる。
「ぐふ!」
激痛に堪えるハインが強く抱きしめ、ハーマニーの全身にも大蛇に締め付けられたような痛みが走る。
だがハーマニーにとってそんなことな些細なものだった。絶叫を上げながらもハインを襲ってきた通り魔の姿を焼き付けるため、わずかな明かりを頼りにまっすぐ目を凝らす。
倒れ込むハインの体重に背中から押し倒される中、ハーマニーはその顔を見てさらに驚きの声を漏らした。
「だ、誰ですか、あなたたちは!?」
今しがたハインを刺した通り魔。それは顔にかけた眼鏡を不気味に光らせる若い女だった。
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